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東博の顔真卿展に行く前に予備知識。人物としての顔真卿を知れば「祭姪文稿」の良さがわかる!

国立東京博物館で開催されている特別展「顔真卿」を見に行く前に、書についての予備知識を学んでメモしておこうという記事の2回目。

 

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今回は、特別展の主役、顔真卿について。

来日している顔真卿の「祭姪文稿(さいてつぶんこう)」を見るには、まず人物としての顔真卿を知ると、より面白味が増します。

と言っても、顔真卿って書では有名だけど、あまり日本人には人物としてはなじみないような。うだうだ書いても読まれなそうなので。

そこで、切り口を変えて、まずは顔真卿(709年〜785年)の生きた時代背景を判りやすく理解するために、同時代を生きた、誰もが知る超有名人を2名を先に登場させておきます。

 

傾国の美女「楊貴妃」と、詩聖「杜甫」

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世界三大美人の1人にあげられる「楊貴妃(ようきひ)」

誰もが聞いたことのある「国敗れて山河あり・・・」で有名な詩聖「杜甫(とほ)」も、実は顔真卿と同時代を生きた人物です。

 

楊貴妃は、もともと玄宗皇帝の息子の妃として迎え入れられましたが、色々あり父親の玄宗皇帝の皇后となります。

玄宗皇帝は、楊貴妃のあまりの美しさに魅了され、政治はないがしろになりがち。

そこに接近してくるのが、安禄山(あんろくざん)という現在のサマルカンド出身でソクド人と突厥人(トルコ系)の混血の軍人です。

安禄山は楊貴妃と玄宗皇帝に巧みに近づき、2人の信頼を得ます。

皇帝の周囲の要人達は「安禄山は謀反を起こすかも知れない」と度々皇帝に進言しますが、安禄山を信用しきっている皇帝は丸無視。むしろ安禄山を悪く言う者を追い出してしまうほどでした。

そしてついに755年、安禄山が反乱を起こします。

反乱軍の多数は、異民族や朝廷に対し良く思わない者ばかりの寄せ集め。反乱軍による虐殺、略奪、強姦などの残虐な行為が各地でくり返されます。

反乱軍は一挙に唐の副都「洛陽」まで快進撃を続け、安禄山は洛陽で新政府を樹立し自らを大燕皇帝と宣言します。これが世に言う安禄山の乱または安史の乱です。

 

f:id:odekakeiku:20190223112905j:plain「紀泰山銘」唐玄宗筆 726年 紙本墨拓 東京国立博物館(特別展 顔真卿 ここは撮影可。玄宗自ら撰文し書いた隷書の大作。山東省泰山の崖に現存。) 

玄宗皇帝は、迫り来る反乱軍に十分に対抗できず、唐の都、長安を捨て成都へと楊貴妃を連れて逃げます。

その逃走途中、皇帝を惑わせ安禄山の乱を招いた楊貴妃に対する不満が側近や護衛の兵からもでて、楊貴妃とその一族は殺害されます。

 

唐の都、長安陥落。この知らせは遠く日本にまで伝えられるほどの大ニュースでした。

そして、この長安陥落の惨状を目の当たりにしたのが、後に詩聖とまで呼ばれるようになる杜甫です。

当時、朝廷の官職に付いていた杜甫は、反乱軍に捕まり拘束されますが後に脱出して成都へ逃れました。

杜甫は、この長安陥落の感情を、あの有名な詩にして詠みます。

国敗れて山河あり 城春にして草木深し

時に感じては花にも涙をそそぎ 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす

烽火三月に連なり 家書万金にあたる

白頭掻けば更に短く すべてしんに勝へざらんと欲す

「春望」  

烽火(ほうか):のろし、戦火

f:id:odekakeiku:20190221140829j:plain杜甫は戦乱を逃れ、成都に草堂を建て暮らす。杜甫草堂の杜甫像。管理人撮影

顔真卿と杜甫は互いに書を交わしたことがあるようですが、おそらく楊貴妃も含めた三者ともに実際にはあまり接点は無かったと思います。しかし、誰もが知る楊貴妃と杜甫は、顔真卿の生きた時代背景を理解するうえで重要な人物です。

 

さて、安禄山の乱(安史の乱)で、当初より敗戦続きの唐軍でしたが、はじめから反乱軍に対し徹底抗戦しよく守っていたのが平原太守(現在の山東省徳県の地方長官)だった顔真卿と、その一族です。

