夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

2月15日は西行忌「願わくば花の下にて春死なむ・・・」。そんなにダメな歌?「嘆けとて月やは物を思はする・・・」百人一首86番

今日、2月15日は「西行忌」

願わくは花の下にて春死なん・・・

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史実に残る実際の西行の忌日は、旧暦の文治6年2月16日。

西行の残した有名な歌の一つに

「願わくは 花の下にて 春死なん  その如月の望月のころ」

できることなら、春、桜の下にて死にたい。二月のお釈迦様が亡くなった、あの満月のころに。

という歌から、実際の忌日より1日早い、お釈迦様の入滅した日「涅槃会」である2月15日にあわせて、西行法師の忌日としている。

旧暦の2月15日は、新暦の3月中旬〜下旬。実際に桜の花が咲く頃。

権力や欲に貪る生臭坊主ならいざ知らず、西行ともあろう孤高の僧侶が「できることなら桜の下で死にたい」というのは、少し俗な感じがして違和感を感じるが、「二月のお釈迦様亡くなった満月の頃に」という下の句で、その上の句の俗な感じが薄らぐというより、全体的に深みが出てくるように思う。

この歌は、上の句を「俗」、下の句を「仏」とすることで、一見「俗」な願いであり、また「聖」な願いでもある、西行らしいと言えば西行らしい調和の取れた歌に仕上がっているように勝手に思うのです。

 

西行は、若き頃のゴータマと同じく、苦悩する若者だったのかもしれない。

天皇を直接守る武家の家に生まれ、家柄もよく、その当時として生まれながらにして恵まれて育った。

しかし、結婚をして2人の子供ができ、4つになる娘を溺愛する日々を過ごしていた23歳の時、何を思ったか、妻とその子らを残し、恵まれた地位も捨てて突如出家する。

出家時、泣きすがってきたきた溺愛の娘を、蹴飛ばして突き放し家を出たという。

それからの西行は、ご存知の通り日本各地を放浪し多くの歌を残した。

 

嘆けとて月やは物を思はする・・・(小倉百人一首86)

西行は「月」を題材にした歌を多く残している

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「嘆けとて 月やは物を思はする かこち顔なる 我が涙かな 西行法師」

嘆きなさいと言って、月が私を物思いにさせるわけではないのに、月のせいだと言わんばかりの顔をして、流れ出る私の涙よ

 

百人一首にも入っている歌(86番)として知られ、自分も中学時代、百人一首を覚えた時、なんとなく心情が理解できるようで、百人一首の中でも好きな歌の1つだった。

 

しかし、後に自分が大人になって百人一首関連の本を読んでいくなかで、この歌は一部の著名な文化人からは、すこぶる評判が悪いことを知った。

 

西行は他にもいい歌があるのに・・・

なんでこんな歌を定家が百人一首に選んだのか理解できない・・・云々。

 

 田辺聖子もこの歌に対して悪評を立てる文化人の一人で、著書「田辺聖子の百人一首」の中で

この歌も、西行の歌としておよそ魅力のない歌で、古来からいぶかしがられている。

(中略)

この「かこち顔」の歌は若い時の歌らしいが、どこがいいのか、現代人にはわからない。老いた定家の心にひびく何かがあったのかもしれないが、百人一首に折々ある「なんでこんな歌が」の一つである。

仕方がないから文法のおさらいでもしましょう。

「田辺聖子の小倉百人一首」角川文庫

 

と、原稿の文字を埋めるためか、この歌の内容如何よりも文法のおさらいに入ってしまうご始末。。。 

 

月は、ありのままの月のままであって、それを勝手にどう捉えるかは、その月を見た人間次第。

だけれども、そんなことはわかっているのだけれども、月のせいだと言わんばかりの顔をして、月のせいにしてしまいたいほどに、涙が自然と溢れ出てくるんだよ。

この歌は、仏門に入る前の西行の若い頃の作品だというのも魅力的で、「月」はありのままの「月」なんだ、「月」でしかないんだと言う「客観」と、でも「かこち顔」して涙が自然と出てくると言う「主観」とをうまく掛け合わせていて、感情を交えず正しく見る=仏教で言う「正見」に気づいているようで、そこに重きを置いている作風も若いとはいえ凄いなーと、凡夫の私は思ふのです。

そんなにダメでしょうか?この歌。

 

西行全歌集 (岩波文庫)

