夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

まるで佐渡のラピュタ? 金の抽出量「東洋一」を誇った北沢浮遊選鉱場跡

佐渡 北沢浮遊選鉱場跡 Kitazawa Flotation Plant

 

今回は「佐渡のラピュタ」こと「北沢浮遊選鉱場跡」へ撮影に行った時の備忘録です。

  

古くは、平安時代の説話集「今昔物語」にも出てくる佐渡の金。

佐渡最大の金山、相川金山だけでも掘られた坑道は最深部海面下530メートル、坑道の総延長は約400キロメートルにもおよぶそうです

(東京〜新潟間の新幹線の距離が約334キロメートル)。

 

掘り出された金を含む鉱石(金鉱石)から、金を抽出する施設も当然必要なわけで、昭和の15年間という短い間に操業され当時「東洋一」の規模を誇った選鉱場の跡地が、今も佐渡島に残っています。

 

北沢浮遊選鉱場跡

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昭和12年、日中戦争が始まると、さらなる増産体勢が計られ大規模な選鉱場が必要になりました。そこで建設されたのが「北沢浮遊選鉱場」。

 

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金銀山で採れた鉱石を粉砕し、主に水と油、薬品からなる溶液で浮遊させ、金銀を抽出していた選鉱場。

 

佐渡のラピュタ

f:id:odekakeiku:20200124133122j:plain1940年、昭和15年に操業を開始し、1ヶ月に50,000トン以上の鉱石を処理する能力を備え規模、抽出量ともに「東洋一」を誇ったそうです。

 

f:id:odekakeiku:20200124133129j:plainむき出しのままのコンクリートの基礎

 

f:id:odekakeiku:20200124133133j:plainスタジオジブリの「天空の城のラピュタのようだ」と聞いてやって来ましたが、個人的にはラピュタに出てくるバズーの故郷、炭鉱の渓谷「スラッグ渓谷」に近いかなと感じました。

 もしここに運搬用の鉄道の線路があったら、まさにここは「スラッグ渓谷」。

 

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 ラピュタの荘厳なイメージよりも、同じ鉱石を扱う労働現場の、労働者が働いていた雰囲気のような気配を感じたから。当時、選鉱場内では女性も働いていたそうです。

夜はライトアップもされるそうで、それを見たらまた違う印象を持つのでしょう。

シックナー

f:id:odekakeiku:20200124133143j:plain昭和15年(1940年)に完成した、シックナーと呼ばれる泥鉱濃縮装置。直径は50mにもおよびます。

こっちの方が、天空の城ラピュタぽいかな。

 

発電所跡

f:id:odekakeiku:20200124133145j:plain唯一、建物の原型を留めて残っているのが、明治に完成した煉瓦造りの発電施設。

中は、往時の写真等を展示しているそうですが、行った時は入れませんでした。

 

f:id:odekakeiku:20200124133150j:plainここを訪れたのは、春のある日の夕暮れ時。

満開の桜も見下ろしていましたよ。

 

撮影機材:NikonD750 /AF-S NIKKOR 20mm f/1.8G ED / AF-S NIKKOR 300mm f/4E PF ED VR /

 

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「広島陸軍被服支廠」峠三吉「原爆詩集」にも描かれた現存する最大規模の被爆建物。解体一部保存か、全棟保存か。

比治山から見えた赤煉瓦の倉庫

f:id:odekakeiku:20191224233114j:plain比治山から見える広島陸軍被服支廠(2019年7月)

もうずいぶん前のことだけど、広島を訪れて比治山に登った時、逆「L」字形に建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群が気になった。

後日、調べてみるとそれは「広島陸軍被服支廠跡」という大正時代から建っている歴史遺構。

これだけ大きな被爆建物が、今でも広島の市街地にひっそり建っているのが不思議に思えたし、当然、何かに利用されているものとずっと思っていた。

 

