今回は、埼玉県の「幸手」へ。
幸手は、日本橋から六つ目の宿場町
幸手は、日光街道(奥州街道)の、お江戸日本橋から数えて六つ目の宿場町として栄えた町。現在は、北千住から東武スカイツリーラインの急行に乗って45分ほど。
ちなみに千住(北千住)は、日本橋から数えて一つ目の宿場町なので
(日本橋→)千住宿→草加宿→越谷宿→粕壁宿(現:春日部)→杉戸宿→幸手宿
と、45分で四つの宿場町を通ってきたことになりますね。
そう考えると文明の力で早くはなったけれど、はるばる遠くまで来た感があります。。
ラジオ等でよく聞く埼玉県の「さって」を「幸手」と漢字で書くと知った時、ちょっとした感動を覚えた記憶があります。
そもそも、「さって」って地名、ただものではないような気がしてなりません。
想像するに、アイヌ語から来ているのでは?なんて思ったりも・・・
「さっ」で、始まる地名なんて「札幌」くらいしか思い浮かばないですしね。
以前、浅草の地名のところで、北関東にはまだアイヌ語の地名が残るところがあると書きましたが
この「幸手」も古代アイヌ語説があってもいいような?と勝手に妄想します。
「幸手」の地名については、また後述します。
幸手駅
幸手に降り立って、一番に感じたのは、近代的な立派な駅舎!!
この駅界隈は、かつて幸手城があったところとされているそうですが、特に遺跡等は、なく見たところ案内板もないようでした。
ですが、駅前が思っていた以上に寂しげ・・・
お地蔵様がおられます。
今回は、春の桜と秋の彼岸花で有名な「権現堂堤」まで歩いて往復する予定で、特に幸手については調べてきていません。
ともあれ行き当たりばったりの散策開始。
満福寺 幸手観音
しばらく歩いていると「安産子育 幸手観音 満福寺」という看板がありました。
気になったので、ちょこっと、お参りをさせていただきます。
入って左側に、延命地蔵尊。
うん?何か扉の前に置いてありますねー。
近づいて見てみると、お米かな?
近くの農家さんが、収穫されたばかりの新米をお供えしているのでしょうか?
南無地蔵菩薩。。。
本堂には、彼岸花が咲いておりました。
お寺と彼岸花は、やはり合います。
おや?何か、動きましたよ。
と、見てみたら、猫さん。
寺猫さんかな?お邪魔しました。
少し残念なのは、肝心の案内板の文字が薄くて読めません。。
帰ってから、画像編集ソフトで、文字が読めるところまでレタッチしてみました。
文中に「一色氏発願寺」と見えます。一色氏は、この辺りを治めていた幸手一色氏のこと。
戦国大名で丹後を治めていた一色氏と元は同じ、足利氏の一門です。
丹後の一色氏は滅びてしまいますが、幸手一色氏は関東に入国してきた徳川家康に仕え旗本として取り立てられます。
幸手の街
さて、権現堂堤へと向かいます。
お豆腐屋さん。幸手は街の規模にしてはお豆腐屋さんが多いような。
「季節限定 黒ごま寄せとうふ180円」気になります。
少し覗いてみましたが、ここで食べていけるものなのか、持ち帰りもできないし・・・少し迷った挙句、今回は諦めました。次回に。
古き町並みにはお馴染み「ハリウッド化粧品」の看板の残る化粧品店と、隣は美容室かな?。こういった懐かしき建物を見るだけで、来てよかったと思えてきます。
幸宮神社
幸宮神社なるお社を発見。お参りさせていただきます。
神社の境内にある遊具。ここで遊ぶ子供たちが神様に見守られているような。
公園に遊具は当たり前だけど、最近あまり見かけなくなった神社や仏閣に遊具って素敵です。
奥の本殿をチラッと見ると、んんん???
これまた、見事な彫刻です。塀の隙間から覗かせていただきました。
こちらは武将が掘られています。一体なんの故事を彫ったものなんでしょう。
こっちは、中国風の彫り物。一体なんの故事に由来するものなのか、教養がないのが残念。
竜の彫り物も見事なもの。大変、良いものを拝ませていただきました。
聖福寺
しばらく歩いていると、聖福寺というお寺を通りました。
一瞬通り過ぎましたが、奥に見えた門が気になり、少し引き返しお参りさせていただくことに。
入ってすぐのところに
「君の主人は君自身だ 心をととのえていい主人を育てよう 仏陀」の偈が・・・
これはピンと来ました。「法句経」ダンマパダですね。有名な偈です。
幼稚園のポスターもあるので、このお寺は幼稚園も併設されているのでしょう。
園児にもわかりやすく偈が説かれています。保護者の方の目にも止まるでしょう。
素敵です。近くだったら毎月、ここだけでも見に来たいくらいです。
ついでに、東大のインド哲学仏教学者であった中村元先生訳も載せておきます。
自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?
自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。
(第12章 自己 160)
岩波文庫「ブッダの真理のことば感興のことば」より
すぐ隣には、芭蕉と曽良の句碑もありました。
「幸手を行ば栗橋の関 芭」
「松杉をはさみ揃ゆる寺の門 良」
石碑の解説によると、奥の細道から帰って4年後に作った句だとか。
さて、最初に通りかかった時に気になった、こちらの門、やはりただものではないようで、「勅使門」と呼ばれ、日光参詣する将軍や例幣使のみが通ることを許された門だとか。
訪れた時は、併設する幼稚園の園児たちが遊んでい他ので、外から少し拝見させていただきました。
幸手、、思いの外、個人的には見所が多く、長文になってしまったので、続きは、次回に続くか、時間ある時に、ゆるきここに追記します。