西行全歌集 (岩波文庫)

  • 作者:西行
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/12/18
  • メディア: 文庫
 
田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

  • 作者:田辺 聖子
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1991/12/06
  • メディア: 文庫
 

 

 

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1月29日は「草城忌」 食欲をそそられる日野草城の食の俳句と、百人一首と

f:id:odekakeiku:20200129143332j:plain「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」草城

 

1月29日は「草城忌」

今日、1月29日は「草城忌」

 昭和初期の俳壇に新しい風を吹き込んだ俳人、日野草城(ひのそうじょう)の忌日。

 

f:id:odekakeiku:20200129161029j:plain 先日、久しぶりに日野草城の句集を、図書館で見つけて借りて読んでいたので、今回は草城の句を、ちょこっとご紹介したいと思います。

日野草城の俳句との出会いは、学生時代によく通っていた図書館にて。

何気なく手にとった草城の句集でしたが、草城の句は日常の光景を柔らかくユーモラスな表現を含んでいて、当時まだ10代の自分にもわかり易く親しみやすい作風に、いつしか(受験勉強そっちのけで)引き込まれて読んでいました。

中でも食べ物に対する描写は、情景をありありと連想させ、当時10代のいつでも空腹だった自分には、読むたびに食欲をそそられるものがありました。

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「きのこ飯 ほこほことして 盛られたる」草城 花氷(秋)

 

日野草城

まずは、簡単に草城について。

日野草城 明治34年(1901年)7月18日〜昭和31年(1956年)1月29日

本名は、克修(よしのぶ)。

東京 上野の生まれで、俳句を嗜む父の影響もあって中学時代から「ホトトギス」に投句。

京都大学法学部を卒業した後、大阪海上火災保険に入社し出世コースを歩むも、戦後、病気のため退社。

昭和10年(1935年)に発表した「ミヤコホテル」は、それまでの俳句にない大胆な色気を伴う表現で、室生犀星(絶賛)vs中村草田男(批判)らによる「ミヤコホテル論争」と言われるほどの論争にまで発展。

新興俳句の先駆けとして様々な句を発表し続け、昭和11年には 高浜虚子の怒りに触れて「ホトトギス」を除名処分。

晩年は、病気、貧困、住むところにも苦労しつつも、妻に支えられながら創作活動を続ける。

草城が亡くなる前年、虚子が見舞いに訪れ、再び草城は「ホトトギス」に迎えられる。

昭和31年に亡くなるまで「花氷」「旦暮」「昨日の花」「人生の午後」など多くの句集を発表。

 

草城と食

以下、個人的に草城の「食」についての句(一部)を集めてみました。

 

「かんばしく 珈琲たぎる 余寒かな」花氷(春)

「春の夜や 檸檬に 触るる 鼻の先」花氷(春)

「子を産んで やつりにけりな 桜餅」花氷(春)

「サイダーの うすきかおりや 夜の秋」花氷(夏) 

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「ところてん 煙のごとく 沈みをり」花氷(夏)

「うすまりし 醤油すずしく 冷奴」花氷(夏)

「夏みかん ざくりざくりと むかれけり」花氷(夏)

「くちびるに 触れてつぶらや さくらんぼ」花氷(夏)

「舌に載せて さくらんぼうを 愛しけり」花氷(夏)

「きのこ飯 ほこほことして 盛られたる」花氷(秋)

「朝寒や 白粥うまき 病みあがり」花氷(秋)

「白菊や 風邪気の妹に 濃甘酒」花氷(秋)

「寂しさに 葡萄の房を 握りけり」花氷(秋)

「雪の夜の 紅茶の色を 愛おしけり」花氷(冬)

 「雨の夜の こころさぶしき ゼリーかな」昨日の花

「みづみづし セロリを噛めば 夏匂ふ」昨日の花

「七月の つめたきスウプ 澄み透り」昨日の花

 「マカロニが 舌を焦しぬ 風涼し」昨日の花

「クロイツェル・ソナタ氷片 珈琲に」転轍手(ベートーヴェンを聴く レコードコンサート一句)

「ももいろの ミリオンダラー 妻に飲ます」転轍手(愛しき消費ありがたしボーナス)

「子のグリコ 一つもらうて 炎天下」転轍手(あやめ池遊園)

 

草城と日常 

日常やサラリーマンから見た情景も当時としては斬新で注目を集めます。

「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」花氷

「春愁を 消せとたまひし キスひとつ」花氷(春)

