夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

根津神社つつじ今が見頃!2019年4月28日現在

2019年4月28日朝の根津神社のつつじ開花状況ですw

今朝、つつじを見に根津神社へお出かけしたら、咲きそろい見頃を迎えていました!

 

根津神社 Nedu Jinja

f:id:odekakeiku:20190428084529j:plain根津神社は、東京メトロ千代田線「根津駅」「千駄木駅」から徒歩5分。メトロ南北線「東大前」からも7分ほどです。

 

f:id:odekakeiku:20190428084530j:plainつつじ苑入場口にも「今お勧め時です」とありました。

 

つつじ苑界隈 Tsutsujien Garden

f:id:odekakeiku:20190428084620j:plain昨年に続き今年も花付きは、なかなか良いです!

 

f:id:odekakeiku:20190428085549j:plain重要文化財の楼門から見る、つつじ苑もなかなか。

 

f:id:odekakeiku:20190428085551j:plainつつじ苑に入るには、神苑整備寄進代として200円かかります。引率の小学生までの子供は無料。入苑は9:00〜17:30。

 

f:id:odekakeiku:20190428084554j:plainつつじ苑に入らなくとも、つつじ苑を見渡せて楽しめます。

 

千本鳥居参道界隈 Senbon Torii

f:id:odekakeiku:20190428084535j:plain千本鳥居参道からも、つつじ苑を見渡せます。

 

f:id:odekakeiku:20190428090238j:plain千本鳥居の両端も、各種様々なつつじ咲き乱れています。

 

f:id:odekakeiku:20190428084653j:plain木々の新緑も綺麗です。

 

乙女稲荷界隈 Otome Inari

f:id:odekakeiku:20190428090454j:plain千本鳥居参道の途中にある乙女稲荷

 

f:id:odekakeiku:20190428084645j:plainこの界隈にもつつじが。こちらは、まだこれからかな。

 

つつじまつり

f:id:odekakeiku:20190428085920j:plain

根津神社では、5月6日まで「つつじまつり」を開催中です。

奉納演芸やパレードなど、根津の街はさまざまなイベントや出店がでて賑わいます。

10連休、お出かけしてみてはいかがいでしょう。

 

谷中・根津・千駄木・上野: 湯島 (散歩の達人handy)

谷中・根津・千駄木・上野: 湯島 (散歩の達人handy)

 

 

春の自然教育園は、可憐な花が咲き乱れる都心のオアシス

今回は、春の自然教育園について。

国立科学博物館付属 自然教育園

f:id:odekakeiku:20190422224248j:plain自然教育園は、JR山手線の「目黒駅」、地下鉄「白金台駅」から歩いて7、8分ほどにある、国立科学博物館付属の植物園。

 

f:id:odekakeiku:20190422224252j:plain山手線内の都心に残された自然を保護すべく、入園も人数制限される。

入園時に渡されるリボンがその目印。

と言っても、今まで何十回と訪れたけど、まだ入場制限にかかったことはないけどね。

 

f:id:odekakeiku:20190422224254j:plain縄文時代にこの地に人が住み始め、室町時代に白金と呼ばれる頃になると、豪族の白金長者の屋敷がこの地にあった。

その後、江戸時代には高松藩松平家の下屋敷、明治時代になると陸海軍の火薬庫、対象時代には宮内省の管轄になり、朝香宮邸が建設される。

戦後は、一時期、外務大臣官邸になったりと紆余曲折し、昭和37年に自然教育園として開園された。

 

f:id:odekakeiku:20190422224301j:plain春になると、入ってすぐの「やまぶき」が真っ黄色に咲き乱れる。

 

f:id:odekakeiku:20190422230636j:plainやまぶきを見て思い出すのが

「七重八重花はさけれど山吹の 実のひとつだに泣けぞ悲しき」

で、お馴染みの太田道灌だが、この地も道灌とは無縁ではなく、戦国時代には道灌の曾孫が所領していたという記録があるそうだ。

 

裸足で景色を楽しむ

f:id:odekakeiku:20190422224316j:plain見所の多い自然教育園だけど、なかでも個人的に好きな場所は、この東屋。

 

f:id:odekakeiku:20190422224319j:plainこの東屋の奥の場所は、土足厳禁。履物を脱いであがる場所になっている。

 

f:id:odekakeiku:20190422224323j:plainそしてここから、四季折々の水生植物園を眺めるのが好き。

 

