山手線の新大久保駅から西へ100mほど行ったところに、今や宝くじ当選のご利益があると人気の「皆中(かいちゅう)稲荷神社」という、変わった名前の神社がある。
今日は、皆中稲荷神社と百人町の由来、そして、つつじについて。
百人町
現在、コリアンタウンとして賑わうJR新大久保駅界隈。ここの地名は新宿区百人町。
徳川家康江戸入府時、内藤清成率いる伊賀組鉄砲隊は、まだ残る武田、北条の残党による乱が起きるのを防ぐため、甲州街道の要地にあたる新宿一帯に布陣したと言われている。
江戸開府時、鉄砲隊百人組は、百人町界隈に移され定住することとなった。
今も残る、江戸城大手三之門の百人番所
通常は、江戸城大手三之門を交代で警備。また将軍外出時には、護衛の任に当たっていたという。
皆中稲荷神社
時は寛永年間(1600年代前半)の頃、ある鉄砲隊与力が射撃研究のため一夜を過ごすと、稲荷神が夢枕に立ったという。
翌朝、祈願し射撃をしてみると百発百中!
他の隊士も、ここに祈願して射撃をすると、よく的中したという。
それ以来、皆中(みなあたるの意)稲荷として鉄砲組から信仰された。
皆中稲荷に行ってみると、お巡りさんの自転車があった。
なるほど。お巡りさんも百発百中の祈願をしに来られたのかな?と冗談で思ったが
隣が交番だったと、帰りに気づいた。ただ、自転車を置かせてもらっているだけみたい。
参拝者は、サラリーマンの集団や、若い男女、カップルなど様々。引っ切り無しに参詣に来ていた。
そして、お守りや、宝くじを入れる袋(人気らしい)などを購入されている。
かつて大久保は、つつじの名所
皆中稲荷神社の境内に、明治天皇の詠んだ歌碑があった。
まがねしく 道のひらけて つつじ見に ゆく人おほし 大久保の里
江戸時代、鉄砲隊百人組の同心たちは内職で、つつじを栽培していた。
その名残でかつて大久保は、江戸時代から昭和初期までつつじの名所だったという。
明治天皇が詠まれたのは、明治32年(1899年)頃。
おそらく、「道のひらけて」とは鉄道のことで、まだ開業していなかった山手線ではなく、中央線のことだと思う。
当時は、見物用の臨時列車まで運行されていたほど盛況だったとか。
昭和初期以降、急速な宅地化や戦災もあって、つつじは大久保から姿を消した。
戦後になって、毎年4月頃に皆中稲荷神社で「大久保つつじ祭り」が開催され、昭和47年、新宿区の区の花は、つつじに制定されたとのこと。