広島陸軍被服支廠

f:id:odekakeiku:20191224233126j:plain2019年7月、広島原爆関連の調べ物をするために広島市内を訪れた時に、その「広島陸軍被服支廠」別名「出汐倉庫」を訪ねてみることにした。

住宅街の中に、原爆投下から70数年が経った今もひっそりと建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群。

 

f:id:odekakeiku:20191224233137j:plain「陸軍被服支廠」と言う名前の通り、旧陸軍の軍服を生産、管理する施設として使用されていた。

明治38年(1905年)に陸軍被服廠広島派出所が、宇品線(かつて存在した広島駅〜宇品までを結ぶ鉄道路線)の沿線に設置される。

 

ちなみに当時の陸軍被服本廠は、東京本所にあった。1919年に王子区赤羽台に移転、その後に発生した関東大震災で、多くの住民が本所被服廠跡に避難したが火災旋風が起きて4万人が犠牲となったあの場所(現在は東京都慰霊堂のある横網町公園)。

 

話を元に戻します。

明治40年(1907年)に陸軍被服廠広島派出所は、支廠に昇格し規模を大きくしていきます。

 

 

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煉瓦造りに見えるが、本体は鉄筋コンクリートで建設されており外壁に煉瓦を積み上げ耐火、耐震構造を兼ねている。

初期の鉄筋コンクリートと煉瓦を併用した珍しく貴重な構造だそうだ。

 

昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、投下直後は臨時の救護所としても使用された。

戦後は、大学の寮や日本通運の倉庫などにも使用されてきたが、現在は使用されていない。

 

f:id:odekakeiku:20191224233216j:plain赤煉瓦の壁が今もなお当時の面影を残して建ち並ぶ光景は、迫力があり感慨深いものがある。

これほど大きな被爆建物は残っていない。

 

原爆の傷跡

f:id:odekakeiku:20191224233256j:plain歩いていてすぐ気がついたが、西側の鉄板の窓が内側に食い込む様に変形している物がある。

 

f:id:odekakeiku:20191224233305j:plain爆心地から2,670m。

それだけ離れていても、鉄板を容易に変形させるほどの爆風だったのだ。

原爆は「熱線」「放射能」と、凄まじい「爆風」を発生させる。
この「爆風」の破壊力は想像を絶するものだった。

ここに来て改めて「爆風」の恐ろしさもリアルに感じ取ることができた。

 

峠三吉「原爆詩集」より

 自分は、この陸軍被服支廠を訪れる前、

「ちちをかえせ ははをかえせ」

の序文で始まる峠三吉の「原爆詩集」を読み返してきた。

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その日

いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。

高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。

そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向きむきに横たわっている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(冒頭)

 

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(中略)多くの少女は叫びつかれうらめしげに声を落とし、その子もやがて柱のかげに崩れ折れる。

灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれていく。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

 

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八日め

がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、今日も外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。

柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、

無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。

K夫人も死んだ。

ー収容者なし。死亡者誰々ー

門前に張り出された紙片に墨汁が乾き

むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

解体一部保存か、全棟保存か

f:id:odekakeiku:20191225012144j:plain現存する4棟が建ったのは、1912年ごろ。築100年以上が経過し、維持管理が難しくなってきているとのこと。


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震度6程度の地震でも、倒壊の恐れがあるらしい。

2019年12月、広島県は現存する4棟のうち3棟を解体し、残る1棟を改修し保存する方針を示した。

それに対し、貴重な被爆建物を全棟保存しようと言う呼びかけも起きている。

 

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現存する、これだけ大きなスケールの被爆建物はない。

実際に行って歩いて見て、五感で感じるものは大きい。

今なお語りかけてくる歴史の証言者だ。

広島の原爆関連施設ではマイナーなスポットだけど、きっと何か感じるものはあると思う。

広島を訪れた際は、一度訪れて見て感じてほしい遺構の一つです。 

 

www.change.org

全棟保存を求める webでの署名活動も行われています。

 

【2019年7月撮影 広島市南区出汐「旧陸軍被服支廠」、比治山】 

 

原爆詩集 (岩波文庫)

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MacBook Pro13インチを購入するつもりだったけど16インチにして大正解!ハイスペックなだけでなくキーボードも改善、スピーカーの音質は神領域!

