夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

浅草鷲神社から「酉の市の元祖」足立区花畑「大鷲神社」へ行ってみる。

令和元年 2019年11月の酉の日は、8日と20日。

酉の市と言えば、浅草千束の鷲神社。

 

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そもそも、ここの酉の市が有名になったのは江戸時代も中期〜後期になってから。

もともとは現在の足立区花畑(はなはた)にある大鷲神社で、熊手を売っていたのがはじまりで、江戸市中から綾瀬川をのぼって、または馬や歩いてお参りに行っていたそうな。

しかし、江戸市中から少し遠く離れた花畑。

いつからか、浅草に近く吉原のすぐ側の千束の鷲神社の方が「酉の市」として賑わうようになった。

ゆえに

  • 花畑の大鷲神社を「おおとり」
  • 浅草千束の鷲神社を「しんとり」

とも言うようになった。

 

しかし「足立区花畑」は、現在でも陸の孤島。東京都なれど、埼玉県との都県境に位置し、近くに鉄道は通っていない。

都バスの路線図を見たら、バスを使えば近くまで行けると判明したので、都バス1日乗車券もあるので、浅草千束の鷲神社から、元祖花畑の大鳥神社へ訪ねてみようと思います。

(500円の都バス一日乗車券があるので「都バス」のみで行きますが、東武線と東武バスを使えば、もう少し花畑大鷲神社の近くまで行けますよ)

 

浅草千束鷲神社から、足立区花畑大鷲神社へ

f:id:odekakeiku:20191120063845j:plainまずは、浅草鷲神社の最寄りの「千束」バス停から都バス「草43足立区役所行き」に乗車。

「竜泉」バス停も近いけど、酉の市の際中は「竜泉」からは大勢の人が乗り込むので、あえて「千束」から乗ります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064202j:plain途中、「千住四丁目」で降りて、同じバス停に来る「北47足立清掃工場」行きを待ちます。

「北47」の「竹の塚」行きは本数もそこそこありますが、「足立清掃工場」は本数も少ないので事前に調べて行くか、ちょっと手前の始発の「北千住」で時間をつぶすといいかも。

しばらくずーーーっと(40分ほど)乗って、「足立清掃工場」の1つ手前の「水神」で下車。

 

f:id:odekakeiku:20191120063853j:plain毛長川沿いを歩いて行きます。

毛長公園などの緑地もずっと続いてちょっとしたいい散策路。

 

f:id:odekakeiku:20191120063859j:plain毛長川を渡ると、そこは埼玉県草加市。

この川沿いを合流する綾瀬川方面へしばらく歩いて行くと目的地の花畑「大鷲神社」があります。

 

「酉の市の元祖」花畑大鷲神社

f:id:odekakeiku:20191120063904j:plain都バスのバス停「水神」から20分強歩いて、ようやく酉の市の元祖「大鷲神社」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20191120063912j:plain千束の鷲神社と同様にこちらも、多くの提灯が掲げられており、夜も綺麗そうです。

 

f:id:odekakeiku:20191120064147j:plain境内へと続く参道の両脇にも屋台が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064348j:plain大鷲神社本殿。

「酉の市」が開催されていますが意外と参拝客も少なめ。

 

「酉の市」

f:id:odekakeiku:20191120064229j:plain「酉の市」自体も、浅草千束の鷲神社に比べれば当然小規模ですが

 

f:id:odekakeiku:20191120064404j:plainゆっくり見られるので、こちらはこちらで趣があります。

 

f:id:odekakeiku:20191120064422j:plain境内脇にも熊手を扱う露店が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20191120064743j:plain「よっ!商売繁盛!商売繁盛!」やってます。

観光客も多く来る浅草と違って、地元密着型、地元のための「酉の市」のような感じが良いです。

 

