旧大野木場小学校
1991年(平成3年)6月3日。噴火活動が活発だった雲仙普賢岳から大火砕流が発生。40名を超える死者と行方不明者をだした。
その年の、9月15日にも再び大火砕流が発生する。
瞬く間に大野木場小学校は熱風にさらされ、校舎は全焼した。
幸いにもこの時は、避難が徹底され人的被害は出なかった。
そして、全焼した被災校舎は噴火災害の凄まじさを伝えるものとして保存されることになる。
焼けただれた校舎
現在は、校舎の外側から被災校舎を見学できる。
大火砕流の熱風で、金属やコンクリート以外のものは焼き尽くされた。
この教室は、床の基礎部分が丸出しになっている。天井からは、テレビ置きらしきものが吊るされている。
ここは、理科室だったのだろうか、垂れ下がった蛇口が物哀しい。
今回、たまたま別用で通りかかり、時間があったため、ふと立ち寄った被災校舎。30分ほど見学させてもらい、撮影をしながら色々と物思いにふけた。
雲仙普賢岳の大火砕流が起きたのが平成3年。自分は小学校3年だったが、雲仙普賢岳という遠い地の固有名詞は毎日のようにニュースに流れ、すぐ覚えた。
そして衝撃だったのが、ニュース映像で見た大火砕流が麓の集落を襲う映像。
多くの人が亡くなり、毎年6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」として記憶されるようになった。
同じ年の9月15日この校舎が被災した時は、前述したように幸いにも人的被害は出なかった。
しかし、当時、この焼けただれた校舎を見て、通っていた在校生や卒業生はどう思ったのだろう。
自分も当時は小学校3年だっただけに色々と思うところがあり、撮影をしながら思わず涙がこぼれてきた。
噴火、地震、台風、自然災害は、いつやってくるかわからない。
被災校舎の隣に「大野木場観測所」が建てられている。
「地震の発生など危険を感じたら、急いで避難室(地下1階)へ避難してください」とあった。シェルターになっているようだ。
今は児童がいない校庭の砂場も、鉄棒もただ、あの時を記しているのみ。
校庭の片隅に、青々と葉が茂ったイチョウの木があった。
案内板によると、昭和18年の卒業生が成人式の日に植樹したものらしい。
火砕流で焼けてしまったかのように見えたが、今ではしっかりと多くの葉をつけて復活している。
水分を内部に多く蓄え熱に強いと言われるイチョウの木は、広島でも東京大空襲でも、焼け残り、やがて復活し人々を勇気付けてきた。
人間も経験から学んだ「知識」という名の水分を多く蓄え、危機や困難の度にその「知識」を活用し乗り越え、再び立ち直らなければならないと、イチョウの木から諭されている気がした。
大火砕流に消ゆ―雲仙普賢岳・報道陣20名の死が遺したもの (新風舎文庫)
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