2011年から毎日ずっと使ってきた「MacBook Pro2011 13インチ」

 

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下がMBP13インチ(2011)、上が新しいMBP16インチ

ほぼ毎日持ち歩き、出張や海外にも頻繁に持って行っても壊れることを知らないタフさと、メモリ増設やHDDなど自分で裏蓋を開けてカスタマイズできるのが気に入ってました。

SDスロットも標準搭載だし、USBも汎用性の高い方だし(Cタイプではないし)、自分はまだ時代遅れのCD、DVDも人よりそこそこ使ってたし。

途中、SATケーブル不具合で、ケーブルを自分で2回交換したのと、トラックパッドを自分で1回交換したのみで、ほとんど8年間故障知らず。

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 メモリも16GBまで増設していて、まだまだ使えそうな気もするけど、処理能力的にもう限界かなと思っていたのと、急に壊れて作業が滞るのが怖いので、新しいMBPに買い換えようと決意し、どれにしようか1ヶ月ほど悩んだ挙句、結果的には13インチでは無く、発売されたばかりのMacBook Pro16インチを購入しました。

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 くだらないことまで、あれこれ悩んだことも、勉強のうち。備忘録として、簡単にメモ程度に残しておきます。

 

今までのMBP(2011 13インチ)の主な用途(超大まか)

  • Lightroomでの画像編集、画像管理 1ヶ月間の撮影画像のMBP取込枚数5,000〜1万枚(多い時で2万)約150GB〜600GB。取込画像:フルサイズRAW。
  • Photoshopでの画像編集、デザイン
  • データー納品
  • 執筆作業
  • ブログ記事作成

などなど

 

新しいMBPに最低欲しいスペック

  • CPU:クアッドコア 2.4GHzクラス以上
  • ストレージ:500GB〜1TB SSD(正直あればあるほど)
  • メモリ:16GB〜

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MacBook Pro 13インチ

当初、13インチにこだわった理由は、画像編集をするには画面が小さいけど、ほぼ毎日持ち運ぶので機動性を考えてが大きいです。

現在のMBP13インチの重量1.37キロは、超魅力的。

 

でも、13インチ標準のメモリ8GBは少なすぎる・・・

CPUは、動画編集はほとんどしないので、そこまでハイスペックなのは宝の持ち腐れになるので必要ないと考えていました。

それよりも重要なのは、メモリ。

でもなぜか、13インチのモデルのほとんどはメモリ8GBが標準

何度かApple Storeに行って相談したら「Lightroomの作業で16GBも必要ですか?」と言われることしばしばあったけど

改めてアクティビティモニタを開いて確認したら、Lightroomとchromeを開けて作業しただけで、8GBは優に越えて14GBほど常時使用している。

現行の13インチモデルの標準8GBでは、全然足りないと思っているユーザーは多いような気がするんだけど、Appleはここのところずっと8GBしか用意していないのは、なんでだろう?CTO(注文使用生産)して金を注込めということなのかな。

 

MBP13インチ(512GB)をメモリ16GBに増設すると、16インチ(512GBメモリ16GB)と値段があまり変わらなくなる

さてそんなこんなで、13インチモデルをメモリ16GBにCTOで増設して

(現在のMacBook Proは、メモリ、SSDなど自分で自力では増設できません)

ストレージも、毎月150GB〜多い時で600GBデータをMBPに移行して作業しているので最低500GBは欲しい!