のうるし

f:id:odekakeiku:20190422232259j:plain河川敷や湿地帯に生息する「のうるし」

f:id:odekakeiku:20190422232306j:plain茎からうるしに似た乳白色の液が出てきて、触るとかぶれるところから、この名前がついた。有毒植物で食べると胃腸炎を起こすそうです。

 

f:id:odekakeiku:20190422233406j:plainそれにしても、ここの空は広い。山手線の内側にあるとは思えないほどの空間。

 

f:id:odekakeiku:20190422233404j:plainマガモも普通に違和感なく、ひょっこり現れます。

 

バイモ

f:id:odekakeiku:20190422233541j:plainバイモという名前だけど、芋ではない。

 

 

f:id:odekakeiku:20190422233544j:plain別名をアミガサユリ。観賞用としてでなく、漢方薬の原料にもなる。

 

ひとりしずか

f:id:odekakeiku:20190422233556j:plain名前も花の形状も気になる「ひとりしずか」

 

f:id:odekakeiku:20190422233601j:plainブラシ状の花が咲きます。

我が家でつかってる歯間ブラシにそっくり。個人的に「歯間ブラシ」というあだ名をつけてしまったけど、「ひとりしずか」の名前の由来は、花が清楚なところから静御前にたとえて付けられたとか。

 

にりんそう

f:id:odekakeiku:20190422233611j:plain2輪の花をつけることから名付けられた「にりんそう」

 

f:id:odekakeiku:20190422233627j:plainよく見ると2輪だけでなく、1輪もある。3輪、4輪もあるとのこと。何輪かじっくり見るのも、おもしろい。

 

いちりんそう

f:id:odekakeiku:20190422233634j:plainそして、こちらは「いちりんそう」。

いちりんそうにも、2輪つけるものもあるそうですよ。

カラー版 東京の森を歩く (講談社現代新書)

カラー版 東京の森を歩く (講談社現代新書)

 

 

詩経の「桃夭」を読む。結婚式や婚姻での祝い事に詠まれ続けて来た漢詩

今回は、最古の漢詩集、詩経より昔より結婚式や婚姻の祝いの場等で詠み継がれて来た「桃夭」を読んでみます。

 桃夭(とうよう)

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「桃夭」

桃之夭夭 灼灼其華

之子于帰 宜其室家

 

桃之夭夭 有蕡其実

之子于帰 宜其家室

 

桃之夭夭 其葉蓁蓁

之子于帰 宜其家人

 

詩経[西周]

 

書き下し文

桃の夭夭(ようよう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たる其(そ)の華(はな)

この子ゆき帰(とつ)がば 其の室家(しつか)に宜(よろ)しからん

 

桃の夭夭(ようよう)たる 有蕡(ゆうふん)たる其の実

この子ゆき帰(とつ)がば 其の家室(かしつ)に宜しからん

 

桃の夭夭(ようよう)たる 其の葉 蓁蓁(しんしん)たり

この子ゆき帰(とつ)がば 其の家人(かじん)に宜しからん

 

 

用語の意味

  • 夭夭:若々しいさま。美しく勢いがあるさま。
  • 灼灼:花が美しく盛りに咲いているさま。
  • 于帰:嫁にとつぐ
  • 室家:嫁ぐ先、嫁ぐ家。家族。家庭。(家室も同じ)
  • 有蕡:実が多くなるさま。実が大きいさま。
  • 蓁蓁:葉がたくさんしげるさま。

一章めでは桃の花が咲き、二章めで桃の実がなり、三章めで葉がしげる様子を詠っています。

結婚を祝う歌で、桃の花は綺麗な花嫁を、桃の実は子宝、葉がしげるは繁栄を意味しています。

 

一章めで「室家」となってるのに、二章めで「家室」となっているのは韻の関係から

  1. 「華(か)」→「家(か)」
  2. 「実(じつ)」→「室(しつ)」
  3. 「蓁(しん)」→「人(じん)」

他の詩経の作品同様、この詩も詠み人知らず作者不明で、およそ三千年以上前に作られたものと思われます。そんな最古期に属するこの漢詩でも、ちゃんと韻を踏むことを意識して作られているのに驚きです。