「夕風に へらへらと笑ふ しびとばな」花氷(秋)

死人花→彼岸花

「初雪を 見るや手を措く 妻の肩」花氷(冬)

「早寝して  夢いろいろや 冬ごもり」花氷(冬)

「風邪の子の 枕辺にゐて ものがたり」花氷(冬)

「静けさや 炭が火となる おのずから」花氷(冬)

 「扇風機 つばさが消えて 風となる」昨日の花(事務室)

「をさなごの ひとさしゆびに かかる虹」昨日の花(二尊院)

 「重ね着の 中に女の はだかあり」昨日の花

「懐に ボーナスありて 談笑す」昨日の花

「小市民 金を預けて 出て寒し」転轍手

 

戦前のサラリーマン時代の作品は、生き生きとして温かい日常の情景を描いた句が多い気がしますが、戦中の暗い時代のいわゆる戦争俳句、そして戦後の病床期はガラッと作風が変わり、どの作品も哀愁が漂います。

 

「ちちろ虫 女体の記憶 よみがへる」人生の午後

「死ぬときの 鼠の声を 聴きにけり」人生の午後

「裸婦の図を 見てをりいのち おとろへし」人生の午後

「所得税 すくなきを うらやまけり」

「すずらんの りりりりりりと 風にあり」銀 

「夏布団 ふはりとかかる 骨の上」人生の午後 

 

草城と「小倉百人一首」

 草城は学生時代、短歌にも興味をしめし「古今集」「新古今集」はじめ多くの古典を好んで読んでいたそうです。

そのせいもあってか、草城の句の中には、(なかでも)「小倉百人一首」に登場する歌を連想させたり絡ませたような、洒落やユーモアのある句も多く遺しているように思えます。

 

「千早ぶる 神代の石や 鮓(すし)の石」草城 花氷 

 『ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 から紅に 水くくるとは』在原業平(17)

 

「酌の手を とめて千鳥が 鳴くといふ」草城 花氷(冬)

『淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いくよ寝覚めぬ 須磨の関守」源兼昌 (78)

 

「玉の緒よ 絶えねば絶えね 河豚汁(ふぐとじる)」草城 花氷(冬)

『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする』式子内親王(89)

 

「きりぎりす 鳴かねば青さ まさりける」草城 青芝(秋)

『きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき 独りかも寝む』九条良経 (91) 

 

「これやこの  珍(うづ)のバナナは そろそろ剥く」草城 人生の午後

『 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」蝉丸(10)

意味はともかく、「これやこの」を俳句に用いる感性が、病床にあっても斬新な気がします。

 

他にも、百人一首に出てくる歌の中の句を、いたるところで見かけます。

草城の遺した句の全てを鑑賞したわけではないですが、改めてざっと見ただけで、これだけあるので(実際はもっとありましたが割愛しました)草城は「小倉百人一首」が好きだったのかもと思ってしまいます。

 

また草城は、百人一首のゆかりのある、天智天皇を祀った近江神宮にも参拝し句を詠んでいます。

 「みそなはす 皐月の湖の てりくもり」草城 第五句集(近江神宮)昭和十六年

 近江神宮が創祀されたのは、草城が訪れた(もしくは句を詠んだ)前年の昭和15年。

 現在では、近江神宮と言えば「競技かるた」の「クイーン戦」「名人戦」が開催され、漫画やアニメの「ちはやふる」でも登場する神社として有名ですが、当時は、天智天皇を祀るというくらいで、現在のように百人一首と関連がある神社とも一般的に認知されていなかったようにも思えます。

 昭和初期、それまでの古い体質の俳壇に、旋風を巻き起こした草城ですが、古典の「小倉百人一首」などに登場する歌が、草城の遺した俳句のなかに見え隠れするというのも、個人的に興味深く感じます。

 

参考図書

・「日野草城句集 室生幸太郎編」 角川書店発行

・日野草城句集 昨日の花 邑書林句集文庫

・昭和俳句文学アルバム24「日野草城の世界」桂信子編著 梅里書房

 

草城句集―花氷 (京鹿子叢書)

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  • 作者:日野草城
  • 出版社/メーカー: 沖積舎
  • 発売日: 1996/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

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まるで佐渡のラピュタ? 金の抽出量「東洋一」を誇った北沢浮遊選鉱場跡