そんなこんなで、13インチ512GBモデルで選んでみると・・・

お値段が、16インチ(メモリ16GB、ストレージ512GB)と数千円しか違わないことが判明。。。

 

16インチモデルのデメリット

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MacBook Pro 16インチ 隣奥はMacBook Pro 13インチ

最初、16インチは重いし、機動性に欠けると考えていましたが、今まで使っていたMBP(2011)の重さは2.06kg。

新しく発売された16インチは、前回のモデルの15インチより、若干重くなり2kg。

でも、値段がCTOで増設した13インチと変わらないとなると16インチのデメリットは重いというのと、これも当たり前だけどひとまわり大きいというくらいで、むしろメリットばかりが目立ちます↓

 

16インチのメリット

  • 13インチ→16インチ 当たり前だけど画面が大きくて見やすい。
  • CPU他のスペックも13インチより、かなりハイスペック。
  • キーボードが13インチの(バタフライ式)よりも、16インチ(シザー構造)打ちやすく静か。不具合も改善。
  • 6スピーカーサウンドシステムで、音質が大幅に向上。

画面が見やすい、ハイスペックというのはあえて言わなくても当たり前だけど、

まず、キーボードが不具合の多かったバタフライ式を廃止してシザー式に戻ったこと。これにより、以前のMacBook Proのような安定したキーボード操作が戻った。

これは、かなり大きい改善点です!

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左16インチ 右13インチ

そして、あまり期待してなかったけど6スピーカーサウンドシステムは、今までのパソコンの内臓のスピーカーとは比べ物にならないほど。

我が家の6歳児の娘が、MacBook Pro16インチで曲が流れた瞬間に「これ(MBP16)から音が出てるの?」と驚いて聞き入ってたほど、重圧感のある低音、クリアで立体感のある音質。

ノートPCのスピーカーの常識を、遥かに超えた完成形です。

 

 

 

New Apple MacBook Pro (16インチ, 16GB RAM, 512GBストレージ) - シルバー

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浅草寺 「歳の市」夜の幻想的な「羽子板市」を見に行く。12月17日〜19日。

 

「納めの観音」

毎月18日は、観音様の縁日。

特に12月18日は「納めの観音」と言って、一年無事に過ごせた感謝や、来る年がより良い年になるようにと、聖観世音菩薩を本尊とする浅草寺へ参詣する人が昔から多いそうです。

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この「納めの観音」の前後三日間(12月17日〜19日)に開催されるのが「歳の市」別名「羽子板市」。

 

「歳の市」「羽子板市」

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もともと「歳の市」は、正月用品を売る市だったそうですが、いつからか正月の縁起物として人気のあった羽子板を売る市「羽子板市」になったようです。

 

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羽子板市で扱っているのは、遊ぶ羽子板ではなく、飾る羽子板。

飾り羽子板は、厄払い、女性の魔除として昔から女性へ贈られてきました。

 

世相の羽子板

f:id:odekakeiku:20191220144105j:plain昔から主流は、和服女性や歌舞伎の題材をとった押絵の羽子板が中心だけど、最近ではその年に流行ったものの羽子板も多くあります。

先日公開された「アナと雪の女王2」もあれば

 

f:id:odekakeiku:20191220144111j:plain今年(2019年)で、放送50周年を迎えた「サザエさん」

 

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浅草と言えば渥美清。第1作目の「男はつらいよ」から半世紀となる今年、50年目の最新作が公開される寅さんも羽子板になっていました。

その隣は、今年大いに盛り上がったラグビー日本代表の羽子板も。

 

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ペイペイやLINE Payなどのスマホ決済ができる露天もありましたよ。

政府のキャッシュレス決済5%還元対象にもなっています。時代ですね。

 

芸大生とのコラボ

f:id:odekakeiku:20191220144124j:plain東京藝術大学デザイン科の学生の作品と、羽子板職人のコラボレーションした羽子板。

 

f:id:odekakeiku:20191220144128j:plainこちらも販売しているのもあります。

毎年、楽しみにしているけど、最近は、芸大生の作品にもディズニーや、キャラクター物の作品が増えているような気がします。

 

