夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

浅草寺 「歳の市」夜の幻想的な「羽子板市」を見に行く。12月17日〜19日。

 

「納めの観音」

毎月18日は、観音様の縁日。

特に12月18日は「納めの観音」と言って、一年無事に過ごせた感謝や、来る年がより良い年になるようにと、聖観世音菩薩を本尊とする浅草寺へ参詣する人が昔から多いそうです。

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この「納めの観音」の前後三日間(12月17日〜19日)に開催されるのが「歳の市」別名「羽子板市」。

 

「歳の市」「羽子板市」

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もともと「歳の市」は、正月用品を売る市だったそうですが、いつからか正月の縁起物として人気のあった羽子板を売る市「羽子板市」になったようです。

 

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羽子板市で扱っているのは、遊ぶ羽子板ではなく、飾る羽子板。

飾り羽子板は、厄払い、女性の魔除として昔から女性へ贈られてきました。

 

世相の羽子板

f:id:odekakeiku:20191220144105j:plain昔から主流は、和服女性や歌舞伎の題材をとった押絵の羽子板が中心だけど、最近ではその年に流行ったものの羽子板も多くあります。

先日公開された「アナと雪の女王2」もあれば

 

f:id:odekakeiku:20191220144111j:plain今年(2019年)で、放送50周年を迎えた「サザエさん」

 

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浅草と言えば渥美清。第1作目の「男はつらいよ」から半世紀となる今年、50年目の最新作が公開される寅さんも羽子板になっていました。

その隣は、今年大いに盛り上がったラグビー日本代表の羽子板も。

 

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ペイペイやLINE Payなどのスマホ決済ができる露天もありましたよ。

政府のキャッシュレス決済5%還元対象にもなっています。時代ですね。

 

芸大生とのコラボ

f:id:odekakeiku:20191220144124j:plain東京藝術大学デザイン科の学生の作品と、羽子板職人のコラボレーションした羽子板。

 

f:id:odekakeiku:20191220144128j:plainこちらも販売しているのもあります。

毎年、楽しみにしているけど、最近は、芸大生の作品にもディズニーや、キャラクター物の作品が増えているような気がします。

 

子供も楽しめる

f:id:odekakeiku:20191220144133j:plainお絵かき羽子板も作れます。

我が家も、3年ほど前に子供が作りましたなー。

こちらは絵なので、お絵かきした後、実際に羽子板で遊べます。

 

f:id:odekakeiku:20191220144135j:plainこちらは、手形スタンプ羽子板。

 

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手形は、その年の子供の成長の記念になるので、意外と良いかも。

 

より立体感を感じる、夜の羽子板市

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羽子板市は、当然、午前から開催しているけど、夜は照明に照らされて押し絵がさらに浮かび上がったよう見える気がして好きです。

 

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境内も入れると、江戸時代にタイムスリップしたような。ちょっと幻想的です。

夜は21時半までやっていて(最終日は20時半まで)、日中のような混雑もないので撮影もしやすいですよ。
 

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早いもので、今年も残すこと10日ほど。

毎年「自分だけ年の瀬の気分がせず、世間から取り残されているような気がする」

そんな方は、浅草寺の「歳の市」に行く事をおすすめします。

「もういくつ寝ると正月か〜」という気分にきっとさせてくれますよ。

と、言っても今年の「歳の市」は終わっているので、来年どうぞ。

 

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浅草鷲神社から「酉の市の元祖」足立区花畑「大鷲神社」へ行ってみる。

令和元年 2019年11月の酉の日は、8日と20日。

酉の市と言えば、浅草千束の鷲神社。

 

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そもそも、ここの酉の市が有名になったのは江戸時代も中期〜後期になってから。

もともとは現在の足立区花畑(はなはた)にある大鷲神社で、熊手を売っていたのがはじまりで、江戸市中から綾瀬川をのぼって、または馬や歩いてお参りに行っていたそうな。

しかし、江戸市中から少し遠く離れた花畑。

いつからか、浅草に近く吉原のすぐ側の千束の鷲神社の方が「酉の市」として賑わうようになった。

ゆえに

  • 花畑の大鷲神社を「おおとり」
  • 浅草千束の鷲神社を「しんとり」

とも言うようになった。

 

