今日、2月15日は「西行忌」
願わくは花の下にて春死なん・・・
史実に残る実際の西行の忌日は、旧暦の文治6年2月16日。
西行の残した有名な歌の一つに
「願わくは 花の下にて 春死なん その如月の望月のころ」
できることなら、春、桜の下にて死にたい。二月のお釈迦様が亡くなった、あの満月のころに。
という歌から、実際の忌日より1日早い、お釈迦様の入滅した日「涅槃会」である2月15日にあわせて、西行法師の忌日としている。
旧暦の2月15日は、新暦の3月中旬〜下旬。実際に桜の花が咲く頃。
権力や欲に貪る生臭坊主ならいざ知らず、西行ともあろう孤高の僧侶が「できることなら桜の下で死にたい」というのは、少し俗な感じがして違和感を感じるが、「二月のお釈迦様亡くなった満月の頃に」という下の句で、その上の句の俗な感じが薄らぐというより、全体的に深みが出てくるように思う。
この歌は、上の句を「俗」、下の句を「仏」とすることで、一見「俗」な願いであり、また「聖」な願いでもある、西行らしいと言えば西行らしい調和の取れた歌に仕上がっているように勝手に思うのです。
西行は、若き頃のゴータマと同じく、苦悩する若者だったのかもしれない。
天皇を直接守る武家の家に生まれ、家柄もよく、その当時として生まれながらにして恵まれて育った。
しかし、結婚をして2人の子供ができ、4つになる娘を溺愛する日々を過ごしていた23歳の時、何を思ったか、妻とその子らを残し、恵まれた地位も捨てて突如出家する。
出家時、泣きすがってきたきた溺愛の娘を、蹴飛ばして突き放し家を出たという。
それからの西行は、ご存知の通り日本各地を放浪し多くの歌を残した。
嘆けとて月やは物を思はする・・・(小倉百人一首86)
西行は「月」を題材にした歌を多く残している
「嘆けとて 月やは物を思はする かこち顔なる 我が涙かな 西行法師」
嘆きなさいと言って、月が私を物思いにさせるわけではないのに、月のせいだと言わんばかりの顔をして、流れ出る私の涙よ
百人一首にも入っている歌(86番)として知られ、自分も中学時代、百人一首を覚えた時、なんとなく心情が理解できるようで、百人一首の中でも好きな歌の1つだった。
しかし、後に自分が大人になって百人一首関連の本を読んでいくなかで、この歌は一部の著名な文化人からは、すこぶる評判が悪いことを知った。
西行は他にもいい歌があるのに・・・
なんでこんな歌を定家が百人一首に選んだのか理解できない・・・云々。
田辺聖子もこの歌に対して悪評を立てる文化人の一人で、著書「田辺聖子の百人一首」の中で
この歌も、西行の歌としておよそ魅力のない歌で、古来からいぶかしがられている。
(中略)
この「かこち顔」の歌は若い時の歌らしいが、どこがいいのか、現代人にはわからない。老いた定家の心にひびく何かがあったのかもしれないが、百人一首に折々ある「なんでこんな歌が」の一つである。
仕方がないから文法のおさらいでもしましょう。
「田辺聖子の小倉百人一首」角川文庫
と、原稿の文字を埋めるためか、この歌の内容如何よりも文法のおさらいに入ってしまうご始末。。。
月は、ありのままの月のままであって、それを勝手にどう捉えるかは、その月を見た人間次第。
だけれども、そんなことはわかっているのだけれども、月のせいだと言わんばかりの顔をして、月のせいにしてしまいたいほどに、涙が自然と溢れ出てくるんだよ。
この歌は、仏門に入る前の西行の若い頃の作品だというのも魅力的で、「月」はありのままの「月」なんだ、「月」でしかないんだと言う「客観」と、でも「かこち顔」して涙が自然と出てくると言う「主観」とをうまく掛け合わせていて、感情を交えず正しく見る=仏教で言う「正見」に気づいているようで、そこに重きを置いている作風も若いとはいえ凄いなーと、凡夫の私は思ふのです。
そんなにダメでしょうか?この歌。
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