平成最後の夏、94歳になられた今もなお御元気な親戚の伯母さんより原爆投下直後の生々しい実体験を聞かせていただきました。
今まで、多くの人に語ることもなかった原爆体験をこのまま埋もれさせては人類の大きな損失と思い、ご本人了承のもと録音をさせていただき、テープ起こしをし、実際にその場所を巡り、図書館等で資料を調べ証言と照らし合わせ、まとめさせていただきました。ほぼ証言のままです。
原爆投下時爆心地より1.2kmの所におられながら、奇跡的に助かった一被爆者の貴重な体験談です(爆心地より1.2kmいた方の50%は、その日のうちに亡くなったとされています)。
ご好意により名前、ご本人の写真の公開も構わないとおっしゃっていただきましたが、匿名にて掲載させていただきます。
〔取材日 平成30年 8月5日 広島にて〕
73年めの証言
明日でちょうど73年になりますけど、経ってみたら早いですね。
8月6日8時15分ごろ
私は、広島放送局(現在のNHK広島放送局)に出勤するために家を出ようと思ったんです。
時計を見たら、もう8時15分に近かったんですよね。
さぁこれは急いで歩いて行かんと、放送局に間に合わんのです。
家が比治山の下の富士見町。放送局が鉄砲町だったんです。
家の近くに山陽中学校(現在山陽高等学校。原爆投下で教員19人・生徒486人が亡くなる。現在跡地にはフジグラン広島が建つあたりか)があったんです。
原爆投下直後
山陽中学校跡地 現在はフジグラン広島が建つあたりと思われる
山陽中学校の赤レンガの塀のところを、歩いて急いでいたわけです。
バスがあるわけでもなく、小走りに出かけて流川に出るために、赤レンガの塀のところを通り過ぎたんですね。
その瞬間に、パーっと光りが来たんです。
日傘をさして歩いていて、側にかなり大きな木が植えてあろ、赤レンガを通り過ぎたと思ったら閃光を受けて、まーものすごい光りで。
気がついたら日傘もない、下げていた袋もない。
山陽中学校側の家の軒下に飛ばされて、瓦と赤土が頭へどんどんどん落ちて来たんですよね。
それで、あがいて、なんとか起きあがって、足が助かっていたんですね。
でもふと気がついたら、左手が何かに当たって手首を骨折していました。
のちに先生が「あなた奇跡ですよ。広島中心で直に被爆受けて、手の骨折くらいですんで」と言われたんです(今でも手に骨折の跡)。
でも、どんどんどん手が腫れて来たんです。下げたら手は痛いし、なにも持ち物はないし、立ち上がって起き上がっても、家の方がわからんのです。
家に残して来た母親が気にかかったので、なんとか感で帰ろうと思ったんです。
土やら瓦やらいろいろ踏み越えて、ぜんぜん家か何かわからなかったんですけど、昔は防火水槽があったんですね。
うちの名字が書いてある防火水槽があって「あーここか」ってわかったんですけど、ひどい瓦礫で痕跡がわからんのです。
比治山へ避難
何をしてよいかもわからず、うろうろしていたら、軍隊の兵隊さん10人くらいが
「はよー逃げ! はよー逃げ! 比治山へ逃げ!」
って叫んでいるんですよ。
それでしかたないんで、比治山へ歩いて上がったんです。
一番上で、まーいっぱい人が集まっていて、水道が壊れていてあちこちらから噴水のように出ていて、みんなが飲むんですよ。まぁ綺麗な水でしたけどね。
比治山橋より比治山を望む
比治山で日陰を見つけて座って、まぁ何するわけでもなく、手もどんどん腫れて痛いし、一日中座って過ごしていたんです。
山へ逃げてから(街中)あっちこっちから燃えだしたんです。
どう言うたらいんですか、一晩中、広島が燃えるのを山からね、ずーっと見てたんです。
ぜんぜん何もすることもできずにね。
水道の水を飲むくらいのことで、食事は何もない。
ただ広島が焼けるのを見ていたくらいで。
夜が明けたらね、中国新聞と、広島中央放送局(現在のNHK広島放送局)と、八丁堀の福屋(福屋百貨店)くらいなもので、あとは全部消失。もう綺麗にね。
比治山より爆心地付近を望む
己斐(西広島)方面と、江波方面と、あと宇品、あの周りが残っていてね、広島の真ん中は全部焼けていました。
広島放送局は、鉄砲町でね、家から割と近くでしたけど、家の辺りもなにもなくなっていました。
比治山より下山して
夜が明けて8時ごろ、どうしようかなと思って、どっちにしろ山から降りなきゃと思ってね、山から降りかけたんですよ。
そしたら軍隊の人がね、おむすびを作ってくれていて、避難した人にね、1つづつ配っていたんです。