しかし「足立区花畑」は、現在でも陸の孤島。東京都なれど、埼玉県との都県境に位置し、近くに鉄道は通っていない。

都バスの路線図を見たら、バスを使えば近くまで行けると判明したので、都バス1日乗車券もあるので、浅草千束の鷲神社から、元祖花畑の大鳥神社へ訪ねてみようと思います。

(500円の都バス一日乗車券があるので「都バス」のみで行きますが、東武線と東武バスを使えば、もう少し花畑大鷲神社の近くまで行けますよ)

 

浅草千束鷲神社から、足立区花畑大鷲神社へ

f:id:odekakeiku:20191120063845j:plainまずは、浅草鷲神社の最寄りの「千束」バス停から都バス「草43足立区役所行き」に乗車。

「竜泉」バス停も近いけど、酉の市の際中は「竜泉」からは大勢の人が乗り込むので、あえて「千束」から乗ります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064202j:plain途中、「千住四丁目」で降りて、同じバス停に来る「北47足立清掃工場」行きを待ちます。

「北47」の「竹の塚」行きは本数もそこそこありますが、「足立清掃工場」は本数も少ないので事前に調べて行くか、ちょっと手前の始発の「北千住」で時間をつぶすといいかも。

しばらくずーーーっと(40分ほど)乗って、「足立清掃工場」の1つ手前の「水神」で下車。

 

f:id:odekakeiku:20191120063853j:plain毛長川沿いを歩いて行きます。

毛長公園などの緑地もずっと続いてちょっとしたいい散策路。

 

f:id:odekakeiku:20191120063859j:plain毛長川を渡ると、そこは埼玉県草加市。

この川沿いを合流する綾瀬川方面へしばらく歩いて行くと目的地の花畑「大鷲神社」があります。

 

「酉の市の元祖」花畑大鷲神社

f:id:odekakeiku:20191120063904j:plain都バスのバス停「水神」から20分強歩いて、ようやく酉の市の元祖「大鷲神社」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20191120063912j:plain千束の鷲神社と同様にこちらも、多くの提灯が掲げられており、夜も綺麗そうです。

 

f:id:odekakeiku:20191120064147j:plain境内へと続く参道の両脇にも屋台が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064348j:plain大鷲神社本殿。

「酉の市」が開催されていますが意外と参拝客も少なめ。

 

「酉の市」

f:id:odekakeiku:20191120064229j:plain「酉の市」自体も、浅草千束の鷲神社に比べれば当然小規模ですが

 

f:id:odekakeiku:20191120064404j:plainゆっくり見られるので、こちらはこちらで趣があります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064422j:plain境内脇にも熊手を扱う露店が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064743j:plain「よっ!商売繁盛!商売繁盛!」やってます。

観光客も多く来る浅草と違って、地元密着型、地元のための「酉の市」のような感じが良いです。

 

花畑大鷲神社あれこれ

f:id:odekakeiku:20191120064434j:plain境内手前に「力石」がありました。

力石ハンターとしては、見落とせません。

農村だっただけに、農家の男たちの力試しとして使われ奉納されたようです。

しかし、本当に重そう。腰が割れる。。。

 

f:id:odekakeiku:20191120064751j:plain他にも、いかにも神通力がありそうな小さな祠があったり

 

f:id:odekakeiku:20191120064759j:plain池もあったり。こじんまりとした神社ですが、よく整っており飽きません。


f:id:odekakeiku:20191120064446j:plain浅草鷲神社とはまた異なった雰囲気が楽しめた、元祖「酉の市」花畑大鷲神社でした。

 

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滝沢馬琴の足跡を巡る。武士を辞め小説家に。失明しても執筆活動を続けた偉人

11月6日は「馬琴忌」。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)の忌日。

長編「南総里見八犬伝」などで知られている江戸時代の読本作者ですが、日本で初めて原稿料だけで生計をまかなえた著述家とも言われています。

今まで、趣味の散歩で、色々なところで馬琴の案内板を見つけていたので、ちょこっと生誕から墓所までの足跡を訪ねます。

 