子供も楽しめる

f:id:odekakeiku:20191220144133j:plainお絵かき羽子板も作れます。

我が家も、3年ほど前に子供が作りましたなー。

こちらは絵なので、お絵かきした後、実際に羽子板で遊べます。

 

f:id:odekakeiku:20191220144135j:plainこちらは、手形スタンプ羽子板。

 

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手形は、その年の子供の成長の記念になるので、意外と良いかも。

 

より立体感を感じる、夜の羽子板市

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羽子板市は、当然、午前から開催しているけど、夜は照明に照らされて押し絵がさらに浮かび上がったよう見える気がして好きです。

 

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境内も入れると、江戸時代にタイムスリップしたような。ちょっと幻想的です。

夜は21時半までやっていて(最終日は20時半まで)、日中のような混雑もないので撮影もしやすいですよ。
 

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早いもので、今年も残すこと10日ほど。

毎年「自分だけ年の瀬の気分がせず、世間から取り残されているような気がする」

そんな方は、浅草寺の「歳の市」に行く事をおすすめします。

「もういくつ寝ると正月か〜」という気分にきっとさせてくれますよ。

と、言っても今年の「歳の市」は終わっているので、来年どうぞ。

 

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浅草鷲神社から「酉の市の元祖」足立区花畑「大鷲神社」へ行ってみる。

令和元年 2019年11月の酉の日は、8日と20日。

酉の市と言えば、浅草千束の鷲神社。

 

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そもそも、ここの酉の市が有名になったのは江戸時代も中期〜後期になってから。

もともとは現在の足立区花畑(はなはた)にある大鷲神社で、熊手を売っていたのがはじまりで、江戸市中から綾瀬川をのぼって、または馬や歩いてお参りに行っていたそうな。

しかし、江戸市中から少し遠く離れた花畑。

いつからか、浅草に近く吉原のすぐ側の千束の鷲神社の方が「酉の市」として賑わうようになった。

ゆえに

  • 花畑の大鷲神社を「おおとり」
  • 浅草千束の鷲神社を「しんとり」

とも言うようになった。

 

しかし「足立区花畑」は、現在でも陸の孤島。東京都なれど、埼玉県との都県境に位置し、近くに鉄道は通っていない。

都バスの路線図を見たら、バスを使えば近くまで行けると判明したので、都バス1日乗車券もあるので、浅草千束の鷲神社から、元祖花畑の大鳥神社へ訪ねてみようと思います。

(500円の都バス一日乗車券があるので「都バス」のみで行きますが、東武線と東武バスを使えば、もう少し花畑大鷲神社の近くまで行けますよ)

 

浅草千束鷲神社から、足立区花畑大鷲神社へ

f:id:odekakeiku:20191120063845j:plainまずは、浅草鷲神社の最寄りの「千束」バス停から都バス「草43足立区役所行き」に乗車。

「竜泉」バス停も近いけど、酉の市の際中は「竜泉」からは大勢の人が乗り込むので、あえて「千束」から乗ります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064202j:plain途中、「千住四丁目」で降りて、同じバス停に来る「北47足立清掃工場」行きを待ちます。

「北47」の「竹の塚」行きは本数もそこそこありますが、「足立清掃工場」は本数も少ないので事前に調べて行くか、ちょっと手前の始発の「北千住」で時間をつぶすといいかも。

しばらくずーーーっと(40分ほど)乗って、「足立清掃工場」の1つ手前の「水神」で下車。

 

f:id:odekakeiku:20191120063853j:plain毛長川沿いを歩いて行きます。

毛長公園などの緑地もずっと続いてちょっとしたいい散策路。

 

f:id:odekakeiku:20191120063859j:plain毛長川を渡ると、そこは埼玉県草加市。

この川沿いを合流する綾瀬川方面へしばらく歩いて行くと目的地の花畑「大鷲神社」があります。

 

「酉の市の元祖」花畑大鷲神社

f:id:odekakeiku:20191120063904j:plain都バスのバス停「水神」から20分強歩いて、ようやく酉の市の元祖「大鷲神社」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20191120063912j:plain千束の鷲神社と同様にこちらも、多くの提灯が掲げられており、夜も綺麗そうです。