 

桃は邪気を払う

f:id:odekakeiku:20190325120607j:plain桃は古来より不思議な霊力が宿るといわれ、魔除けにも用いられて来ました。

その枝で弓をつくれば、よく命中し、桃の実は健康に良いとされ、また葉は神霊が降り立つ場ともされています。

日本でも、古事記では黄泉の国より逃げ帰る伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけて鬼女を追い払ったり、童話にも「桃太郎」があったり、雛祭りのことを「桃の節句」と言ったり、いずれも桃は邪気を払うというところからきています。

 

詩経

詩経は中国最古の詩集。紀元前12世紀から紀元前6世紀ごろにかけての古代歌謡や民謡を集めたもので、作者はいずれも不明です。

 

f:id:odekakeiku:20190325150229j:plain孔子像 詩経をまとめたのは孔子?

中国では、古くから孔子(前551〜前479)が編纂したと言われていますが、真相は不明。やはりまとめたのは、孔子でないと思われます。

おそらくは宮廷の関係者が、地方をまわって集め標準語に改めたものをまとめたものと推測されます。

どの詩も最初の二語をタイトルにしていますが、桃夭では二語めの「之」を用いて「桃之」としてはつまらないので、三語めの「夭」を用いて「桃夭」としているようです。

  

 参考図書:NHK新漢詩紀行 友愛深厚篇 石川忠久監修 NHK出版

漢詩を読む①宇野直人 江原正士 平凡社 

 

漢詩の朗読といえばNHK漢詩紀行でおなじみの江守徹さん思っていましたが、寺田農さんの淡々とした詠みもなかなか良いです↓

吟じたい漢詩80選

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漢詩入門 (岩波ジュニア新書)

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100年前のステレオカメラ、スパイカメラ、銃型カメラなど古今東西の珍しいカメラが集結。日本カメラ博物館。CP+2019

パシフィコ横浜で開催されているCP+2019。その中で、日本カメラ博物館が個人的にとてもおもしろかったので、少し記載しておきます。

 

日本カメラ博物館

f:id:odekakeiku:20190301102156j:plain日本カメラ博物館は、日本カメラ財団が運営。

 

 

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CP+のルーツとなる日本カメラショーに1960年の第1回から関わっているとのこと。

 

f:id:odekakeiku:20190301160451j:plain今回はCP+が10回目を迎えることから、10のテーマで古今東西色々なカメラを紹介しています。

 

10年前のカメラと100年前のカメラ

f:id:odekakeiku:20190301160630j:plain10年ひと昔とはよく言ったもので、カメラの進歩は今や日進月歩です。

しかし100年前のカメラもあなどれません。

 

f:id:odekakeiku:20190301160636j:plainステレオコダック1型 【1919年・イーストマンコダック・アメリカ】

左右のレンズでそれぞれ撮影し、2枚の写真を同時に見て立体視を得る「ステレオ写真」を撮影できるとか。

100年前にはもうこういう発想があったんですね。

 

 まだまだ100年前のカメラを紹介したいのですが先を急ぎます。

極小型カメラ

f:id:odekakeiku:20190301160412j:plain極小カメラの歴史は古く、スパイカメラや玩具のようなカメラも製造されてきました。

 

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ミゼット(画像中央)【1937年・美篶(みすず)商会・日本】

日本製のいわゆる豆カメラ。13円50銭という当時としても安い価格で販売されたとのこと。戦後は進駐軍のお土産にとしても好評だったそうです。

 

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マッチボックスカメラ【1944年・イーストマンコダック・アメリカ】

OSS(CIAの前身)用に、約1000台作られたそうです。

 

f:id:odekakeiku:20190301160404j:plain固定焦点25mm F5レンズを搭載。これは気がつきません。

ところで、今のスパイはどんなカメラを使用しているんでしょうね。

 

銃型カメラ

f:id:odekakeiku:20190301160541j:plain銃型のカメラも歴史は古いようです。玩具のカメラだけでなく、射撃訓練用や暴動の記録に使われたそうです。