花畑大鷲神社あれこれ

f:id:odekakeiku:20191120064434j:plain境内手前に「力石」がありました。

力石ハンターとしては、見落とせません。

農村だっただけに、農家の男たちの力試しとして使われ奉納されたようです。

しかし、本当に重そう。腰が割れる。。。

 

f:id:odekakeiku:20191120064751j:plain他にも、いかにも神通力がありそうな小さな祠があったり

 

f:id:odekakeiku:20191120064759j:plain池もあったり。こじんまりとした神社ですが、よく整っており飽きません。


f:id:odekakeiku:20191120064446j:plain浅草鷲神社とはまた異なった雰囲気が楽しめた、元祖「酉の市」花畑大鷲神社でした。

 

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滝沢馬琴の足跡を巡る。武士を辞め小説家に、失明しても執筆活動を続けた偉人

11月6日は「馬琴忌」。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)の忌日。

長編「南総里見八犬伝」などで知られている江戸時代の読本作者ですが、日本で初めて原稿料だけで生計をまかなえた著述家とも言われています。

今まで、趣味の散歩で、色々なところで馬琴の案内板を見つけていたので、ちょこっと生誕から墓所までの足跡を訪ねます。

 

滝沢馬琴誕生の地(江東区 平野)

f:id:odekakeiku:20191106221418j:plain滝沢馬琴が生まれたのは、約250年前、明和4年(1767年)6月9日。

深川にあった旗本松平信成の、家臣の下級武士の子として、松平家邸で生まれました。

現在は「深川ふれあいセンター、平野児童館」の建物の前に案内板が設置されています。

 

f:id:odekakeiku:20191106221423j:plain馬琴には兄たちがいましたが、訳あって、十歳の時に家を継ぎ、主君の孫の遊び相手として仕えるようになる。

しかし、その孫の癇癪に悩まされ、馬琴は14歳で松平家を去った。

 

f:id:odekakeiku:20191106221443j:plain案内板の前に、「里見八犬伝」のモニュメントがある。

 

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「里見八犬伝」は、28年間かけて書かれた超長編小説。

モニュメントは、「里見八犬伝」の計106冊分。それにしてもすごい量。。。

 

滝沢馬琴宅跡の井戸(千代田区 九段下)

f:id:odekakeiku:20191106222656j:plain馬琴は、二十七歳の時に結婚し「飯田町中坂下」へ移り住む。

 

f:id:odekakeiku:20191106222659j:plain九段の駅からすぐのところに、「滝沢馬琴邸居住の井戸」がある。

 

f:id:odekakeiku:20191106222702j:plain奥に行って見ると、これ井戸があったが、これは再建のものかな。

 

滝沢馬琴住居跡(千代田区 外神田)

f:id:odekakeiku:20191106223054j:plain文政7年(1824年)に、外神田へ転居してくる。

 

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信濃町へ転居するまでの12年間、ここで多くの物語を書き残しています。

 

滝沢馬琴終焉の地(新宿区 信濃町)

f:id:odekakeiku:20191106223231j:plain次に移り住んだのが四谷信濃坂。現在のJR信濃町駅前付近。

日高屋の前に、ひっそりと案内板が残っています。

 

f:id:odekakeiku:20191106223236j:plainこの地で、足掛け28年間かかって書き上げた「南総里見八犬伝」を書き終えました。

晩年は、両目を失明し、息子の嫁の路(みち)に字を教え口述して路に筆記をさせている。

そして嘉永元年(1848年)の11月6日に、八十二歳で亡くなる。

 

滝沢馬琴墓所(文京区 茗荷谷)

f:id:odekakeiku:20191106223318j:plain滝沢馬琴の墓所は、文京区茗荷谷の深光寺。

 

f:id:odekakeiku:20191106223324j:plain墓石には、馬琴の戒名である「著作堂隠誉〜」の文字がありました。

隣の「黙誉〜」とあるのは、馬琴の奥さんの「お百」の戒名。

 

f:id:odekakeiku:20191106223329j:plain台石には、家の形をした、馬琴の蔵書印が刻まれています。

 

f:id:odekakeiku:20191106223618j:plain馬琴の墓碑の後方には、馬琴が失明した時に、文字を覚え口述によって「里見八犬伝」を代筆した、お路の墓があります(路女の墓)。