まぁ、あの頃はお米のない時代でしたからね、まぁ助かりましたよ。(大きさは、あんまり大きくない)。
それを食べながら、己斐の先に高須いうところがあるんです。
そこに友達がおったんです。そこへ歩いて行ったんです。
ずーっと街の焼けた中を歩いて行って、高須の友達の家で助けてもらって。そこで休ましてもらって三日泊まらせてもらいましたね。
母は家で死亡しとったし、弟は浜松航空隊(現在の航空自衛隊浜松航空基地)へ行ってて不在でしたし、父は用事で水内(広島市郊外)へ行っとりましたしね。
この高須の家でね、もう1人怪我してお世話になってた人がいましたね。
父は歩いて、水内から歩いて広島へ出て来て。
「焼け跡に行こう」と言うて一緒に行って見たんですけど。
瓦と赤土と、ゴミばかりで、どうにもならんのですよ。
私は具合が悪いので帰って、その日か、あくる日なのか、ちょっとわからんのですけど
父が家の跡を掘ってみたらしいんですよ。
そしたら完全に焼けてないんですよ。圧死で。蒸し焼きになっていて、半分くらいしか焼けてないって言うんですよ。
洋服のちぎれたのがね残っとって、青いようなのが残っといて
「あーこれはお母さんのだ」
っていうので解ったって。全部、遺体を掘るというのはいかんので、一部遺骨を持ち帰ったんです。
比治山から高須へ行くのにね、今の平和大通り、あの道を歩いて行ったんですが、もうずーっと死体の山。
火傷した人がね、みんな転がっているんです。もう真っ赤。背中も真っ赤。
着るものを着た人は、無かったですよ。
あれはどう言う事なんでしょうかね。焼けたんでしょうね。
広島は川がいっぱいあるでしょ。
まー川の中に、熱いのでいっぱい飛び込んでいたんですよ。
川の中にぷかぷか膨れて、小さい子たちも膨れてね。ぷかぷか川の中をね。
それからボートが出て、その死体を男の人があげていたんですよ。
後から聞いたらね、吉島刑務所(広島刑務所)の囚人が出てね、その人らが手伝ったんですと。
それじゃあ、ぜんぜん間に合わんのですよ。あれは、どうなったんでしょうね。
比治山から平和大通りを歩いて行って、不思議なことに、橋自体はね壊れていなかったんですよ。橋にもたれてる人もおるし、川の中へ落ちとる人もおるし、雁木(川沿いにある階段)にもたくさん遺体がありました。
それから市電が今の広電が、途中で止まっていましたよ。4台か5台見たけど、中がね・・・まぁ中は見れないですよ。
比治山から高須まで、一時間くらいでしたか、途中で鷹野橋あたりで友人に会ったんです。その人は宇品に住んでいて、宇品はどうもないので、友人が心配で様子を見にきていて、
「まぁーあんたは大丈夫だったん?」
と言われて、2、3分立ち話をしたんですね。
手が痛くて夜眠れないんですよ、当時、草津の駅のところにね。接骨病院があったんですよ。
泊まらせてもらってる家から行ったんです。
病院で竹で固定して、布で巻きつけてもらって、ただそれだけ。
五日市の疎開先で1部屋借りてたもんですから、そこで父と生活をはじめて。
なんか、父がこしらえてくれて、一ヶ月くらいおったんです。
宮島線は大丈夫だったんですよ。宮島線でね、五日市から毎日のように病院に通いました。すごい人でね満員で、あれが大変でした。
一ヶ月くらいして、弟が浜松から帰ってきて、父と私と3人でね、広島郊外の父の生家の寺へ戻ったんです。母の骨は、一部は掘って帰ってね、そこのお墓へ埋めました。
広島放送局は、18歳から勤めていました(一時期フィリピンの放送局へも行っていたが、フィリピン陥落前に内地に帰る)。女学校を出た後でしたが、若い男性は全部、出征でおらんのですよ。
課長とか部長とか、みんな40~60代で、若い人は障害ある人くらいで。
広島放送局で、書類や原稿がくるのを写したり、よその階へ持っていったたり事務の仕事をしていました。
NHK広島放送局(現在は移転して大手町にある)前に立つ「被曝放送局の碑」
一緒に働いてた人はほとんど亡くなったらしいです。
60歳くらいの部長さんがね、なんでかその日は早くに事務所に座ってたんです。
頭の上から、電気のシャンデリアが直撃して、亡くなってたらしいという話は後で聞きました。
原爆落ちる前、空襲警報とかはなかったですよ。いつも8時ごろ出るんですけど、その日に限って遅れてしまって。
こりゃ、急がな大変、遅れてしまうと。
もう少し遅れて出ていたら、家で母と一緒になったでしょうし、もう少し早く出ていても死んでいたでしょうね。
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