滝沢馬琴誕生の地(江東区 平野)

f:id:odekakeiku:20191106221418j:plain滝沢馬琴が生まれたのは、約250年前、明和4年(1767年)6月9日。

深川にあった旗本松平信成の、家臣の下級武士の子として、松平家邸で生まれました。

現在は「深川ふれあいセンター、平野児童館」の建物の前に案内板が設置されています。

 

f:id:odekakeiku:20191106221423j:plain馬琴には兄たちがいましたが、訳あって、十歳の時に家を継ぎ、主君の孫の遊び相手として仕えるようになる。

しかし、その孫の癇癪に悩まされ、馬琴は14歳で松平家を去った。

 

f:id:odekakeiku:20191106221443j:plain案内板の前に、「里見八犬伝」のモニュメントがある。

 

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「里見八犬伝」は、28年間かけて書かれた超長編小説。

モニュメントは、「里見八犬伝」の計106冊分。それにしてもすごい量。。。

 

滝沢馬琴宅跡の井戸(千代田区 九段下)

f:id:odekakeiku:20191106222656j:plain馬琴は、二十七歳の時に結婚し「飯田町中坂下」へ移り住む。

 

f:id:odekakeiku:20191106222659j:plain九段の駅からすぐのところに、「滝沢馬琴邸居住の井戸」がある。

 

f:id:odekakeiku:20191106222702j:plain奥に行って見ると、これ井戸があったが、これは再建のものかな。

 

滝沢馬琴住居跡(千代田区 外神田)

f:id:odekakeiku:20191106223054j:plain文政7年(1824年)に、外神田へ転居してくる。

 

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信濃町へ転居するまでの12年間、ここで多くの物語を書き残しています。

 

滝沢馬琴終焉の地(新宿区 信濃町)

f:id:odekakeiku:20191106223231j:plain次に移り住んだのが四谷信濃坂。現在のJR信濃町駅前付近。

日高屋の前に、ひっそりと案内板が残っています。

 

f:id:odekakeiku:20191106223236j:plainこの地で、足掛け28年間かかって書き上げた「南総里見八犬伝」を書き終えました。

晩年は、両目を失明し、息子の嫁の路(みち)に字を教え口述して路に筆記をさせている。

そして嘉永元年(1848年)の11月6日に、八十二歳で亡くなる。

 

滝沢馬琴墓所(文京区 茗荷谷)

f:id:odekakeiku:20191106223318j:plain滝沢馬琴の墓所は、文京区茗荷谷の深光寺。

 

f:id:odekakeiku:20191106223324j:plain墓石には、馬琴の戒名である「著作堂隠誉〜」の文字がありました。

隣の「黙誉〜」とあるのは、馬琴の奥さんの「お百」の戒名。

 

f:id:odekakeiku:20191106223329j:plain台石には、家の形をした、馬琴の蔵書印が刻まれています。

 

f:id:odekakeiku:20191106223618j:plain馬琴の墓碑の後方には、馬琴が失明した時に、文字を覚え口述によって「里見八犬伝」を代筆した、お路の墓があります(路女の墓)。

そのとなりが、亭主の墓。亭主よりも、奥さんの方が墓碑が大きいですw

 

滝沢馬琴筆塚(荒川区 西日暮里)

f:id:odekakeiku:20191107004325j:plain最後は、滝沢馬琴の筆塚がある荒川区西日暮里の青雲禅寺。

 

f:id:odekakeiku:20191107004335j:plainこのあたりは、西日暮里から谷中まで続く寺町。

どこも静かな佇まいで雰囲気がよく、散策する人も多いです。

 

f:id:odekakeiku:20191107004343j:plain境内に、滝沢馬琴筆塚の碑があります。

馬琴ともなると、多くの筆を消費したそうで、その供養のために築かれました。

 

f:id:odekakeiku:20191107004352j:plain額字は、国学、漢学、度量衡などの考証学者で知られる狩谷棭斎によるもの。

 

f:id:odekakeiku:20191107004354j:plain馬琴の使用していた硯も出土しており、硯の碑もあった。

散策メモ

  1. 深川の滝沢馬琴の生誕地
  2. 九段下の滝沢馬琴宅跡の井戸
  3. 外神田の滝沢馬琴住居跡
  4. 信濃町の滝沢馬琴終焉の地
  5. 滝沢馬琴の墓所
  6. 西日暮里の筆塚