 

f:id:odekakeiku:20190301160557j:plain

マミヤ速写カメラ【1954年・マミヤ光機・日本】

マミヤからも出していました。通称マミヤピストル。135フィルムを使用。

カッコイイけど、これで街中のスナップを撮る勇気はないですね。

 

f:id:odekakeiku:20190301160559j:plainフォトレボルバー【1915年・E.クラウス・フランス】

写真乾板を48枚装填可能。乾板の厚さは0.8mmで、グリップ下部を引くと乾板が交換されるそうです。

 

f:id:odekakeiku:20190301160602j:plainドリュー2ー16【1954年・ドリューカメラ・日本】

暗いところでは専用のマグネシウム閃光弾も使って撮影できるとかwちょっと見てみたいです。

 

f:id:odekakeiku:20190301160611j:plain回転式射撃監査写真機【1942年・小西六(現:コニカミノルタ)・日本】

旧日本陸軍に採用された射撃監査用カメラです。

 

f:id:odekakeiku:20190301160613j:plain箱の内側にも記載がありました。横に五芒星の印が押されているので、やはり旧日本陸軍所有のものでしょう。

 

f:id:odekakeiku:20190301160617j:plain照準器が、何ともものものしいです。これで動物園で写真撮ってたら、間違いなくニュースになりますw

 

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ソルトン=ピッカード射撃カメラ マークIII 【1915年・ソルトン=ピッカード・イギリス】

先ほどの旧日本陸軍で使われていた回転式射撃監査写真機の、モデルになったのがこちら。

 

f:id:odekakeiku:20190301160626j:plainイギリスだけに一瞬「007」と見えましたが、3007でした。

側面のレバー(どれ?)でフィルム送りができるようです。

 

 トイカメラ・キャラクターカメラ

f:id:odekakeiku:20190301213717j:plainミック・ア・マチック【1971年・チャイルドガイダンスプロダクツ・アメリカ】

これはミッキーマウスを模したパチモンということでしょうか。

鼻のところにレンズがあります。

 

f:id:odekakeiku:20190301220100j:plainバービービデオガールドール【2010年・マデル・アメリカ】

こちは胸にレンズがあり、背中に液晶モニターがあります。

 

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快獣ブースカカメラ【製造年不明・会社不詳】

「ぼくはブースカ ブー 力持ち〜〜♪」あの快獣ブースカのカメラというのに、ユーモアを感じますw

 

古今東西、色々なカメラが集結しており大変楽しめました。

ぜひ、実物を見にCP+2019へ足を運んでみてください。

 

CP+2019

パシフィコ横浜

2019年2月28日(木)〜3月3日(日)

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駄カメラ大百科

駄カメラ大百科

 

 

東博の顔真卿展に行く前に予備知識。人物としての顔真卿を知れば「祭姪文稿」の良さがわかる!

国立東京博物館で開催されている特別展「顔真卿」を見に行く前に、書についての予備知識を学んでメモしておこうという記事の2回目。

 

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今回は、特別展の主役、顔真卿について。

来日している顔真卿の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」を見るには、まず人物としての顔真卿を知ると、より面白味が増します。

と言っても、顔真卿って書では有名だけど、あまり日本人には人物としてはなじみないような。うだうだ書いても読まれなそうなので。

そこで、切り口を変えて、まずは顔真卿(709年〜785年)の生きた時代背景を判りやすく理解するために、同時代を生きた、誰もが知る超有名人を2名を先に登場させておきます。

 

傾国の美女「楊貴妃」と、詩聖「杜甫」

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世界三大美人の1人にあげられる「楊貴妃(ようきひ)」

誰もが聞いたことのある「国敗れて山河あり・・・」で有名な詩聖「杜甫(とほ)」も、実は顔真卿と同時代を生きた人物です。

 

楊貴妃は、もともと玄宗皇帝の息子の妃として迎え入れられましたが、色々あり父親の玄宗皇帝の皇后となります。

玄宗皇帝は、楊貴妃のあまりの美しさに魅了され、政治はないがしろになりがち。

そこに接近してくるのが、安禄山(あんろくざん)という現在のサマルカンド出身でソクド人と突厥人(トルコ系)の混血の軍人です。

安禄山は楊貴妃と玄宗皇帝に巧みに近づき、2人の信頼を得ます。

皇帝の周囲の要人達は「安禄山は謀反を起こすかも知れない」と度々皇帝に進言しますが、安禄山を信用しきっている皇帝は丸無視。むしろ安禄山を悪く言う者を追い出してしまうほどでした。