 

顔真卿<がんしんけい>

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709年長安に生まれる。小さい頃に父を亡くし、子供の頃は家が貧しく衣食に困るほどだったそうです(顔魯公神道碑による)。

 26歳の時、科挙の中でも最難関の進士に及第。この若さで進士及第は、まさにエリート中のエリート。

高級官僚として要職に就きますが、儀礼や高徳を重んじる実直な人柄が周囲から疎まれ左遷を繰り返します。たとえ目上の上司でも徳と礼に反していれば、容赦無く糾弾していたようです。

753年45歳の時に、平原太守(現在の山東省徳県の地方長官)に左遷。

平原太守として赴任すると、安禄山の反乱の予兆をいち早く察知。顔真卿は長雨の備えと偽り城を増強し、密かに食料を確保、戦力となる若者を集めます。

安禄山は使者に平原の様子を探らせますが、顔真卿はその目を欺くため毎日のように宴会をしていたそうです。

そして755年、安禄山の乱(安史の乱)が勃発。

周囲が反乱軍に制圧され唐軍が劣勢になるなか、顔真卿の有事に備えていた軍は反乱軍に徹底抗戦。

やがて反乱軍は鎮圧されて、顔真卿は功績を称えられ唐の都長安に大臣として迎えられますが、また幾度にも妬まれ中央から追い出され左遷をくりかえします。

782年、安史の乱で唐軍として戦った李希烈が、こんどは唐に対し反乱を起こします。「顔真卿ほどの人物なら説得に応じるかもしれない」と、顔真卿を妬んでいた宰相の盧杞は、顔真卿を使者として反乱軍に向かわせようとします。

「一元老を失う」周囲の要人は説得に行くのは危険すぎると宰相盧杞や顔真卿に言いますが、顔真卿は反対を押し切り「これは君命なり」と、あえて策略と知りながら反乱軍の中へ説得に行き捕らえらます。

李希烈は、顔真卿ほどの人物、ぜひ宰相に迎えたいと説得しますが当然拒否されます。殺すと脅しても、火あぶりにすると言っても顔真卿自ら飛び込もうとする有様。顔真卿を幽閉しつつ生かしておくも、やがて殺害されます。享年76歳。

 

出世よりも高徳や礼を重んじ、国のために尽くし、文官でありながらも反乱を未然に察知し、備えを怠らず、有事の際は勇猛果敢に戦闘を指揮。

高級官僚ともなれば特に何をしなくても貢物や賄賂で贅沢三昧できる時代、曲がった事を嫌い思慮に富み、そして書の達人。顔真卿のその人柄が、今でも賄賂や出世欲が蔓延する中華圏の人々に愛されている理由なのかもしれません。

 

祭姪文稿(さいてつぶんこう)

f:id:odekakeiku:20190221170129j:plain顔真卿筆 「祭姪文稿」 現在 台北国立博物院所蔵

 前記の通り、顔真卿は平原で反乱軍に対し勇猛果敢に戦います。

また同様に、顔真卿の一族で常山太守であった 顔杲卿(がんこうけい)とその子、顔季明(がんきめい)も反乱軍に土門で交戦します(祭姪文稿にある「土門を開く」)。

徹底抗戦する顔杲卿軍は、やがれ反乱軍に制圧されました。降伏に応じなかった顔杲卿の目の前で子の顔季明は首をはねられ、顔杲卿も洛陽で惨殺刑に処せられ一族も皆殺しにされたそうです。

 乾元元年(758年)顔真卿は、顔一族を集め安否を確認します。そこに兄、顔季明の首を携えてやってきた顔泉明がやってきます。

非業の死を遂げた甥(祭姪文稿の「姪」は兄弟の子という意味)の顔季明と、その父の顔杲卿を思い、顔真卿は嘆き悲しみ震える手で追悼の文を書きます。これが「祭姪文稿」顔真卿五十歳の時の肉筆の書です。

これは下書きで清書ではありませんが、下書きゆえの感情の激しさが一字一字に表れ、訂正し塗りつぶした箇所にも悲愴感が漂っています。

顔真卿の非常に数少ない肉筆であることだけではなく、これが代々の皇帝をはじめ人々を感動させてきた書であり、戦乱の悲しみを見る者にリアルに物語る貴重な歴史的資料としても、無二の至宝と言われる所以なのかもしれません。

 

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王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

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マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

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