そのとなりが、亭主の墓。亭主よりも、奥さんの方が墓碑が大きいですw

 

滝沢馬琴筆塚(荒川区 西日暮里)

f:id:odekakeiku:20191107004325j:plain最後は、滝沢馬琴の筆塚がある荒川区西日暮里の青雲禅寺。

 

f:id:odekakeiku:20191107004335j:plainこのあたりは、西日暮里から谷中まで続く寺町。

どこも静かな佇まいで雰囲気がよく、散策する人も多いです。

 

f:id:odekakeiku:20191107004343j:plain境内に、滝沢馬琴筆塚の碑があります。

馬琴ともなると、多くの筆を消費したそうで、その供養のために築かれました。

 

f:id:odekakeiku:20191107004352j:plain額字は、国学、漢学、度量衡などの考証学者で知られる狩谷棭斎によるもの。

 

f:id:odekakeiku:20191107004354j:plain馬琴の使用していた硯も出土しており、硯の碑もあった。

散策メモ

  1. 深川の滝沢馬琴の生誕地
  2. 九段下の滝沢馬琴宅跡の井戸
  3. 外神田の滝沢馬琴住居跡
  4. 信濃町の滝沢馬琴終焉の地
  5. 滝沢馬琴の墓所
  6. 西日暮里の筆塚

と、書いて来ましたが、実際に周った過程は、

西日暮里駅をスタートして「滝沢馬琴の筆塚」

西日暮里→(千代田線)→湯島「外神田の住居跡」

神田明神、湯島聖堂を経て御茶ノ水→(丸ノ内線)→茗荷谷駅「馬琴の墓所」

茗荷谷駅→後楽園→(南北線)→四ツ谷、迎賓館、せきとめ稲荷、出羽坂を経て「信濃町の終焉の地」

外苑駅まで歩いて、外苑→(銀座線)→青山一丁目→(半蔵門線)→九段下「馬琴宅跡の井戸」

九段下→(半蔵門線)→清澄白河「滝沢馬琴生誕の地」→門前仲町駅ゴール。

散策時間約6時間30分、歩いた距離約13kmでした。

 

滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)

滝沢馬琴 (新潮古典文学アルバム)

 
随筆滝沢馬琴 (岩波文庫)

随筆滝沢馬琴 (岩波文庫)

 

 

 

 

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万葉集より。大伴家持となでしこの花。家持の忌日8月28日は「撫子忌」と言ってもいいような。

「万葉集」編纂に大きく携わったことでも知られている奈良時代の歌人大伴家持(おおとものやかもち)。

今日、8月28日は「大伴家持」の忌日にあたる(延暦4年8月28日、西暦785年10月5日)。

今回は、大伴家持の忌日近く(夏〜秋)に咲き、家持が愛しよく詠んだ撫子(なでしこ)の花について少し。

 

秋の七草

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「万葉集」には、「撫子(なでしこ)」の歌が26首詠まれている。

有名な歌の1つに、山上憶良(やまのうえのおくら)の

(一五三七)

「秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」

秋の野原に、咲きたる花を指折り数えてみれば 七つの花が美しい。

 

(一五三八)

「萩の花 尾花(をばな)葛花(くずばな) 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(をみなへし)また藤袴(ふぢばかま) 朝貌(あさがほ)の花」

萩の花、尾花(すすき)、葛花、撫子の花、女郎花、また藤袴、朝顔の花(この朝顔は桔梗ではないかと言われている)

 

2つの歌からなるこの歌の2つ目の歌は、すべて花だけで構成されている。古今東西こんな歌はまずないと思ふ。

この歌から、秋の七草という名前が生まれた。

 

撫子の花

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万葉集に歌われている撫子の花は「カワラナデシコ」だとされていて、今では環境の変化により全国的にあまり見かけなくなったという(8月中旬 東京都港区白金台「自然教育園」で撮影)。

万葉集の「撫子」の歌 26首のうち、11首は家持が詠んでいる。 

(四六四)