そしてついに755年、安禄山が反乱を起こします。

反乱軍の多数は、異民族や朝廷に対し良く思わない者ばかりの寄せ集め。反乱軍による虐殺、略奪、強姦などの残虐な行為が各地でくり返されます。

反乱軍は一挙に唐の副都「洛陽」まで快進撃を続け、安禄山は洛陽で新政府を樹立し自らを大燕皇帝と宣言します。これが世に言う安禄山の乱または安史の乱です。

 

f:id:odekakeiku:20190223112905j:plain「紀泰山銘」唐玄宗筆 726年 紙本墨拓 東京国立博物館(特別展 顔真卿 ここは撮影可。玄宗自ら撰文し書いた隷書の大作。山東省泰山の崖に現存。) 

玄宗皇帝は、迫り来る反乱軍に十分に対抗できず、唐の都、長安を捨て成都へと楊貴妃を連れて逃げます。

その逃走途中、皇帝を惑わせ安禄山の乱を招いた楊貴妃に対する不満が側近や護衛の兵からもでて、楊貴妃とその一族は殺害されます。

 

唐の都、長安陥落。この知らせは遠く日本にまで伝えられるほどの大ニュースでした。

そして、この長安陥落の惨状を目の当たりにしたのが、後に詩聖とまで呼ばれるようになる杜甫です。

当時、朝廷の官職に付いていた杜甫は、反乱軍に捕まり拘束されますが後に脱出して成都へ逃れました。

杜甫は、この長安陥落の感情を、あの有名な詩にして詠みます。

国敗れて山河あり 城春にして草木深し

時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

烽火三月に連なり 家書万金にあたる

白頭掻けば更に短く すべてしんに勝へざらんと欲す

「春望」  

烽火(ほうか):のろし、戦火

f:id:odekakeiku:20190221140829j:plain杜甫は戦乱を逃れ、成都に草堂を建て暮らす。杜甫草堂の杜甫像。管理人撮影

顔真卿と杜甫は互いに書を交わしたことがあるようですが、おそらく楊貴妃も含めた三者ともに実際にはあまり接点は無かったと思います。しかし、誰もが知る楊貴妃と杜甫は、顔真卿の生きた時代背景を理解するうえで重要な人物です。

 

さて、安禄山の乱(安史の乱)で、当初より敗戦続きの唐軍でしたが、はじめから反乱軍に対し徹底抗戦しよく守っていたのが平原太守(現在の山東省徳県の地方長官)だった顔真卿と、その一族です。

 

顔真卿<がんしんけい>

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709年長安に生まれる。小さい頃に父を亡くし、子供の頃は家が貧しく衣食に困るほどだったそうです(顔魯公神道碑による)。

 26歳の時、科挙の中でも最難関の進士に及第。この若さで進士及第は、まさにエリート中のエリート。

高級官僚として要職に就きますが、儀礼や高徳を重んじる実直な人柄が周囲から疎まれ左遷を繰り返します。たとえ目上の上司でも徳と礼に反していれば、容赦無く糾弾していたようです。

753年45歳の時に、平原太守(現在の山東省徳県の地方長官)に左遷。

平原太守として赴任すると、安禄山の反乱の予兆をいち早く察知。顔真卿は長雨の備えと偽り城を増強し、密かに食料を確保、戦力となる若者を集めます。

安禄山は使者に平原の様子を探らせますが、顔真卿はその目を欺くため毎日のように宴会をしていたそうです。

そして755年、安禄山の乱(安史の乱)が勃発。

周囲が反乱軍に制圧され唐軍が劣勢になるなか、顔真卿の有事に備えていた軍は反乱軍に徹底抗戦。

やがて反乱軍は鎮圧されて、顔真卿は功績を称えられ唐の都長安に大臣として迎えられますが、また幾度にも妬まれ中央から追い出され左遷をくりかえします。

782年、安史の乱で唐軍として戦った李希烈が、こんどは唐に対し反乱を起こします。「顔真卿ほどの人物なら説得に応じるかもしれない」と、顔真卿を妬んでいた宰相の盧杞は、顔真卿を使者として反乱軍に向かわせようとします。

「一元老を失う」周囲の要人は説得に行くのは危険すぎると宰相盧杞や顔真卿に言いますが、顔真卿は反対を押し切り「これは君命なり」と、あえて策略と知りながら反乱軍の中へ説得に行き捕らえらます。