佐渡 北沢浮遊選鉱場跡 Kitazawa Flotation Plant

 

今回は「佐渡のラピュタ」こと「北沢浮遊選鉱場跡」へ撮影に行った時の備忘録です。

  

古くは、平安時代の説話集「今昔物語」にも出てくる佐渡の金。

佐渡最大の金山、相川金山だけでも掘られた坑道は最深部海面下530メートル、坑道の総延長は約400キロメートルにもおよぶそうです

(東京〜新潟間の新幹線の距離が約334キロメートル)。

 

掘り出された金を含む鉱石(金鉱石)から、金を抽出する施設も当然必要なわけで、昭和の15年間という短い間に操業され当時「東洋一」の規模を誇った選鉱場の跡地が、今も佐渡島に残っています。

 

北沢浮遊選鉱場跡

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昭和12年、日中戦争が始まると、さらなる増産体勢が計られ大規模な選鉱場が必要になりました。そこで建設されたのが「北沢浮遊選鉱場」。

 

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金銀山で採れた鉱石を粉砕し、主に水と油、薬品からなる溶液で浮遊させ、金銀を抽出していた選鉱場。

 

佐渡のラピュタ

f:id:odekakeiku:20200124133122j:plain1940年、昭和15年に操業を開始し、1ヶ月に50,000トン以上の鉱石を処理する能力を備え規模、抽出量ともに「東洋一」を誇ったそうです。

 

f:id:odekakeiku:20200124133129j:plainむき出しのままのコンクリートの基礎

 

f:id:odekakeiku:20200124133133j:plainスタジオジブリの「天空の城のラピュタのようだ」と聞いてやって来ましたが、個人的にはラピュタに出てくるバズーの故郷、炭鉱の渓谷「スラッグ渓谷」に近いかなと感じました。

 もしここに運搬用の鉄道の線路があったら、まさにここは「スラッグ渓谷」。

 

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 ラピュタの荘厳なイメージよりも、同じ鉱石を扱う労働現場の、労働者が働いていた雰囲気のような気配を感じたから。当時、選鉱場内では女性も働いていたそうです。

夜はライトアップもされるそうで、それを見たらまた違う印象を持つのでしょう。

シックナー

f:id:odekakeiku:20200124133143j:plain昭和15年(1940年)に完成した、シックナーと呼ばれる泥鉱濃縮装置。直径は50mにもおよびます。

こっちの方が、天空の城ラピュタぽいかな。

 

発電所跡

f:id:odekakeiku:20200124133145j:plain唯一、建物の原型を留めて残っているのが、明治に完成した煉瓦造りの発電施設。

中は、往時の写真等を展示しているそうですが、行った時は入れませんでした。

 

f:id:odekakeiku:20200124133150j:plainここを訪れたのは、春のある日の夕暮れ時。

満開の桜も見下ろしていましたよ。

 

撮影機材:NikonD750 /AF-S NIKKOR 20mm f/1.8G ED / AF-S NIKKOR 300mm f/4E PF ED VR /

 

10 地球の歩き方JAPAN 島旅 佐渡 (地球の歩き方JAPAN島旅)

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド・ビッグ社
  • 発売日: 2017/12/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
街道をゆく 10 羽州街道、佐渡のみち

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  • 作者:司馬遼太郎
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2014/08/07
  • メディア: Kindle版
 

 

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「広島陸軍被服支廠」峠三吉「原爆詩集」にも描かれた現存する最大規模の被爆建物。解体一部保存か、全棟保存か。

比治山から見えた赤煉瓦の倉庫

f:id:odekakeiku:20191224233114j:plain比治山から見える広島陸軍被服支廠(2019年7月)

もうずいぶん前のことだけど、広島を訪れて比治山に登った時、逆「L」字形に建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群が気になった。

後日、調べてみるとそれは「広島陸軍被服支廠跡」という大正時代から建っている歴史遺構。

これだけ大きな被爆建物が、今でも広島の市街地にひっそり建っているのが不思議に思えたし、当然、何かに利用されているものとずっと思っていた。

 

広島陸軍被服支廠

f:id:odekakeiku:20191224233126j:plain2019年7月、広島原爆関連の調べ物をするために広島市内を訪れた時に、その「広島陸軍被服支廠」別名「出汐倉庫」を訪ねてみることにした。

