新橋竹川町 高田屋綱五郎せがれ白吉、家主田兵、五人組付き添い一同控えたる。
恐れながら町役(町役人)より申し上げます。五人組付き添い一同控えましてございます。
三遊亭圓生(6代目)「佐々木政談」
江戸の町役人の仕事
住民自治が発達していた江戸では、各町々の町役人(身分は町人の名主・地主)が些細な揉め事や訴訟を解決・和解させていた。町役人の裁量を超える案件や、刑事事件となると町奉行所へ出頭となるのだが、町役人は出頭者の付き添いもする。
町役人の仕事は多岐にわたる。戸籍調査、御触書・申し渡しの伝達、治安維持、消防・防火対策、水道や道路などの簡単な補修、祭礼の金品奉納、落し物の処理など様々。
それらの経費は、町役人の所有する店舗賃料や家賃などから捻出していたようだ。
松平定信による七分積金
時の老中松平定信は、寛政の改革の中の1つに、町役人の仕事を簡素化し、かかる経費を削減させた(賃料、家賃も下げさせた)。
削減した経費のうち、一分は町内臨時費用に、二分は地主の増収に、そして七分を非常時の積立金とする「七分積金」という積立制度をつくる。
経費削減の内容の一部を見ると、町火消しの纏(まとい)を組合毎に一本に制限するというようなものから、奉行所等への届書きの簡素化や用紙の節約、用紙の質までも落とすようになど細部にわたる。
そうこうして削減された経費の中から積立られた額は、江戸市中全体で年間約二万六千両。設立時には、幕府からも一万両が拠出されている。
その積立金は、主に貧困対策や災害や飢饉での救済活動にあてられた他、復興事業等の低利融資など非常時の江戸庶民の暮らしのために利用された。
積立制度は幕末まで続くのだが、この積立金はあくまでも江戸庶民のためであるという理由から、幕府は幕末の逼迫した財政難や混乱のなかでも一指も触れずに存続させた点は、大変立派という他ない。明治維新当時には、この積立額が百七十万両にも達していたという。
この七分積立金に処分について、明治新政府も財政難で、上野に立て籠もった彰義隊の討伐にすら軍資金がなかったほどで、その後の東北の賊軍討伐のための軍資金にもあてたいだろうし様々な用途に使いたかったに違いなく、旧幕府側と新政府側で様々なやりとりがあったとされる。
養育院の設立
多くの企業の設立に関わり「資本主義の父」とも言われた渋沢栄一は、当時、七分積金を管理する立場にあった。
渋沢栄一は、積立金の百七十万両のうちの一部から、維新後急増した困窮者、無宿者や孤児をはじめ、障害者を保護する施設して養育院を作る。江戸庶民の積立金の本来の目的とする意思を引き継ぐ形となった。
渋沢栄一 近世名士写真其2 国立国会図書館
養育院は、はじめ本郷の加賀藩邸跡地に作られ、以後移転を繰り返し、現在の板橋に落ち着く。
渋沢栄一は養育院の初代院長となり、亡くなるまでの50年あまりを院長として勤める。当時は養育院への理解が得られず何度も廃止の危機にさらされるが、渋沢栄一は養育院の必要性を訴え続け存続させ、それが今日、板橋にある独立行政法人東京都健康長寿医療センターの設立へとつながる。
谷中 大雄寺の「養育院義葬の冡」
谷中の、連日行列のできる喫茶店、カヤバ珈琲のすぐとなりに大雄寺がある。
境内には樹齢300年とも言われる大きな楠と、その下には幕末の三舟の1人、槍の名手であった高橋泥舟の墓があり、詣でる人も少なくない。
(幕末の三舟:勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)
その大きな楠と高橋泥舟の暮石の裏に、ひっそりと「養育院義葬の冡」が立つ。
大雄寺は養育院設立時、養育院で亡くなった方のうち引き取り手のない遺骨の埋葬と回向を引き受けていた。
大雄寺以外にも、同様の墓は、同じく谷中の了院寺、栃木県那須塩原の妙雲寺、府中の多磨霊園にもあるという。
現代の東京に通づる七分積金
明治政府から東京府と東京市に接収され七分積金は、養育院以外にも学校や役場の建設、水道の施設、築地の埋め立て、銀座の道路整備から墓地の開拓事業まで、都市整備の費用に充てられた。
本来は新政府が負担するようなものにも、この七分積金が利用されてしまった節もあるが、現代の東京の基礎の一部は、江戸庶民が倹約して積立てた「七分積金」より成り立っていると言っても過言ではないかもしれない。
参考図書:
- 「徳川制度(上)」加藤貴校注 岩波文庫
- 「江戸の町役人」吉原健一郎著 吉川弘文館
- 東京都史紀要第八「七分積金始末」東京都総務局文書課昭和二十六年二月発行 他