李希烈は、顔真卿ほどの人物、ぜひ宰相に迎えたいと説得しますが当然拒否されます。殺すと脅しても、火あぶりにすると言っても顔真卿自ら飛び込もうとする有様。顔真卿を幽閉しつつ生かしておくも、やがて殺害されます。享年76歳。

 

出世よりも高徳や礼を重んじ、国のために尽くし、文官でありながらも反乱を未然に察知し、備えを怠らず、有事の際は勇猛果敢に戦闘を指揮。

高級官僚ともなれば特に何をしなくても貢物や賄賂で贅沢三昧できる時代、曲がった事を嫌い思慮に富み、そして書の達人。顔真卿のその人柄が、今でも賄賂や出世欲が蔓延する中華圏の人々に愛されている理由なのかもしれません。

 

祭姪文稿(さいてつぶんこう)

f:id:odekakeiku:20190221170129j:plain顔真卿筆 「祭姪文稿」 現在 台北国立博物院所蔵

 前記の通り、顔真卿は平原で反乱軍に対し勇猛果敢に戦います。

また同様に、顔真卿の一族で常山太守であった 顔杲卿(がんこうけい)とその子、顔季明(がんきめい)も反乱軍に土門で交戦します(祭姪文稿にある「土門を開く」)。

徹底抗戦する顔杲卿軍は、やがれ反乱軍に制圧されました。降伏に応じなかった顔杲卿の目の前で子の顔季明は首をはねられ、顔杲卿も洛陽で惨殺刑に処せられ一族も皆殺しにされたそうです。

 乾元元年(758年)顔真卿は、顔一族を集め安否を確認します。そこに兄、顔季明の首を携えてやってきた顔泉明がやってきます。

非業の死を遂げた甥(祭姪文稿の「姪」は兄弟の子という意味)の顔季明と、その父の顔杲卿を思い、顔真卿は嘆き悲しみ震える手で追悼の文を書きます。これが「祭姪文稿」顔真卿五十歳の時の肉筆の書です。

これは下書きで清書ではありませんが、下書きゆえの感情の激しさが一字一字に表れ、訂正し塗りつぶした箇所にも悲愴感が漂っています。

顔真卿の非常に数少ない肉筆であることだけではなく、これが代々の皇帝をはじめ人々を感動させてきた書であり、戦乱の悲しみを見る者にリアルに物語る貴重な歴史的資料としても、無二の至宝と言われる所以なのかもしれません。

 

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王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

 
マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

 

 

知れば知るほど面白い「書」の世界。王羲之、蘭亭序、初唐の三大家、欧陽詢、虞世南、褚遂良、則天文字。令和は蘭亭序の影響受けた?

 

顔真卿「祭姪文稿」来る

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2019年1月に国立博物館の特別展で「顔真卿」が来るという話を聞いて、思わずチケットを購入!

私ごとですが高校時代、書道(書く方ではなく、書の周辺知識を楽しみに感じて授業に出ていたw)を選択しており「顔真卿」と聞くとどうも反射的に反応してしまいます。

顔真卿は唐代の書家で、書道をかじったことがある人は、知らない人はいない書の大家の中の大家。その真筆は極めて少なく、その中でも傑作中の傑作と言われるのが「祭姪文稿」が初来日とあって、大きなニュースに・・・っていうほどどうも日本ではあまり話題になっていませんが、高校時代何度も見返した顔真卿の「祭姪文稿」の実物をどうしても見たい!

紙の耐久年数が長くても1000年と言われる中、顔真卿の真筆ともなれば1200年は軽く過ぎています。それゆえ、現在所蔵している台北の故宮でも滅多に展示しない一品。

恐らくこの機を逃せば、二度とお目にかかれないでしょう。

 

高校で学んでから二十年近くが経ち、「書」についての知識も気がつけばうる覚え状態。この機会に改めて調べ直し、整理してメモ書きとします。

 

まずは書の最高峰の書聖と言われる人物、王羲之から。

王羲之<おうぎし> (303年〜361年諸説有り)

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東晋の政治家、書家。能書(書の達人)を輩出する名家の生まれ。