 

f:id:odekakeiku:20191120064147j:plain境内へと続く参道の両脇にも屋台が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064348j:plain大鷲神社本殿。

「酉の市」が開催されていますが意外と参拝客も少なめ。

 

「酉の市」

f:id:odekakeiku:20191120064229j:plain「酉の市」自体も、浅草千束の鷲神社に比べれば当然小規模ですが

 

f:id:odekakeiku:20191120064404j:plainゆっくり見られるので、こちらはこちらで趣があります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064422j:plain境内脇にも熊手を扱う露店が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064743j:plain「よっ!商売繁盛!商売繁盛!」やってます。

観光客も多く来る浅草と違って、地元密着型、地元のための「酉の市」のような感じが良いです。

 

花畑大鷲神社あれこれ

f:id:odekakeiku:20191120064434j:plain境内手前に「力石」がありました。

力石ハンターとしては、見落とせません。

農村だっただけに、農家の男たちの力試しとして使われ奉納されたようです。

しかし、本当に重そう。腰が割れる。。。

 

f:id:odekakeiku:20191120064751j:plain他にも、いかにも神通力がありそうな小さな祠があったり

 

f:id:odekakeiku:20191120064759j:plain池もあったり。こじんまりとした神社ですが、よく整っており飽きません。


f:id:odekakeiku:20191120064446j:plain浅草鷲神社とはまた異なった雰囲気が楽しめた、元祖「酉の市」花畑大鷲神社でした。

 

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滝沢馬琴の足跡を巡る。武士を辞め小説家に。失明しても執筆活動を続けた偉人

11月6日は「馬琴忌」。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)の忌日。

長編「南総里見八犬伝」などで知られている江戸時代の読本作者ですが、日本で初めて原稿料だけで生計をまかなえた著述家とも言われています。

今まで、趣味の散歩で、色々なところで馬琴の案内板を見つけていたので、ちょこっと生誕から墓所までの足跡を訪ねます。

 

滝沢馬琴誕生の地(江東区 平野)

f:id:odekakeiku:20191106221418j:plain滝沢馬琴が生まれたのは、約250年前、明和4年(1767年)6月9日。

深川にあった旗本松平信成の、家臣の下級武士の子として、松平家邸で生まれました。

現在は「深川ふれあいセンター、平野児童館」の建物の前に案内板が設置されています。

 

f:id:odekakeiku:20191106221423j:plain馬琴には兄たちがいましたが、訳あって、十歳の時に家を継ぎ、主君の孫の遊び相手として仕えるようになる。

しかし、その孫の癇癪に悩まされ、馬琴は14歳で松平家を去った。

 

f:id:odekakeiku:20191106221443j:plain案内板の前に、「里見八犬伝」のモニュメントがある。

 

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「里見八犬伝」は、28年間かけて書かれた超長編小説。

モニュメントは、「里見八犬伝」の計106冊分。それにしてもすごい量。。。

 

滝沢馬琴宅跡の井戸(千代田区 九段下)

f:id:odekakeiku:20191106222656j:plain馬琴は、二十七歳の時に結婚し「飯田町中坂下」へ移り住む。

 

f:id:odekakeiku:20191106222659j:plain九段の駅からすぐのところに、「滝沢馬琴邸居住の井戸」がある。

 

f:id:odekakeiku:20191106222702j:plain奥に行って見ると、これ井戸があったが、これは再建のものかな。

 

滝沢馬琴住居跡(千代田区 外神田)

f:id:odekakeiku:20191106223054j:plain文政7年(1824年)に、外神田へ転居してくる。

 

f:id:odekakeiku:20191106223107j:plain

信濃町へ転居するまでの12年間、ここで多くの物語を書き残しています。

 