と、書いて来ましたが、実際に周った過程は、

西日暮里駅をスタートして「滝沢馬琴の筆塚」

西日暮里→(千代田線)→湯島「外神田の住居跡」

神田明神、湯島聖堂を経て御茶ノ水→(丸ノ内線)→茗荷谷駅「馬琴の墓所」

茗荷谷駅→後楽園→(南北線)→四ツ谷、迎賓館、せきとめ稲荷、出羽坂を経て「信濃町の終焉の地」

外苑駅まで歩いて、外苑→(銀座線)→青山一丁目→(半蔵門線)→九段下「馬琴宅跡の井戸」

九段下→(半蔵門線)→清澄白河「滝沢馬琴生誕の地」→門前仲町駅ゴール。

散策時間約6時間30分、歩いた距離約13kmでした。

 

滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)

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随筆滝沢馬琴 (岩波文庫)

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万葉集より。大伴家持となでしこの花。家持の忌日8月28日は「撫子忌」と名づけてもいいような

「万葉集」編纂に大きく携わったことでも知られている奈良時代の歌人大伴家持(おおとものやかもち)。

今日、8月28日は「大伴家持」の忌日にあたる(延暦4年8月28日、西暦785年10月5日)。

今回は、大伴家持の忌日近く(夏〜秋)に咲き、家持が愛しよく詠んだ撫子(なでしこ)の花について少し。

 

ちなみに、大伴家持は

百人一首の六つ目の句

かささぎ の渡せる橋におく霜の

白きを見れば夜ぞふけにける

 でも有名ですね。

 

秋の七草

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「万葉集」には、「撫子(なでしこ)」の歌が26首詠まれている。

有名な歌の1つに、山上憶良(やまのうえのおくら)の

(一五三七)

「秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」

秋の野原に、咲きたる花を指折り数えてみれば 七つの花が美しい。

 

(一五三八)

「萩の花 尾花(をばな)葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(をみなへし)また藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花」

萩の花、尾花(すすき)、葛花、撫子の花、女郎花、また藤袴、朝顔の花(この朝顔は桔梗ではないかと言われている)

 

2つの歌からなるこの歌の2つ目の歌は、すべて花だけで構成されている。古今東西こんな歌はまずないと思ふ。

この歌から、秋の七草という名前が生まれた。

 

撫子の花

f:id:odekakeiku:20190827163857j:plain8月中旬 東京都港区白金台「自然教育園」で撮影

万葉集に歌われている撫子の花は「カワラナデシコ」だとされていて、今では環境の変化により全国的にあまり見かけなくなったという。

万葉集の「撫子」の歌 26首のうち、11首は家持が詠んでいる。 

(四六四)

「秋さらば 見つつしのへと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも」

「秋になったら一緒に見ましょう」と言って妻が家に植えた撫子。その撫子の花が咲いている。

この時、大伴家持は妻を亡くしています。

 

(一四九六)

「我が宿の なでしこの花 盛りなり 手折(たお)りて一目 見せむ子もがも」

私の家の庭に、撫子の花が盛りにさいている。その撫子を手折りて一目見せてあげられる娘がいたらいいのに。

 

(四二三一)

「なでしこが 花見るごとに 娘子(をとめ)らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」

なでしこの花を見るたびに、乙女の笑顔の美しさを思い起こします。

家持以外の人が詠んだ「撫子」の歌も、家持に贈った歌や、家持の屋敷で詠まれたものなど、大伴家持絡みの歌が多い。 

広く知られているように「撫子」は「大和撫子」というように、日本人女性の代名詞にもなる。それらに影響を与えたのは、大伴家持はじめ万葉人だったであろう。

 