住宅街の中に、原爆投下から70数年が経った今もひっそりと建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群。

 

f:id:odekakeiku:20191224233137j:plain「陸軍被服支廠」と言う名前の通り、旧陸軍の軍服を生産、管理する施設として使用されていた。

明治38年(1905年)に陸軍被服廠広島派出所が、宇品線(かつて存在した広島駅〜宇品までを結ぶ鉄道路線)の沿線に設置される。

 

ちなみに当時の陸軍被服本廠は、東京本所にあった。1919年に王子区赤羽台に移転、その後に発生した関東大震災で、多くの住民が本所被服廠跡に避難したが火災旋風が起きて4万人が犠牲となったあの場所(現在は東京都慰霊堂のある横網町公園)。

 

話を元に戻します。

明治40年(1907年)に陸軍被服廠広島派出所は、支廠に昇格し規模を大きくしていきます。

 

 

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煉瓦造りに見えるが、本体は鉄筋コンクリートで建設されており外壁に煉瓦を積み上げ耐火、耐震構造を兼ねている。

初期の鉄筋コンクリートと煉瓦を併用した珍しく貴重な構造だそうだ。

 

昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、投下直後は臨時の救護所としても使用された。

戦後は、大学の寮や日本通運の倉庫などにも使用されてきたが、現在は使用されていない。

 

f:id:odekakeiku:20191224233216j:plain赤煉瓦の壁が今もなお当時の面影を残して建ち並ぶ光景は、迫力があり感慨深いものがある。

これほど大きな被爆建物は残っていない。

 

原爆の傷跡

f:id:odekakeiku:20191224233256j:plain歩いていてすぐ気がついたが、西側の鉄板の窓が内側に食い込む様に変形している物がある。

 

f:id:odekakeiku:20191224233305j:plain爆心地から2,670m。

それだけ離れていても、鉄板を容易に変形させるほどの爆風だったのだ。

原爆は「熱線」「放射能」と、凄まじい「爆風」を発生させる。
この「爆風」の破壊力は想像を絶するものだった。

ここに来て改めて「爆風」の恐ろしさもリアルに感じ取ることができた。

 

峠三吉「原爆詩集」より

 自分は、この陸軍被服支廠を訪れる前、

「ちちをかえせ ははをかえせ」

の序文で始まる峠三吉の「原爆詩集」を読み返してきた。

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その日

いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。

高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。

そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向きむきに横たわっている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(冒頭)

 

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(中略)多くの少女は叫びつかれうらめしげに声を落とし、その子もやがて柱のかげに崩れ折れる。

灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれていく。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

 

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八日め

がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、今日も外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。

柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、

無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。

K夫人も死んだ。

ー収容者なし。死亡者誰々ー

門前に張り出された紙片に墨汁が乾き

むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

解体一部保存か、全棟保存か

f:id:odekakeiku:20191225012144j:plain現存する4棟が建ったのは、1912年ごろ。築100年以上が経過し、維持管理が難しくなってきているとのこと。


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震度6程度の地震でも、倒壊の恐れがあるらしい。

2019年12月、広島県は現存する4棟のうち3棟を解体し、残る1棟を改修し保存する方針を示した。

それに対し、貴重な被爆建物を全棟保存しようと言う呼びかけも起きている。

 

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現存する、これだけ大きなスケールの被爆建物はない。

実際に行って歩いて見て、五感で感じるものは大きい。

今なお語りかけてくる歴史の証言者だ。

広島の原爆関連施設ではマイナーなスポットだけど、きっと何か感じるものはあると思う。

広島を訪れた際は、一度訪れて見て感じてほしい遺構の一つです。 

 

www.change.org

全棟保存を求める webでの署名活動も行われています。

 

【2019年7月撮影 広島市南区出汐「旧陸軍被服支廠」、比治山】 

 

原爆詩集 (岩波文庫)

原爆詩集 (岩波文庫)

  • 作者:峠 三吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/07/16
  • メディア: 文庫
 

 

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MacBook Pro13インチを購入するつもりだったけど16インチにして大正解!ハイスペックなだけでなくキーボードも改善、スピーカーの音質は神領域!