「秋さらば 見つつしのへと 妹が植ゑし やどのなでしこ 咲きにけるかも」

秋になったら一緒に見ましょうと言って妻が家に植えた撫子。その撫子の花が咲いている。

この時、大伴家持は妻を亡くしています。

 

(一四九六)

「我が宿の なでしこの花 盛りなり 手折(たお)りて一目 見せむ子もがも」

私の家の庭に、撫子の花が盛りにさいている。その撫子を手折りて一目見せてあげられる娘がいたらいいのに。

 

(四二三一)

「なでしこが 花見るごとに 娘子(をとめ)らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」

なでしこの花を見るたびに、乙女の笑顔の美しさを思い起こします。

家持以外の人が詠んだ「撫子」の歌も、家持に贈った歌や、家持の屋敷で詠まれたものなど、大伴家持絡みの歌が多い。 

広く知られているように「撫子」は「大和撫子」というように、日本人女性の代名詞にもなる。それらに影響を与えたのは、大伴家持はじめ万葉人だったであろう。

 

「撫子忌」

歴史上に名を残した歌人や小説家などの文化人の忌日を、〜忌と一般に言うけど

  • 太宰治・・・「桜桃忌」晩年の短編小説「桜桃」から。
  • 芥川龍之介・・・「河童忌」小説「河童」からと河童が好きでよく絵を描いていたから。
  • 司馬遼太郎・・・「菜の花忌」司馬遼太郎の「菜の花の沖」からと、菜の花が好きだったから。
  • 松尾芭蕉・・・「時雨忌」時雨の頃に亡くなったから、「時雨」を好んで俳句に入れていたから。
  • 在原業平・・・「業平忌」「在五忌」在五中将の略から。

などなど。

以前から疑問だったけど、多くの歌を残し「万葉集」の編纂など大きな足跡を残した大伴家持には「家持忌」とか「〜忌」というのを聞かない気がする。

いっそのこと、8月28日を「撫子忌」とでもしてはどうだろう。

と、研究者様方を差し置いて、一介の家持好きが言うにはやはり恐れ多い。

 

参考図書

「原文 万葉集 上下巻」 岩波文庫

「花の辞典」金田初代<文> 金田洋一郎<写真> 西東社

  

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大伴家持 - 波乱にみちた万葉歌人の生涯 (中公新書)

大伴家持 - 波乱にみちた万葉歌人の生涯 (中公新書)

 
万葉集をつくった男 小説・大伴家持 (角川文庫)

万葉集をつくった男 小説・大伴家持 (角川文庫)

 

 

8月真夏の自然教育園を歩く。ナデシコ、コバキボウシ、禊萩、トラノオスズカケ、ニホンカナヘビ。

8月中旬のある日、くもり気味なれど35度近くあって、じめじめとした最悪のコンディションのなか、港区白金台の自然教育園を散策してきた備忘録です。

結論から言うと、意外と見応えありました。

f:id:odekakeiku:20190822163401j:plain夏休み真っ只中だけど、想定していた通り人はほとんどいない。今回はどんな生き物たちに会えるだろう。

 

小葉擬宝珠(コバギボウシ)

f:id:odekakeiku:20190822152509j:plain今回いたるところで見られたのが、小葉擬宝珠(コバギボウシ)

「擬宝珠」とは橋の欄干によくあるスライムのような形をした装飾品で、下の写真にあるように蕾がよく似ているからというけど、そんなに似ているかな。

 

小葉擬宝珠の蕾とオオスカシバ

f:id:odekakeiku:20190822153450j:plainこの蕾から擬宝珠を連想できる豊かな想像力が素晴らしい。この大きな蜂みたいなのは、オオスカシバ(チョウ目スズメガ科)。

体長約3センチほどと大きく、夏の日中に活動する「蛾」の一種。よく花の近くをホバリングして蜜を吸っています。

 