家持の忌日8月28日「撫子忌」と名付けたい

歴史上に名を残した歌人や小説家などの文化人の忌日を、〜忌と一般に言うけど

  • 太宰治・・・「桜桃忌」晩年の短編小説「桜桃」から。
  • 芥川龍之介・・・「河童忌」小説「河童」からと河童が好きでよく絵を描いていたから。
  • 司馬遼太郎・・・「菜の花忌」司馬遼太郎の「菜の花の沖」からと、菜の花が好きだったから。
  • 松尾芭蕉・・・「時雨忌」時雨の頃に亡くなったから、「時雨」を好んで俳句に入れていたから。
  • 在原業平・・・「業平忌」「在五忌」在五中将の略から。

などなど。

以前から疑問だったけど、多くの歌を残し「万葉集」の編纂など大きな足跡を残した大伴家持には「家持忌」とか「〜忌」というのをあまり聞かない気がする。

いっそのこと、8月28日を「撫子忌」とでもしてはどうだろうか?

と、研究者様方を差し置いて、一介の家持好きが言うにはやはり恐れ多い。

 

参考図書

「原文 万葉集 上下巻」 岩波文庫

「花の辞典」金田初代<文> 金田洋一郎<写真> 西東社

  

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大伴家持 - 波乱にみちた万葉歌人の生涯 (中公新書)

大伴家持 - 波乱にみちた万葉歌人の生涯 (中公新書)

 
万葉集をつくった男 小説・大伴家持 (角川文庫)

万葉集をつくった男 小説・大伴家持 (角川文庫)

 

 

8月真夏の自然教育園を歩く。ナデシコ、コバキボウシ、禊萩、トラノオスズカケ、ニホンカナヘビ。

8月中旬のある日、くもり気味なれど35度近くあって、じめじめとした最悪のコンディションのなか、港区白金台の自然教育園を散策してきた備忘録です。

結論から言うと、意外と見応えありました。

f:id:odekakeiku:20190822163401j:plain夏休み真っ只中だけど、想定していた通り人はほとんどいない。今回はどんな生き物たちに会えるだろう。

 

小葉擬宝珠(コバギボウシ)

f:id:odekakeiku:20190822152509j:plain今回いたるところで見られたのが、小葉擬宝珠(コバギボウシ)

「擬宝珠」とは橋の欄干によくあるスライムのような形をした装飾品で、下の写真にあるように蕾がよく似ているからというけど、そんなに似ているかな。

 

小葉擬宝珠の蕾とオオスカシバ

f:id:odekakeiku:20190822153450j:plainこの蕾から擬宝珠を連想できる豊かな想像力が素晴らしい。この大きな蜂みたいなのは、オオスカシバ(チョウ目スズメガ科)。

体長約3センチほどと大きく、夏の日中に活動する「蛾」の一種。よく花の近くをホバリングして蜜を吸っています。

 

禊萩(ミソハギ)

f:id:odekakeiku:20190822154631j:plain萩に似ていて禊に使っていたというところから禊萩。別名 精霊花(ショウリョウバナ)とも言われる。やはり宗教的な儀式によく使われていたのかな。

漢方では千屈菜(せんくつさい)と言われ、下痢止めに用いられるそうです。

 

キタキチョウ

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キタキチョウ。キタキチョウは夏型と秋型があって、夏型は外縁が黒っぽく(グレーぽく)帯のようになっていて、それが少し残るかないのが秋型とのこと。

 

釣鐘人参(ツリガネニンジン)

f:id:odekakeiku:20190822162831j:plain山菜のトトキは、このツリガネニンジンのこと。
よく春先の山菜料理で、葉っぱをおひたしにしたり天ぷらにしたり、何度も食べたことあるけど美味しいです。
ちなみに長野では
「山でうまいはオケラにトトキ、里でうまいはウリ、ナスビ」と言うそうですよ。

根っこは、沙参(シャジン)と呼ばれる漢方の生薬にもなっていて、鎮咳、痰切りなどに効果があるそうです。

河原撫子(カワラナデシコ)

f:id:odekakeiku:20190822164953j:plain今回のお目当の1つ、河原撫子(カワラナデシコ)。

大和撫子のナデシコ秋の七草の1つです。

8月ということで戦争物の小説、映画、ドラマを最近よく見ていると
「大和撫子なら・・」とよく出てくるので、実際に咲いているナデシコを見に行こうと思い立ったのもありまして。