それまでの書の伝統にこだわらず、時代を先取りした表現を完成させ、書を芸術の域にまで高めたと言われています。

時代は下って、唐の第二代皇帝太宗(在位629〜649年)は、全国にある王羲之の書を大枚をはたいて集めさせたのもあり、中国全土から消えた王羲之の書は、ごく一部の宮廷関係者以外目にすることができなくなり神聖化しました。

しかし現在、王羲之の真筆は確認されていません。なぜなら、太宗が崩御した時に王羲之の真筆のほとんどを陵墓に一緒に埋葬してしまったから。そして盗掘にでもあったのか王羲之の真筆は発見されていません。

盗掘されたとしても、どこからか出てきそうだけど、出てきていないということはまだ太宗の広大な陵墓のどこかに埋まっているのか、それとも別の所に隠してしまったのか・・・。

日本では7世紀から9世紀にかけて、真筆ではないにしても王羲之の作品が遣唐使の使節によってもたらされ、王羲之の書や下記に紹介する蘭亭序などの作品は手本として長く重んじられ、万葉集はじめ日本の古典作品の作風に大きく影響を及ぼしました。

  

蘭亭序<らんていじょ>

f:id:odekakeiku:20190222210103j:plain「定武蘭亭序(呉炳本)」王羲之(303?〜361?)東京国立博物館

王羲之の書の中でも、会心の書と言われるのが「蘭亭序」。

王羲之が蘭亭で開いた曲水の宴の際に作られた詩集の序文として、書かれたものの草稿、下書きです。

曲水の宴は、日本の平安朝の曲水の宴のように、流れて来る盃の酒を飲みほし詩を詠むという宴。王羲之は蘭亭序(の下書き)を書いた時、そうとう酒に酔っていたようですが、後に何度書き直しても酒に酔って書いた最初の草稿を上回るものは書けなかったとのこと。

 

王羲之の書を集めていた唐の皇帝太宗は、最高傑作の「蘭亭序」だけがなかなか手に入らず、最後は騙し取る形で入手したと伝えられています。

太宗は臣下の欧陽詢(おうようじゅん)に臨書させ、それを石に刻し拓本し臣下に配ったと言われます。

蘭亭序の真筆も、太宗の陵墓に副葬されたとされていますが真筆は発見されていません。

 

追記:新元号「令和」も蘭亭序の影響受けたもの?

ちなみに、新元号として発表された「令和」も万葉集の

「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」

より採用されたようですが

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蘭亭序は八行目の

是日也天朗気清恵風和和暢仰

「天朗らかに気清み、恵風和暢す」 

の影響を受けたとも言われています。

 

初唐の三大家「欧陽詢」「虞世南」「褚遂良」

 初唐の三大家と言われる欧陽詢(おうようじゅん)虞世南(ぐせいなん)褚遂良(ちょすいりょう)も王羲之の蘭亭序を臨書しており、その三大家の拓本が、現在、台東区の書道博物館等で見ることができます。

太宗皇帝は、欧陽詢の蘭亭序を特に気に入っていたようです。

 

欧陽詢<おうようじゅん>(557年〜641年)

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「九成宮醴泉銘」(一部)欧陽詢筆 国立国会図書館

欧陽詢の代表作の1つに「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれんせいめい)」があります。太宗皇帝が避暑地の九成宮に避暑で訪れた際、甘い水(醴泉)が湧き出たことから、これは良い事がある前触れとして、記念に碑を作らせました。その碑の文字を書いたのが欧陽詢。

九成宮醴泉銘は、その完成度と格調の高さから楷書の手本とされ多くの拓本がとられたため碑はすり減っていると言われます。今も陝西省に現存。

 

虞世南<ぐせいなん>(558年〜638年)

f:id:odekakeiku:20190225140706j:plain「孔子廟堂碑」(一部) 虞世南筆 国立国会図書館

虞世南の代表作に「孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)」があります。こちらも欧陽詢の九成宮醴泉銘と共に楷書の作品の傑作として、今日まで「書」を学ぶものなら一度は習う手本とされています。

 

褚遂良<ちょすいりょう>(596年〜658年)

褚遂良は、欧陽詢、虞世南より40年後の人物です。

虞世南亡き後、書の重鎮がいなくなることを憂いていた太宗皇帝は褚遂良の噂を聞き、書道の顧問として側におきました。やがて太宗の信頼を得て、太宗亡き後も太宗の子高宗皇帝にも支え重鎮として活躍します。