滝沢馬琴終焉の地(新宿区 信濃町)

f:id:odekakeiku:20191106223231j:plain次に移り住んだのが四谷信濃坂。現在のJR信濃町駅前付近。

日高屋の前に、ひっそりと案内板が残っています。

 

f:id:odekakeiku:20191106223236j:plainこの地で、足掛け28年間かかって書き上げた「南総里見八犬伝」を書き終えました。

晩年は、両目を失明し、息子の嫁の路(みち)に字を教え口述して路に筆記をさせている。

そして嘉永元年(1848年)の11月6日に、八十二歳で亡くなる。

 

滝沢馬琴墓所(文京区 茗荷谷)

f:id:odekakeiku:20191106223318j:plain滝沢馬琴の墓所は、文京区茗荷谷の深光寺。

 

f:id:odekakeiku:20191106223324j:plain墓石には、馬琴の戒名である「著作堂隠誉〜」の文字がありました。

隣の「黙誉〜」とあるのは、馬琴の奥さんの「お百」の戒名。

 

f:id:odekakeiku:20191106223329j:plain台石には、家の形をした、馬琴の蔵書印が刻まれています。

 

f:id:odekakeiku:20191106223618j:plain馬琴の墓碑の後方には、馬琴が失明した時に、文字を覚え口述によって「里見八犬伝」を代筆した、お路の墓があります(路女の墓)。

そのとなりが、亭主の墓。亭主よりも、奥さんの方が墓碑が大きいですw

 

滝沢馬琴筆塚(荒川区 西日暮里)

f:id:odekakeiku:20191107004325j:plain最後は、滝沢馬琴の筆塚がある荒川区西日暮里の青雲禅寺。

 

f:id:odekakeiku:20191107004335j:plainこのあたりは、西日暮里から谷中まで続く寺町。

どこも静かな佇まいで雰囲気がよく、散策する人も多いです。

 

f:id:odekakeiku:20191107004343j:plain境内に、滝沢馬琴筆塚の碑があります。

馬琴ともなると、多くの筆を消費したそうで、その供養のために築かれました。

 

f:id:odekakeiku:20191107004352j:plain額字は、国学、漢学、度量衡などの考証学者で知られる狩谷棭斎によるもの。

 

f:id:odekakeiku:20191107004354j:plain馬琴の使用していた硯も出土しており、硯の碑もあった。

散策メモ

  1. 深川の滝沢馬琴の生誕地
  2. 九段下の滝沢馬琴宅跡の井戸
  3. 外神田の滝沢馬琴住居跡
  4. 信濃町の滝沢馬琴終焉の地
  5. 滝沢馬琴の墓所
  6. 西日暮里の筆塚

と、書いて来ましたが、実際に周った過程は、

西日暮里駅をスタートして「滝沢馬琴の筆塚」

西日暮里→(千代田線)→湯島「外神田の住居跡」

神田明神、湯島聖堂を経て御茶ノ水→(丸ノ内線)→茗荷谷駅「馬琴の墓所」

茗荷谷駅→後楽園→(南北線)→四ツ谷、迎賓館、せきとめ稲荷、出羽坂を経て「信濃町の終焉の地」

外苑駅まで歩いて、外苑→(銀座線)→青山一丁目→(半蔵門線)→九段下「馬琴宅跡の井戸」

九段下→(半蔵門線)→清澄白河「滝沢馬琴生誕の地」→門前仲町駅ゴール。

散策時間約6時間30分、歩いた距離約13kmでした。

 

滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)

滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)

 
随筆滝沢馬琴 (岩波文庫)

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www.tabijiphoto.com 

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万葉集より。大伴家持となでしこの花。家持の忌日8月28日は「撫子忌」と名づけてもいいような

「万葉集」編纂に大きく携わったことでも知られている奈良時代の歌人大伴家持(おおとものやかもち)。

今日、8月28日は「大伴家持」の忌日にあたる(延暦4年8月28日、西暦785年10月5日)。

今回は、大伴家持の忌日近く(夏〜秋)に咲き、家持が愛しよく詠んだ撫子(なでしこ)の花について少し。

 