もう1つのお目当のナンバンギセルは、今回は見つけられなかった(涙;

 

 平賀源内が持って来た? 虎尾鈴懸(トラノオスズカケ)

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さて、自然教育園には、本来関東に分布していないとされる植物がこの時期花を咲かせています。

ゴマノハグサ科の多年草 虎尾鈴懸(トラノオスズカケ)です。日本では四国と九州で分布が確認されています。

では、なぜ東京の自然教育園に生息しているのか・・・?

自然教育園は、江戸時代、松平讃岐守の屋敷跡地でした。
讃岐高松藩五代藩主の松平頼恭(よりたか)は、家臣の平賀源内に薬草の栽培を命じています・・・ということは、どうやら平賀源内が頼恭の故郷からこの江戸の屋敷へ持参し移植したものではないか?と言われているそうです。

そんな自然教育園のトラノオスズカケも昭和24年(1949年)に絶えたと考えられていましたが、平成19年(2007年)に園内で再発見されました。

 

クモの喧嘩

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おそらくジョロウグモ。縄張り争いかな?すごく動きが早くあっという間に決着がついた。動画をとっておけばよかった。

今回、いたるところクモクモクモ。クモの最盛期。虫も多いですからね。

 

地面の落書きのような跡・・・

f:id:odekakeiku:20190827153013j:plain散策途中、ちょっと気になった地面に無数にあった白い糸のような?もの。
以前にも何度か見た記憶があるけど、糸というか物質なのか、なにかでひっかいた跡?なのかよくわからないけど、もしかしたらクモの糸なのかな。

詳細不明。

 

〔追記〕

自然教育園で出している「見ごろ情報」(訪れた時のではなくて、次号)に説明がありました。

これはキセルガイの仲間が移動した跡だそうです。

やっぱり跡だったんですね。

 

シオカラトンボ(オス)

f:id:odekakeiku:20190827153032j:plainシオカラトンボ(オス)

オオシオカラトンボと似ているけど、オオシオカラトンボのオスはもっと全体的に青く、目のところが黒い。

ちなみにシオカラトンボのメスは全体的に茶色がかった色で「ムギワラトンボ」とも言われています。

 

ニホンカナヘビ

f:id:odekakeiku:20190827153002j:plainニホンカナヘビ

今や東京都では、レッドリスト(準絶滅危惧)にのっており絶滅の恐れあり。

花を撮っていたら、じーっとこちらを見つめていた。特に逃げる気配もなかったので、ニホンカナヘビさんも撮影。

ちょっとずつ近づいても・・・あまり逃げない。
ニホンカナヘビは五本の指を持っていて、五本指まで撮れるかな・・・

と、思ったら逃げた。


 〔2019年8月中旬 散策〕

 

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リニューアルされた広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪ねて

広島平和記念資料館 Hiroshima Peace Memorial Museum

f:id:odekakeiku:20190806163900j:plain2013年から改修工事をしていた、広島平和記念資料館がリニューアルされた。

丹下健三の設計により1955年に開館し、老朽化による改修工事とともに展示内容を大きく見直し開館以来最大規模のリニューアルとのこと。

 

f:id:odekakeiku:20190806163904j:plain8月は8:30〜19:00まで開館。8月5日、6日は20時まで開館している。

館内は無料エリアと有料エリアがあり、今回リニューアルされた有料エリアを少し見ていきます。

東館

今回2019年にリニューアルされたのは本館(西館)ですが、2017年にリニューアルされた東館も少し見ていきます。

有料エリアのはじめは、原爆投下前の広島の町並みを写真で展示している。

f:id:odekakeiku:20190806163910j:plain相生橋界隈。写真はH字形の橋だけど原爆投下時は現在とT字型の橋だった。

この相生橋がエノラゲイから投下目標点とされていた。

 

f:id:odekakeiku:20190806163914j:plain広島県産業奨励館。現在、世界遺産に登録されている原爆ドーム。

 

f:id:odekakeiku:20190806163917j:plain紙屋町交差点界隈。現在、広島そごうがある、あの紙屋町も現在と同じくチンチン電車が各方面へ行き交っていた。