禊萩(ミソハギ)

f:id:odekakeiku:20190822154631j:plain萩に似ていて禊に使っていたというところから禊萩。別名 精霊花(ショウリョウバナ)とも言われる。やはり宗教的な儀式によく使われていたのかな。

漢方では千屈菜(せんくつさい)と言われ、下痢止めに用いられるそうです。

 

キタキチョウ

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キタキチョウ。キタキチョウは夏型と秋型があって、夏型は外縁が黒っぽく(グレーぽく)帯のようになっていて、それが少し残るかないのが秋型とのこと。

 

釣鐘人参(ツリガネニンジン)

f:id:odekakeiku:20190822162831j:plain山菜のトトキは、このツリガネニンジンのこと。
よく春先の山菜料理で、葉っぱをおひたしにしたり天ぷらにしたり、何度も食べたことあるけど美味しいです。
ちなみに長野では
「山でうまいはオケラにトトキ、里でうまいはウリ、ナスビ」と言うそうですよ。

根っこは、沙参(シャジン)と呼ばれる漢方の生薬にもなっていて、鎮咳、痰切りなどに効果があるそうです。

河原撫子(カワラナデシコ)

f:id:odekakeiku:20190822164953j:plain今回のお目当の1つ、河原撫子(カワラナデシコ)。

大和撫子のナデシコ秋の七草の1つです。

8月ということで戦争物の小説、映画、ドラマを最近よく見ていると
「大和撫子なら・・」とよく出てくるので、実際に咲いているナデシコを見に行こうと思い立ったのもありまして。

もう1つのお目当のナンバンギセルは、今回は見つけられなかった(涙;

 

 平賀源内が持って来た? 虎尾鈴懸(トラノオスズカケ)

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さて、自然教育園には、本来関東に分布していないとされる植物がこの時期花を咲かせています。

ゴマノハグサ科の多年草 虎尾鈴懸(トラノオスズカケ)です。日本では四国と九州で分布が確認されています。

では、なぜ東京の自然教育園に生息しているのか・・・?

自然教育園は、江戸時代、松平讃岐守の屋敷跡地でした。
讃岐高松藩五代藩主の松平頼恭(よりたか)は、家臣の平賀源内に薬草の栽培を命じています・・・ということは、どうやら平賀源内が頼恭の故郷からこの江戸の屋敷へ持参し移植したものではないか?と言われているそうです。

そんな自然教育園のトラノオスズカケも昭和24年(1949年)に絶えたと考えられていましたが、平成19年(2007年)に園内で再発見されました。

 

クモの喧嘩

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おそらくジョロウグモ。縄張り争いかな?すごく動きが早くあっという間に決着がついた。動画をとっておけばよかった。

今回、いたるところクモクモクモ。クモの最盛期。虫も多いですからね。

 

地面の落書きのような跡・・・

f:id:odekakeiku:20190827153013j:plain散策途中、ちょっと気になった地面に無数にあった白い糸のような?もの。
以前にも何度か見た記憶があるけど、糸というか物質なのか、なにかでひっかいた跡?なのかよくわからないけど、もしかしたらクモの糸なのかな。

詳細不明。

 

〔追記〕

自然教育園で出している「見ごろ情報」(訪れた時のではなくて、次号)に説明がありました。

これはキセルガイの仲間が移動した跡だそうです。

やっぱり跡だったんですね。

 

シオカラトンボ(オス)

f:id:odekakeiku:20190827153032j:plainシオカラトンボ(オス)

オオシオカラトンボと似ているけど、オオシオカラトンボのオスはもっと全体的に青く、目のところが黒い。

ちなみにシオカラトンボのメスは全体的に茶色がかった色で「ムギワラトンボ」とも言われています。

 

ニホンカナヘビ

f:id:odekakeiku:20190827153002j:plainニホンカナヘビ

今や東京都では、レッドリスト(準絶滅危惧)にのっており絶滅の恐れあり。

花を撮っていたら、じーっとこちらを見つめていた。特に逃げる気配もなかったので、ニホンカナヘビさんも撮影。

ちょっとずつ近づいても・・・あまり逃げない。
ニホンカナヘビは五本の指を持っていて、五本指まで撮れるかな・・・

と、思ったら逃げた。


 〔2019年8月中旬 散策〕

 