ある時、高宗が皇后を変えたいと重臣に問いますがが、褚遂良は、徳に反すると大反対。結局、高宗が押し切る形で、則天武后が皇后になります。

いつの時代も女性の恨みは怖いもの。皇后になることを反対された則天武后は、褚遂良に対し死罪を命じますが、太宗より「どんなことがあっても褚遂良には死罪を免ずる」との遺詔があったため刑死されることを免れて、現在のベトナムまで流されその地で没しました。

 

則天武后が出てきたので、ついでに則天文字も・・

武則天と「則天文字」

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いきなりですが、水戸黄門こと徳川光圀。この光圀の「」の字は則天文字と呼ばれる唐の時代に少しの間しか使われていなかった超特殊文字です。

唐の第二代皇帝太宗の子で、三代皇帝になった高宗。高宗は高句麗を滅亡させ朝鮮半島を平定します。当時の日本も、百済に援軍を出し連合軍として戦っています(そして負けます)。世に言う「白村江の戦い」です。

やがて高宗は病弱になり政治にも関心がなく、しだいに皇后の武則天(※則天武后)に実権を握られてしまいました。

※日本では皇后としての呼び名の「則天武后」が有名ですが、中国では皇帝としての名の「武則天」と呼ぶのが一般的だそうです。

 

高宗死後、武則天は、中国史上最初で最後の女性の皇帝として即位し「唐」から「周」へと国号を改めます。

武則天は何かと改変が好きだったらしく、「皇帝」・「皇后」という呼称も「天皇」・「天后」と改めたり、「洛陽」を「神都」と改めるなど呼称、地名の改変を行うだけでなく、漢字の改変も行い則天文字を作ります。

しかし武則天死後、則天文字は廃止され、今では多くの則天文字が忘れ去られましたが、日本では徳川光圀の「圀」の字などが残っています。

ちなみに、それまで日本を「倭国」と読んでいたのを、武則天の時から「日本」に呼称が変わっているそうです。それを改変したのも一説によると武則天だとも言われています。

 

さて、武則天の治世が終わったあと、王羲之以来の書の巨人が産声をあげます。 

それが今回の主役の顔真卿なのですが、ちょっと長くなってしまので、顔真卿については次の記事に。

  

www.tabijiphoto.com

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王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

 
マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

 

John Denver ジブリ「耳をすませば」 カントリーロード Take me home

1995年公開 スタジオジブリの「耳をすませば」

耳をすませば [DVD]

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冒頭はオリビア・ニュートン・ジョン(Olivia Newton John)の「Take Me Home, Country Roads/カントリー・ロード」からはじまる。

 

Olivia Newton Johnのカントリーロード

40/40~ベスト・セレクション

40/40~ベスト・セレクション

 

 モデルとなったとされる聖蹟桜ヶ丘と多摩川の夜景からはじまり、主人公の月島雫がファミリーマートで牛乳を買って団地の自分の家まで帰る。

このごく日常の当たり前の光景だが、オリビア・ニュートン・ジョンが歌うカントリーロードのせいか、90年代の都市風景とあいまって、なんともいえないリアルな雰囲気を感じつつ物語に世界に自然と吸い込まれていく。

これがオリビア・ニュートン・ジョンのカントリーロードだから、雫の住んでる街、団地の光景とよく合っているのであって、これがカントリーロードの原曲、ジョン・デンバーのカントリーロードだったらどうだったろうか・・・?

なんてどうでもいいことを以前、少し思ったことがあった。

 

John DenverのCountry Roads

ベスト・オブ・ジョン・デンバー

ベスト・オブ・ジョン・デンバー

 

 カントリーロードの原曲を作詞作曲(他2名との共同)したジョン・デンバー の「Take Me Home, Country Roads」は、言わずと知れたカントリー調の曲。はっきり言って、あの雫の住む街の光景と合わない。

雫がもし、山々に囲まれた田舎の中学生で、個人経営のデイリーヤマザキで牛乳を買って田んぼのあぜ道のなかを帰宅するシーンだったら、こっちのジョン・デンバーの方が合っていたかもしれない。

 

耳をすませば サウンドトラック

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