ちなみに、大伴家持は

百人一首の六つ目の句

かささぎ の渡せる橋におく霜の

白きを見れば夜ぞふけにける

 でも有名ですね。

 

秋の七草

f:id:odekakeiku:20190828200432j:plain

「万葉集」には、「撫子(なでしこ)」の歌が26首詠まれている。

有名な歌の1つに、山上憶良(やまのうえのおくら)の

(一五三七)

「秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」

秋の野原に、咲きたる花を指折り数えてみれば 七つの花が美しい。

 

(一五三八)

「萩の花 尾花(をばな)葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(をみなへし)また藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花」

萩の花、尾花(すすき)、葛花、撫子の花、女郎花、また藤袴、朝顔の花(この朝顔は桔梗ではないかと言われている)

 

2つの歌からなるこの歌の2つ目の歌は、すべて花だけで構成されている。古今東西こんな歌はまずないと思ふ。

この歌から、秋の七草という名前が生まれた。

 

撫子の花

f:id:odekakeiku:20190827163857j:plain8月中旬 東京都港区白金台「自然教育園」で撮影

万葉集に歌われている撫子の花は「カワラナデシコ」だとされていて、今では環境の変化により全国的にあまり見かけなくなったという。

万葉集の「撫子」の歌 26首のうち、11首は家持が詠んでいる。 

(四六四)

「秋さらば 見つつしのへと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも」

「秋になったら一緒に見ましょう」と言って妻が家に植えた撫子。その撫子の花が咲いている。

この時、大伴家持は妻を亡くしています。

 

(一四九六)

「我が宿の なでしこの花 盛りなり 手折(たお)りて一目 見せむ子もがも」

私の家の庭に、撫子の花が盛りにさいている。その撫子を手折りて一目見せてあげられる娘がいたらいいのに。

 

(四二三一)

「なでしこが 花見るごとに 娘子(をとめ)らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」

なでしこの花を見るたびに、乙女の笑顔の美しさを思い起こします。

家持以外の人が詠んだ「撫子」の歌も、家持に贈った歌や、家持の屋敷で詠まれたものなど、大伴家持絡みの歌が多い。 

広く知られているように「撫子」は「大和撫子」というように、日本人女性の代名詞にもなる。それらに影響を与えたのは、大伴家持はじめ万葉人だったであろう。

 

家持の忌日8月28日「撫子忌」と名付けたい

歴史上に名を残した歌人や小説家などの文化人の忌日を、〜忌と一般に言うけど

  • 太宰治・・・「桜桃忌」晩年の短編小説「桜桃」から。
  • 芥川龍之介・・・「河童忌」小説「河童」からと河童が好きでよく絵を描いていたから。
  • 司馬遼太郎・・・「菜の花忌」司馬遼太郎の「菜の花の沖」からと、菜の花が好きだったから。
  • 松尾芭蕉・・・「時雨忌」時雨の頃に亡くなったから、「時雨」を好んで俳句に入れていたから。
  • 在原業平・・・「業平忌」「在五忌」在五中将の略から。

などなど。

以前から疑問だったけど、多くの歌を残し「万葉集」の編纂など大きな足跡を残した大伴家持には「家持忌」とか「〜忌」というのをあまり聞かない気がする。

いっそのこと、8月28日を「撫子忌」とでもしてはどうだろうか?

と、研究者様方を差し置いて、一介の家持好きが言うにはやはり恐れ多い。

 

参考図書

「原文 万葉集 上下巻」 岩波文庫

「花の辞典」金田初代<文> 金田洋一郎<写真> 西東社

  

www.tabijiphoto.com

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大伴家持 - 波乱にみちた万葉歌人の生涯 (中公新書)

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万葉集をつくった男 小説・大伴家持 (角川文庫)

万葉集をつくった男 小説・大伴家持 (角川文庫)