呉観光協会発行の
「まちあるきガイドブック すずさんが暮らした呉」より
今回は「コース4面影をとどめる商店街をめぐる道」より
呉空襲で焼ける前の、呉の面影をたどりに少し歩いてみます。
このコースは作中に出てくる場所は少ないのですが、呉空襲以前の呉の街の面影をたどることができる、とても趣のあるコースです。
堺橋
呉駅を出発して、まずは市内中心部を流れる堺川の堺橋へ。
コース1のすずさんと周作さんが歩いた道でも触れましたが、境橋は当時の姿をとどめる貴重な橋の1つです。広島の原爆もそうですが、街は壊滅しても橋だけは残ることがよくありました。
かつては、堺橋の上を路面電車が走っていました。映画のアニメ版にも堺橋の上を走る路面電車が映っています。
二河橋
市街地を流れるもう1つの大きな川、二河川。その二河川にかかる二河橋も往時のままの姿で残されています。
アール・デコ調の優美な欄干。
二河橋もかつては市電が走っていました。
鯛乃宮神社と第六潜水艇殉難の碑
古い面影を残す商店街の脇道をぬけていくと、鯛乃宮神社がありました。
境内まで昇ってみると、大きな慰霊碑が立っています。
この慰霊碑は、明治43年(1910年)に起こった、第六潜水艇の事故の慰霊碑。引き上げ後、乗員は皆、最後まで持ち場を離れず、艦長は後世のために事故原因を最後まで書き残していたとして、アメリカやイギリスなどの諸外国でも海軍軍人の模範と称されていました。
戦前の呉の名所案内等を読んでも、この慰霊碑が載っています。
両城の防空壕跡
下記の両城の200階段を登り口の横に防空壕が残っていました。
呉空襲について、この回でも少し触れておきたかったのですが、防空壕の解説がとても解りやすかったので以下転記致します。
呉空襲を体験した防空壕
戦局が悪化し空襲の被害が現実のものとなった昭和19年(1944年)以降、呉市内には海軍の防空壕や、市民の避難所として多くの公共・工場・家庭待避所(防空壕)がつくられました。市内の山の斜面を掘った公共避難所の横穴式防空壕のなかには、200メートルにもたっする大規模なものもありました。両城町にも10メートル(3カ所)と15メートル(1カ所)の横穴式防空壕がつくられました。
呉市は、軍港都市ということでアメリカ軍の空襲の標的とされ、大きなものだけでも6回の空襲を受けました。なかでも、昭和20年(1945年)7月1日から2日にかけての焼夷弾による呉市街地の空襲では民間人だけでも1869名が犠牲になったのでした。しかも死因の多くは、もっとも安全といわれた大規模な横穴式防空壕内に、周囲の火災の煙が侵入したことによる窒息死であったといわれています。
この地区も平地部の三城通(現・三条)は空襲のため消失しましたが、呉海軍軍需部の倉庫としてつくられたこの防空壕に身をよせた人びとは、猛火から逃れることができたのでした。私たちは市民の命を救った防空壕を残すことによって、呉空襲で犠牲となられた人びとをいたみ、ふたたび悲惨な戦争をおこさないための誓いとしたいと思います。
1998年7月1日
呉市
二百階段と両城の階段住宅
続いては、両城の200階段です。
ここは映画「海猿」のロケ地になったことでも有名です。
鯛乃宮神社からも200階段が見えました。
階段の下で、ゴミ出しに降りて来た、おばあさんと挨拶。「毎日階段を登り降りしているおかげで、足腰だけは丈夫」とのとこでした。
階段から、和風住宅と洋館が合体した珍しい家々が見えました。
ガイドマップの解説によると、地元の家主が海軍の将官向けの借家として開発した住宅地のようです。
階段を全部登り切ると、数えて昇ってきましたが200段以上あるような(数え間違いかな?)。ともあれ、呉港はじめ呉の街が一望できます。
レトロな建物が残る商店街
両城からJR河原石駅の間は、随所にレトロな建物が建っています。
ガイドマップにもありますが、空襲で焼ける前の呉も、こんな建物が立ち並んでいたようです。
JR川原石駅周囲も、映画のセットのような、なつかしい街並みが残っていました。
もっと他にも書き足したいのですが、ちょっと長くなってしまったので、今回はこの辺までで。ぜひ実際に、ガイドマップを片手に歩いてみてください。
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