2011年から毎日ずっと使ってきた「MacBook Pro2011 13インチ」

 

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下がMBP13インチ(2011)、上が新しいMBP16インチ

ほぼ毎日持ち歩き、出張や海外にも頻繁に持って行っても壊れることを知らないタフさと、メモリ増設やHDDなど自分で裏蓋を開けてカスタマイズできるのが気に入ってました。

SDスロットも標準搭載だし、USBも汎用性の高い方だし(Cタイプではないし)、自分はまだ時代遅れのCD、DVDも人よりそこそこ使ってたし。

途中、SATケーブル不具合で、ケーブルを自分で2回交換したのと、トラックパッドを自分で1回交換したのみで、ほとんど8年間故障知らず。

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 メモリも16GBまで増設していて、まだまだ使えそうな気もするけど、処理能力的にもう限界かなと思っていたのと、急に壊れて作業が滞るのが怖いので、新しいMBPに買い換えようと決意し、どれにしようか1ヶ月ほど悩んだ挙句、結果的には13インチでは無く、発売されたばかりのMacBook Pro16インチを購入しました。

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 くだらないことまで、あれこれ悩んだことも、勉強のうち。備忘録として、簡単にメモ程度に残しておきます。

 

今までのMBP(2011 13インチ)の主な用途(超大まか)

  • Lightroomでの画像編集、画像管理 1ヶ月間の撮影画像のMBP取込枚数5,000〜1万枚(多い時で2万)約150GB〜600GB。取込画像:フルサイズRAW。
  • Photoshopでの画像編集、デザイン
  • データー納品
  • 執筆作業
  • ブログ記事作成

などなど

 

新しいMBPに最低欲しいスペック

  • CPU:クアッドコア 2.4GHzクラス以上
  • ストレージ:500GB〜1TB SSD(正直あればあるほど)
  • メモリ:16GB〜

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MacBook Pro 13インチ

当初、13インチにこだわった理由は、画像編集をするには画面が小さいけど、ほぼ毎日持ち運ぶので機動性を考えてが大きいです。

現在のMBP13インチの重量1.37キロは、超魅力的。

 

でも、13インチ標準のメモリ8GBは少なすぎる・・・

CPUは、動画編集はほとんどしないので、そこまでハイスペックなのは宝の持ち腐れになるので必要ないと考えていました。

それよりも重要なのは、メモリ。

でもなぜか、13インチのモデルのほとんどはメモリ8GBが標準

何度かApple Storeに行って相談したら「Lightroomの作業で16GBも必要ですか?」と言われることしばしばあったけど

改めてアクティビティモニタを開いて確認したら、Lightroomとchromeを開けて作業しただけで、8GBは優に越えて14GBほど常時使用している。

現行の13インチモデルの標準8GBでは、全然足りないと思っているユーザーは多いような気がするんだけど、Appleはここのところずっと8GBしか用意していないのは、なんでだろう?CTO(注文使用生産)して金を注込めということなのかな。

 

MBP13インチ(512GB)をメモリ16GBに増設すると、16インチ(512GBメモリ16GB)と値段があまり変わらなくなる

さてそんなこんなで、13インチモデルをメモリ16GBにCTOで増設して

(現在のMacBook Proは、メモリ、SSDなど自分で自力では増設できません)

ストレージも、毎月150GB〜多い時で600GBデータをMBPに移行して作業しているので最低500GBは欲しい!

そんなこんなで、13インチ512GBモデルで選んでみると・・・

お値段が、16インチ(メモリ16GB、ストレージ512GB)と数千円しか違わないことが判明。。。

 

16インチモデルのデメリット

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MacBook Pro 16インチ 隣奥はMacBook Pro 13インチ

最初、16インチは重いし、機動性に欠けると考えていましたが、今まで使っていたMBP(2011)の重さは2.06kg。

新しく発売された16インチは、前回のモデルの15インチより、若干重くなり2kg。

でも、値段がCTOで増設した13インチと変わらないとなると16インチのデメリットは重いというのと、これも当たり前だけどひとまわり大きいというくらいで、むしろメリットばかりが目立ちます↓

 

16インチのメリット

  • 13インチ→16インチ 当たり前だけど画面が大きくて見やすい。
  • CPU他のスペックも13インチより、かなりハイスペック。
  • キーボードが13インチの(バタフライ式)よりも、16インチ(シザー構造)打ちやすく静か。不具合も改善。
  • 6スピーカーサウンドシステムで、音質が大幅に向上。

画面が見やすい、ハイスペックというのはあえて言わなくても当たり前だけど、

まず、キーボードが不具合の多かったバタフライ式を廃止してシザー式に戻ったこと。これにより、以前のMacBook Proのような安定したキーボード操作が戻った。

これは、かなり大きい改善点です!