 

f:id:odekakeiku:20190806163924j:plain中島本町界隈。現在の平和記念公園。

以前とある本で、原爆のガイドをしていた方が、観光客の方から「でも、まだよかったですね。公園の上に原爆が落ちて」というような事を言われれショックを受けたと話していた。

原爆投下前、現在の平和記念公園界隈、広島でも最も栄え人通りの多い場所の1つだった。アニメ映画にもなった「この世界の片隅に」でも原爆投下前の中島本町が忠実に再現されていました。

 

f:id:odekakeiku:20190806163931j:plain多くの人が足を止めて見つめていた写真。原爆投下前の日常。

 

f:id:odekakeiku:20190806163939j:plain原爆投下で、一瞬で壊滅した広島。

 

f:id:odekakeiku:20190806163943j:plain円形状の映像で原爆投下前

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本館(西館)

今回リニューアルされた本館(西館)

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被爆の実相

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f:id:odekakeiku:20190806164011j:plain8月6日、多くの子供が動員され建物疎開が行われていた。

 

f:id:odekakeiku:20190806164015j:plainその上に原爆は投下された。遺品の持ち物が誰のものなのかわからない物も多い。

 

f:id:odekakeiku:20190806164024j:plain原爆の、キノコ雲の下に実際に生きていた人間が子供がいたということ。

 

f:id:odekakeiku:20190806164028j:plain大きく破壊された仏像。

 

f:id:odekakeiku:20190806164036j:plain持ち主の子供と一緒に埋められた三輪車。後日、掘り起こされた。

 

f:id:odekakeiku:20190806164040j:plain灰と化したお弁当箱。お昼に食べる予定だったのだろう。

 

f:id:odekakeiku:20190806164045j:plain遺品の数々、そこには家族があり、日常があった。

実際に足を運んで、遺品を見てみなければわからないかもしれない。

 

f:id:odekakeiku:20190806164052j:plain展示の合間に平和記念公園を一望できる箇所があった。一瞬、現在に戻って来たような感覚になった。

 

f:id:odekakeiku:20190806164056j:plain展示を見てまわっていた時、ちょうど同じところを一緒にまわっていた車椅子の方がおられた。係りの方から展示の説明に熱心に耳を傾けていたが、特にその方には気にもとめず自分は展示に見入っていた。

その車椅子の方が、最後に車椅子から立ち上がり展示物室に向かって、頭を下げ深々と合掌をされていたのが印象的だった。

映画監督の大林宣彦さんだった。

展示場を出ると、多くのマスコミが待ち受けていて、大林監督を取り囲んでいた。

 

f:id:odekakeiku:20190806164115j:plain平和記念資料館には世界中の著名人が訪れ、メッセージを残している。

 

f:id:odekakeiku:20190806164122j:plain多くの平和へのメッセージをスライド見ることができる。

 

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オバマ大統領が訪れた時の折り鶴とメッセージも展示されている。

最近は、来場者の2割は外国人だという。

2019年のトリップアドバイザーでは行くべき日本の観光スポットに、1位の伏見稲荷に続き2位に広島平和記念資料館が入っている。

ぜひ、国内外問わず、老若男女問わず、宗教思想問わず、多くの人々に訪れてほしい場所だと思います。

 

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美空ひばり広島原爆を歌う「一本の鉛筆」の歌碑を訪ねて。広島駅新幹線口再開発エリア

一本の鉛筆の歌碑

f:id:odekakeiku:20190805225101j:plain最近再開発された広島駅新幹線口の広島テレビの入るビルの1階

そこに、美空ひばりの「一本の鉛筆」のモニュメントがある。

 

f:id:odekakeiku:20190805225108j:plain「一本の鉛筆 作詞松山善三 作曲佐藤勝」

「あなたに聞いてもらいたい・・・」

で、始まる「一本の鉛筆」

美空ひばりが歌った数多くの曲の中では、あまり目立たない曲だが、美空ひばり自身この曲をとても気に入っており、自身の持ち歌ベスト10の中の1曲として大切に歌っていたという。

