比治山から見えた赤煉瓦の倉庫
比治山から見える広島陸軍被服支廠(2019年7月)
もうずいぶん前のことだけど、広島を訪れて比治山に登った時、逆「L」字形に建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群が気になった。
後日、調べてみるとそれは「広島陸軍被服支廠跡」という大正時代から建っている歴史遺構。
これだけ大きな被爆建物が、今でも広島の市街地にひっそり建っているのが不思議に思えたし、当然、何かに利用されているものとずっと思っていた。
広島陸軍被服支廠
2019年7月、広島原爆関連の調べ物をするために広島市内を訪れた時に、その「広島陸軍被服支廠」別名「出汐倉庫」を訪ねてみることにした。
住宅街の中に、原爆投下から70数年が経った今もひっそりと建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群。
「陸軍被服支廠」と言う名前の通り、旧陸軍の軍服を生産、管理する施設として使用されていた。
明治38年(1905年)に陸軍被服廠広島派出所が、宇品線(かつて存在した広島駅〜宇品までを結ぶ鉄道路線)の沿線に設置される。
ちなみに当時の陸軍被服本廠は、東京本所にあった。1919年に王子区赤羽台に移転、その後に発生した関東大震災で、多くの住民が本所被服廠跡に避難したが火災旋風が起きて4万人が犠牲となったあの場所(現在は東京都慰霊堂のある横網町公園)。
話を元に戻します。
明治40年(1907年)に陸軍被服廠広島派出所は、支廠に昇格し規模を大きくしていきます。
煉瓦造りに見えるが、本体は鉄筋コンクリートで建設されており外壁に煉瓦を積み上げ耐火、耐震構造を兼ねている。
初期の鉄筋コンクリートと煉瓦を併用した珍しく貴重な構造だそうだ。
昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、投下直後は臨時の救護所としても使用された。
戦後は、大学の寮や日本通運の倉庫などにも使用されてきたが、現在は使用されていない。
赤煉瓦の壁が今もなお当時の面影を残して建ち並ぶ光景は、迫力があり感慨深いものがある。
これほど大きな被爆建物は残っていない。
原爆の傷跡
歩いていてすぐ気がついたが、西側の鉄板の窓が内側に食い込む様に変形している物がある。
爆心地から2,670m。
それだけ離れていても、鉄板を容易に変形させるほどの爆風だったのだ。
原爆は「熱線」「放射能」と、凄まじい「爆風」を発生させる。
この「爆風」の破壊力は想像を絶するものだった。
ここに来て改めて「爆風」の恐ろしさもリアルに感じ取ることができた。
峠三吉「原爆詩集」より
自分は、この陸軍被服支廠を訪れる前、
「ちちをかえせ ははをかえせ」
の序文で始まる峠三吉の「原爆詩集」を読み返してきた。
その日
いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。
高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。
そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向きむきに横たわっている。
峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(冒頭)
(中略)多くの少女は叫びつかれうらめしげに声を落とし、その子もやがて柱のかげに崩れ折れる。
灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれていく。
峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)
八日め
がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、今日も外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。
柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、
無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。
K夫人も死んだ。
ー収容者なし。死亡者誰々ー
門前に張り出された紙片に墨汁が乾き
むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。
峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)
解体一部保存か、全棟保存か
現存する4棟が建ったのは、1912年ごろ。築100年以上が経過し、維持管理が難しくなってきているとのこと。
震度6程度の地震でも、倒壊の恐れがあるらしい。
2019年12月、広島県は現存する4棟のうち3棟を解体し、残る1棟を改修し保存する方針を示した。
それに対し、貴重な被爆建物を全棟保存しようと言う呼びかけも起きている。
現存する、これだけ大きなスケールの被爆建物はない。
実際に行って歩いて見て、五感で感じるものは大きい。
今なお語りかけてくる歴史の証言者だ。
広島の原爆関連施設ではマイナーなスポットだけど、きっと何か感じるものはあると思う。
広島を訪れた際は、一度訪れて見て感じてほしい遺構の一つです。
全棟保存を求める webでの署名活動も行われています。
【2019年7月撮影 広島市南区出汐「旧陸軍被服支廠」、比治山】