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左16インチ 右13インチ

そして、あまり期待してなかったけど6スピーカーサウンドシステムは、今までのパソコンの内臓のスピーカーとは比べ物にならないほど。

我が家の6歳児の娘が、MacBook Pro16インチで曲が流れた瞬間に「これ(MBP16)から音が出てるの?」と驚いて聞き入ってたほど、重圧感のある低音、クリアで立体感のある音質。

ノートPCのスピーカーの常識を、遥かに超えた完成形です。

 

 

 

New Apple MacBook Pro (16インチ, 16GB RAM, 512GBストレージ) - シルバー

New Apple MacBook Pro (16インチ, 16GB RAM, 512GBストレージ) - シルバー

  • 発売日: 2019/11/18
  • メディア: Personal Computers
 

 

 

浅草寺 「歳の市」夜の幻想的な「羽子板市」を見に行く。12月17日〜19日。

 

「納めの観音」

毎月18日は、観音様の縁日。

特に12月18日は「納めの観音」と言って、一年無事に過ごせた感謝や、来る年がより良い年になるようにと、聖観世音菩薩を本尊とする浅草寺へ参詣する人が昔から多いそうです。

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この「納めの観音」の前後三日間(12月17日〜19日)に開催されるのが「歳の市」別名「羽子板市」。

 

「歳の市」「羽子板市」

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もともと「歳の市」は、正月用品を売る市だったそうですが、いつからか正月の縁起物として人気のあった羽子板を売る市「羽子板市」になったようです。

 

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羽子板市で扱っているのは、遊ぶ羽子板ではなく、飾る羽子板。

飾り羽子板は、厄払い、女性の魔除として昔から女性へ贈られてきました。

 

世相の羽子板

f:id:odekakeiku:20191220144105j:plain昔から主流は、和服女性や歌舞伎の題材をとった押絵の羽子板が中心だけど、最近ではその年に流行ったものの羽子板も多くあります。

先日公開された「アナと雪の女王2」もあれば

 

f:id:odekakeiku:20191220144111j:plain今年(2019年)で、放送50周年を迎えた「サザエさん」

 

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浅草と言えば渥美清。第1作目の「男はつらいよ」から半世紀となる今年、50年目の最新作が公開される寅さんも羽子板になっていました。

その隣は、今年大いに盛り上がったラグビー日本代表の羽子板も。

 

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ペイペイやLINE Payなどのスマホ決済ができる露天もありましたよ。

政府のキャッシュレス決済5%還元対象にもなっています。時代ですね。

 

芸大生とのコラボ

f:id:odekakeiku:20191220144124j:plain東京藝術大学デザイン科の学生の作品と、羽子板職人のコラボレーションした羽子板。

 

f:id:odekakeiku:20191220144128j:plainこちらも販売しているのもあります。

毎年、楽しみにしているけど、最近は、芸大生の作品にもディズニーや、キャラクター物の作品が増えているような気がします。

 

子供も楽しめる

f:id:odekakeiku:20191220144133j:plainお絵かき羽子板も作れます。

我が家も、3年ほど前に子供が作りましたなー。

こちらは絵なので、お絵かきした後、実際に羽子板で遊べます。

 

f:id:odekakeiku:20191220144135j:plainこちらは、手形スタンプ羽子板。

 

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手形は、その年の子供の成長の記念になるので、意外と良いかも。

 

より立体感を感じる、夜の羽子板市

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羽子板市は、当然、午前から開催しているけど、夜は照明に照らされて押し絵がさらに浮かび上がったよう見える気がして好きです。

 

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境内も入れると、江戸時代にタイムスリップしたような。ちょっと幻想的です。

夜は21時半までやっていて(最終日は20時半まで)、日中のような混雑もないので撮影もしやすいですよ。
 

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早いもので、今年も残すこと10日ほど。

毎年「自分だけ年の瀬の気分がせず、世間から取り残されているような気がする」

そんな方は、浅草寺の「歳の市」に行く事をおすすめします。

「もういくつ寝ると正月か〜」という気分にきっとさせてくれますよ。

と、言っても今年の「歳の市」は終わっているので、来年どうぞ。

 

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浅草鷲神社から「酉の市の元祖」足立区花畑「大鷲神社」へ行ってみる。