 

広島平和音楽祭と「一本の鉛筆」

f:id:odekakeiku:20190805225112j:plain「一本の鉛筆」は1974年第1回広島平和音楽祭で発表された。

広島平和音楽祭は、古賀政男が実行委員長となり1974年に第1回がはじまり、第20回まで続いた。古賀政男の要望もあってか第1回に美空ひばりが登場。

美空ひばりはトリをつとめ、一曲目の「ひとすじの道」を歌い終えた後

「一本の鉛筆」を歌う直前、ふと、こう語り出した。

昭和12年5月29日生まれ。本名、加藤和枝。

私は横浜で生まれました。

戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません。

みなさまの中には尊い肉親を失い、そして愛する人を失い、その悲しさを乗り越えて、今日まで強く生きて来られた方がたくさんいらっしゃることでしょう。

今日の私の歌が、みなさまの心の少しでもなぐさめになりましたら幸せだと思います。

これから二度と、あのような恐ろしい戦争が起こらないようみなさまとご一緒に祈ろうと思います。

茨の道が続こうと、平和のために我歌う。

この広島平和音楽祭を記念して、新しい歌が生まれました。ご紹介いたします。

これは、私にとりましてこれから永久に残る大切な歌でございます。 

 

美空ひばりと戦争

f:id:odekakeiku:20190805225119j:plain発表当時の動画を、一部見ることができる。

発表当時、美空ひばりの周辺では問題が多々あり、美空ひばり自身大変な時期だった。「茨の道が続こうと」という一言は、それらのことを言っていると言う人もいるけど、それだけではないように思う。

なぜ冒頭で急に、美空ひばりは自分の生年月日と本名を名乗ったのか。

1945年5月29日、美空ひばり本名「加藤和枝」は8歳の誕生日を迎える。ちょうどこの日、横浜大空襲があった。

 

のちに「三人娘」と言われる江利チエミ雪村いずみ美空ひばりが、それぞれ「いま何がほしいか」というインタビューに別々に答えいてる。

江利チエミは「相手が何を考えているか見抜ける力が欲しい」と答え、

雪村いずみは「天女の羽衣のようなものがほしい」と答えていたが、

美空ひばり「この世界から戦争がなくなってほしい」と答えていたという。

美空ひばり自身、戦争に対する思いは終世思い続けていたようで、あまり公にはしていなかったが、世界中の戦火にあった人々へ色々と援助もしていたらしい。

 

f:id:odekakeiku:20190805225126j:plain1974年8月9日に開催された、第一回広島平和音楽祭会場の体育館では、現在のように控え室には冷房がなく、ただ氷柱だけが用意されているだけだった。

控え室が大変暑いことを周囲の人々が気にかけ、もっと涼しいところへと促すと

ひばりは「広島の人たちは、もっと暑かったのよね」とつぶやき、その場を動かなかったという。

 

それから14年後の1988年の第15回広島平和音楽祭にも、美空ひばりは再び出場する。

この時、ひばりの体は病魔に冒され、控え室にはベットが用意され、出番がくるまで点滴を打って待つほどだった。

そして出番が来ると、病気を感じさせない立ち振る舞いで「一本の鉛筆」を熱唱。

歌い終わったあと

「来てよかった」

と言って会場を去ったという。翌年、ひばりは52歳でこの世を去った。

 

「一本の鉛筆」は広島の原爆を歌った歌だが、歌詞の中に一度も「広島」「原爆」というような単語は出てこない。

広島の原爆の歌だとわかるのは「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く」というフレーズだけ。

自身の体験や心情は積極的には語らなかったが、平和への願いは常に持ち続けていた美空ひばりらしい歌だと思う。

 他にも、美空ひばりは「八月五日の夜だった」「白い勲章」という反戦歌も歌っていますよ。 

美空ひばり全曲集 八月五日の夜だった

美空ひばり全曲集 八月五日の夜だった

 

 

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