11月6日は「馬琴忌」。
曲亭馬琴(滝沢馬琴)の忌日。
長編「南総里見八犬伝」などで知られている江戸時代の読本作者ですが、日本で初めて原稿料だけで生計をまかなえた著述家とも言われています。
今まで、趣味の散歩で、色々なところで馬琴の案内板を見つけていたので、ちょこっと生誕から墓所までの足跡を訪ねます。
滝沢馬琴誕生の地(江東区 平野)
滝沢馬琴が生まれたのは、約250年前、明和4年(1767年)6月9日。
深川にあった旗本松平信成の、家臣の下級武士の子として、松平家邸で生まれました。
現在は「深川ふれあいセンター、平野児童館」の建物の前に案内板が設置されています。
馬琴には兄たちがいましたが、訳あって、十歳の時に家を継ぎ、主君の孫の遊び相手として仕えるようになる。
しかし、その孫の癇癪に悩まされ、馬琴は14歳で松平家を去った。
案内板の前に、「里見八犬伝」のモニュメントがある。
「里見八犬伝」は、28年間かけて書かれた超長編小説。
モニュメントは、「里見八犬伝」の計106冊分。それにしてもすごい量。。。
滝沢馬琴宅跡の井戸(千代田区 九段下)
馬琴は、二十七歳の時に結婚し「飯田町中坂下」へ移り住む。
九段の駅からすぐのところに、「滝沢馬琴邸居住の井戸」がある。
奥に行って見ると、これ井戸があったが、これは再建のものかな。
滝沢馬琴住居跡(千代田区 外神田)
文政7年(1824年)に、外神田へ転居してくる。
信濃町へ転居するまでの12年間、ここで多くの物語を書き残しています。
滝沢馬琴終焉の地(新宿区 信濃町)
次に移り住んだのが四谷信濃坂。現在のJR信濃町駅前付近。
日高屋の前に、ひっそりと案内板が残っています。
この地で、足掛け28年間かかって書き上げた「南総里見八犬伝」を書き終えました。
晩年は、両目を失明し、息子の嫁の路(みち)に字を教え口述して路に筆記をさせている。
そして嘉永元年(1848年)の11月6日に、八十二歳で亡くなる。
滝沢馬琴墓所(文京区 茗荷谷)
滝沢馬琴の墓所は、文京区茗荷谷の深光寺。
墓石には、馬琴の戒名である「著作堂隠誉〜」の文字がありました。
隣の「黙誉〜」とあるのは、馬琴の奥さんの「お百」の戒名。
台石には、家の形をした、馬琴の蔵書印が刻まれています。
馬琴の墓碑の後方には、馬琴が失明した時に、文字を覚え口述によって「里見八犬伝」を代筆した、お路の墓があります(路女の墓)。
そのとなりが、亭主の墓。亭主よりも、奥さんの方が墓碑が大きいですw
滝沢馬琴筆塚(荒川区 西日暮里)
最後は、滝沢馬琴の筆塚がある荒川区西日暮里の青雲禅寺。
このあたりは、西日暮里から谷中まで続く寺町。
どこも静かな佇まいで雰囲気がよく、散策する人も多いです。
境内に、滝沢馬琴筆塚の碑があります。
馬琴ともなると、多くの筆を消費したそうで、その供養のために築かれました。
額字は、国学、漢学、度量衡などの考証学者で知られる狩谷棭斎によるもの。
馬琴の使用していた硯も出土しており、硯の碑もあった。
散策メモ
- 深川の滝沢馬琴の生誕地
- 九段下の滝沢馬琴宅跡の井戸
- 外神田の滝沢馬琴住居跡
- 信濃町の滝沢馬琴終焉の地
- 滝沢馬琴の墓所
- 西日暮里の筆塚
と、書いて来ましたが、実際に周った過程は、
西日暮里駅をスタートして「滝沢馬琴の筆塚」
西日暮里→(千代田線)→湯島「外神田の住居跡」
神田明神、湯島聖堂を経て御茶ノ水→(丸ノ内線)→茗荷谷駅「馬琴の墓所」
茗荷谷駅→後楽園→(南北線)→四ツ谷、迎賓館、せきとめ稲荷、出羽坂を経て「信濃町の終焉の地」
外苑駅まで歩いて、外苑→(銀座線)→青山一丁目→(半蔵門線)→九段下「馬琴宅跡の井戸」
九段下→(半蔵門線)→清澄白河「滝沢馬琴生誕の地」→門前仲町駅ゴール。
散策時間約6時間30分、歩いた距離約13kmでした。