令和元年 2019年11月の酉の日は、8日と20日。

酉の市と言えば、浅草千束の鷲神社。

 

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そもそも、ここの酉の市が有名になったのは江戸時代も中期〜後期になってから。

もともとは現在の足立区花畑(はなはた)にある大鷲神社で、熊手を売っていたのがはじまりで、江戸市中から綾瀬川をのぼって、または馬や歩いてお参りに行っていたそうな。

しかし、江戸市中から少し遠く離れた花畑。

いつからか、浅草に近く吉原のすぐ側の千束の鷲神社の方が「酉の市」として賑わうようになった。

ゆえに

  • 花畑の大鷲神社を「おおとり」
  • 浅草千束の鷲神社を「しんとり」

とも言うようになった。

 

しかし「足立区花畑」は、現在でも陸の孤島。東京都なれど、埼玉県との都県境に位置し、近くに鉄道は通っていない。

都バスの路線図を見たら、バスを使えば近くまで行けると判明したので、都バス1日乗車券もあるので、浅草千束の鷲神社から、元祖花畑の大鳥神社へ訪ねてみようと思います。

(500円の都バス一日乗車券があるので「都バス」のみで行きますが、東武線と東武バスを使えば、もう少し花畑大鷲神社の近くまで行けますよ)

 

浅草千束鷲神社から、足立区花畑大鷲神社へ

f:id:odekakeiku:20191120063845j:plainまずは、浅草鷲神社の最寄りの「千束」バス停から都バス「草43足立区役所行き」に乗車。

「竜泉」バス停も近いけど、酉の市の際中は「竜泉」からは大勢の人が乗り込むので、あえて「千束」から乗ります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064202j:plain途中、「千住四丁目」で降りて、同じバス停に来る「北47足立清掃工場」行きを待ちます。

「北47」の「竹の塚」行きは本数もそこそこありますが、「足立清掃工場」は本数も少ないので事前に調べて行くか、ちょっと手前の始発の「北千住」で時間をつぶすといいかも。

しばらくずーーーっと(40分ほど)乗って、「足立清掃工場」の1つ手前の「水神」で下車。

 

f:id:odekakeiku:20191120063853j:plain毛長川沿いを歩いて行きます。

毛長公園などの緑地もずっと続いてちょっとしたいい散策路。

 

f:id:odekakeiku:20191120063859j:plain毛長川を渡ると、そこは埼玉県草加市。

この川沿いを合流する綾瀬川方面へしばらく歩いて行くと目的地の花畑「大鷲神社」があります。

 

「酉の市の元祖」花畑大鷲神社

f:id:odekakeiku:20191120063904j:plain都バスのバス停「水神」から20分強歩いて、ようやく酉の市の元祖「大鷲神社」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20191120063912j:plain千束の鷲神社と同様にこちらも、多くの提灯が掲げられており、夜も綺麗そうです。

 

f:id:odekakeiku:20191120064147j:plain境内へと続く参道の両脇にも屋台が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064348j:plain大鷲神社本殿。

「酉の市」が開催されていますが意外と参拝客も少なめ。

 

「酉の市」

f:id:odekakeiku:20191120064229j:plain「酉の市」自体も、浅草千束の鷲神社に比べれば当然小規模ですが

 

f:id:odekakeiku:20191120064404j:plainゆっくり見られるので、こちらはこちらで趣があります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064422j:plain境内脇にも熊手を扱う露店が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064743j:plain「よっ!商売繁盛!商売繁盛!」やってます。

観光客も多く来る浅草と違って、地元密着型、地元のための「酉の市」のような感じが良いです。

 

花畑大鷲神社あれこれ

f:id:odekakeiku:20191120064434j:plain境内手前に「力石」がありました。

力石ハンターとしては、見落とせません。

農村だっただけに、農家の男たちの力試しとして使われ奉納されたようです。

しかし、本当に重そう。腰が割れる。。。

 

f:id:odekakeiku:20191120064751j:plain他にも、いかにも神通力がありそうな小さな祠があったり

 

f:id:odekakeiku:20191120064759j:plain池もあったり。こじんまりとした神社ですが、よく整っており飽きません。


f:id:odekakeiku:20191120064446j:plain浅草鷲神社とはまた異なった雰囲気が楽しめた、元祖「酉の市」花畑大鷲神社でした。

 

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