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リニューアルされた広島平和記念資料館(原爆資料館)を訪ねて

広島平和記念資料館 Hiroshima Peace Memorial Museum

f:id:odekakeiku:20190806163900j:plain2013年から改修工事をしていた、広島平和記念資料館がリニューアルされた。

丹下健三の設計により1955年に開館し、老朽化による改修工事とともに展示内容を大きく見直し開館以来最大規模のリニューアルとのこと。

 

f:id:odekakeiku:20190806163904j:plain8月は8:30〜19:00まで開館。8月5日、6日は20時まで開館している。

館内は無料エリアと有料エリアがあり、今回リニューアルされた有料エリアを少し見ていきます。

東館

今回2019年にリニューアルされたのは本館(西館)ですが、2017年にリニューアルされた東館も少し見ていきます。

有料エリアのはじめは、原爆投下前の広島の町並みを写真で展示している。

f:id:odekakeiku:20190806163910j:plain相生橋界隈。写真はH字形の橋だけど原爆投下時は現在とT字型の橋だった。

この相生橋がエノラゲイから投下目標点とされていた。

 

f:id:odekakeiku:20190806163914j:plain広島県産業奨励館。現在、世界遺産に登録されている原爆ドーム。

 

f:id:odekakeiku:20190806163917j:plain紙屋町交差点界隈。現在、広島そごうがある、あの紙屋町も現在と同じくチンチン電車が各方面へ行き交っていた。

 

f:id:odekakeiku:20190806163924j:plain中島本町界隈。現在の平和記念公園。

以前とある本で、原爆のガイドをしていた方が、観光客の方から「でも、まだよかったですね。公園の上に原爆が落ちて」というような事を言われれショックを受けたと話していた。

原爆投下前、現在の平和記念公園界隈、広島でも最も栄え人通りの多い場所の1つだった。アニメ映画にもなった「この世界の片隅に」でも原爆投下前の中島本町が忠実に再現されていました。

 

f:id:odekakeiku:20190806163931j:plain多くの人が足を止めて見つめていた写真。原爆投下前の日常。

 

f:id:odekakeiku:20190806163939j:plain原爆投下で、一瞬で壊滅した広島。

 

f:id:odekakeiku:20190806163943j:plain円形状の映像で原爆投下前

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本館(西館)

今回リニューアルされた本館(西館)

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被爆の実相

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f:id:odekakeiku:20190806164011j:plain8月6日、多くの子供が動員され建物疎開が行われていた。

 

f:id:odekakeiku:20190806164015j:plainその上に原爆は投下された。遺品の持ち物が誰のものなのかわからない物も多い。

 

f:id:odekakeiku:20190806164024j:plain原爆の、キノコ雲の下に実際に生きていた人間が子供がいたということ。

 

f:id:odekakeiku:20190806164028j:plain大きく破壊された仏像。

 

f:id:odekakeiku:20190806164036j:plain持ち主の子供と一緒に埋められた三輪車。後日、掘り起こされた。

 

f:id:odekakeiku:20190806164040j:plain灰と化したお弁当箱。お昼に食べる予定だったのだろう。

 

f:id:odekakeiku:20190806164045j:plain遺品の数々、そこには家族があり、日常があった。

実際に足を運んで、遺品を見てみなければわからないかもしれない。

 

f:id:odekakeiku:20190806164052j:plain展示の合間に平和記念公園を一望できる箇所があった。一瞬、現在に戻って来たような感覚になった。

 

f:id:odekakeiku:20190806164056j:plain展示を見てまわっていた時、ちょうど同じところを一緒にまわっていた車椅子の方がおられた。係りの方から展示の説明に熱心に耳を傾けていたが、特にその方には気にもとめず自分は展示に見入っていた。

その車椅子の方が、最後に車椅子から立ち上がり展示物に対して合掌していたのが印象的だった。

展示場を出ると、多くのマスコミが待ち受けていて、その車椅子の方を取り囲み初めて気づいた。大林監督だった。

 

f:id:odekakeiku:20190806164115j:plain平和記念資料館には世界中の著名人が訪れ、メッセージを残している。

 

f:id:odekakeiku:20190806164122j:plain多くの平和へのメッセージをスライド見ることができる。

 

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オバマ大統領が訪れた時の折り鶴とメッセージも展示されている。

最近は、来場者の2割は外国人だという。

2019年のトリップアドバイザーでは行くべき日本の観光スポットに、1位の伏見稲荷に続き2位に広島平和記念資料館が入っている。

ぜひ、国内外問わず、老若男女問わず、宗教思想問わず、多くの人々に訪れてほしい場所だと思う。

 

 

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美空ひばりの反戦歌「一本の鉛筆」の歌碑を訪ねる。広島駅新幹線口再開発エリア

一本の鉛筆の歌碑

f:id:odekakeiku:20190805225101j:plain最近、再開発された広島駅新幹線口の広島テレビの入るビルの1階に、美空ひばりの「一本の鉛筆」のモニュメントがある。

 

f:id:odekakeiku:20190805225108j:plain「一本の鉛筆 作詞松山善三 作曲佐藤勝」

「あなたに聞いてもらいたい・・・」

で、始まる「一本の鉛筆」

美空ひばりの数多くの名曲の中では、あまり目立たない曲だが、美空ひばり自身この曲をとても気に入っており、自身の持ち歌ベスト10の中の1曲とし大切に歌っていたという。

 

広島平和音楽祭と「一本の鉛筆」

f:id:odekakeiku:20190805225112j:plain「一本の鉛筆」は1974年第1回広島平和音楽祭で発表された。

広島平和音楽祭は、古賀政男が実行委員長となり1974年に第一回がはじまり、第20回まで続いた。古賀政男の要望もあってか第一回に美空ひばりが登場。

美空ひばりはトリをつとめ、一曲目の「ひとすじの道」を歌い終えた後「一本の鉛筆」を歌う直前、ふとこう語り出す。

昭和12年5月29日生まれ。本名、加藤和枝。

私は横浜で生まれました。

戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません。

みなさまの中には尊い肉親を失い、そして愛する人を失い、その悲しさを乗り越えて、今日まで強く生きて来られた方がたくさんいらっしゃることでしょう。

今日の私の歌が、みなさまの心の少しでもなぐさめになりましたら幸せだと思います。

これから二度と、あのような恐ろしい戦争が起こらないようみなさまとご一緒に祈ろうと思います。

茨の道が続こうと、平和のために我歌う。

この広島平和音楽祭を記念して、新しい歌が生まれました。ご紹介いたします。

これは、私にとりましてこれから永久に残る大切な歌でございます。 

 

美空ひばりと戦争

f:id:odekakeiku:20190805225119j:plain発表当時の動画を、一部見ることができる。

発表当時、美空ひばりは周辺で問題が多々あり、美空ひばり自身大変な時期だった。「茨の道が続こうと」という一言はそれらのことを言っていると言う人もいるけど、それだけではないように思う。

なぜ冒頭で急に、美空ひばりは自分の生年月日と本名を名乗ったのか。

1945年5月29日、美空ひばり本名「加藤和枝」は8歳の誕生日を迎える。ちょうどこの日、横浜大空襲があった。

 

のちに「三人娘」と言われる江利チエミ雪村いずみ美空ひばりが、それぞれ「いま何がほしいか」というインタビューに別々に答えいてる。

江利チエミは「相手が何を考えているか見抜ける力が欲しい」と答え、

雪村いずみは「天女の羽衣のようなものがほしい」と答えていたが、

美空ひばり「この世界から戦争がなくなってほしい」と答えていたという。

美空ひばり自身、戦争に対する思いは終世思い続けていたようで、あまり公にはしていなかったが、世界中の戦火にあった人々へ色々と援助をしていたらしい。

 

f:id:odekakeiku:20190805225126j:plain1974年8月9日に開催された、第一回広島平和音楽祭会場の体育館では、現在のように控え室には冷房がなくただ氷柱だけが用意されてるだけだった。

控え室が大変暑いことを周囲の人々が気にかけ、もっと涼しいところへと促すと

ひばりは「広島の人たちは、もっと暑かったのよね」とつぶやき、その場を動かなかったという。

 

それから14年後の1988年の第15回広島平和音楽祭にも、美空ひばりは再び出場する。

この時、ひばりの体は病魔に冒され、控え室にはベットが用意され出番がくるまで点滴を打って待つほどだった。

そして出番が来ると、病気を感じさせない立ち振る舞いで「一本の鉛筆」を熱唱。

歌い終わったあと「来てよかった」と言って会場を去ったという。翌年、ひばりは52歳でこの世を去る。

 

「一本の鉛筆」は広島の原爆を歌った歌だが、歌詞の中に一度も「広島」「原爆」というような単語は出てこない。

広島の原爆の歌だとわかるのは「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く」というフレーズだけ。

自身の体験や心情は積極的には語らなかったが、平和への願いは常に持ち続けていた美空ひばりらしい歌だと思う。

 他にも、美空ひばりは「八月五日の夜だった」「白い勲章」という反戦歌も歌っていますよ。

 

美空ひばり全曲集 八月五日の夜だった

美空ひばり全曲集 八月五日の夜だった

 

 

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爆心地より1.2kmの所で被曝して助かった 親戚のおばさんの広島原爆の証言記。

平成最後の夏、94歳になられた今もなお御元気な親戚の伯母さんより原爆投下直後の生々しい実体験を聞かせていただきました。

今まで、多くの人に語ることもなかった原爆体験をこのまま埋もれさせては人類の大きな損失と思い、ご本人了承のもと録音をさせていただき、テープ起こしをし、実際にその場所を巡り、図書館等で資料を調べ証言と照らし合わせ、まとめさせていただきました。ほぼ証言のままです。

原爆投下時爆心地より1.2kmの所におられながら、奇跡的に助かった一被爆者の貴重な体験談です(爆心地より1.2kmいた方の50%は、その日のうちに亡くなったとされています)。

ご好意により名前、ご本人の写真の公開も構わないとおっしゃっていただきましたが、匿名にて掲載させていただきます。

 

〔取材日 平成30年 8月5日 広島にて〕

 

73年めの証言

明日でちょうど73年になりますけど、経ってみたら早いですね。

 8月6日8時15分ごろ

私は、広島放送局(現在のNHK広島放送局)に出勤するために家を出ようと思ったんです。

時計を見たら、もう8時15分に近かったんですよね。

さぁこれは急いで歩いて行かんと、放送局に間に合わんのです。

家が比治山の下の富士見町。放送局が鉄砲町だったんです。

 家の近くに山陽中学校(現在山陽高等学校。原爆投下で教員19人・生徒486人が亡くなる。現在跡地にはフジグラン広島が建つあたりか)があったんです。

 

原爆投下直後

f:id:odekakeiku:20190803214757j:plain山陽中学校跡地 現在はフジグラン広島が建つあたりと思われる

山陽中学校の赤レンガの塀のところを、歩いて急いでいたわけです。

バスがあるわけでもなく、小走りに出かけて流川に出るために、赤レンガの塀のところを通り過ぎたんですね。 

その瞬間に、パーっと光りが来たんです。

日傘をさして歩いていて、側にかなり大きな木が植えてあろ、赤レンガを通り過ぎたと思ったら閃光を受けて、まーものすごい光りで。

気がついたら日傘もない、下げていた袋もない。

山陽中学校側の家の軒下に飛ばされて、瓦と赤土が頭へどんどんどん落ちて来たんですよね。

それで、あがいて、なんとか起きあがって、足が助かっていたんですね。

でもふと気がついたら、左手が何かに当たって手首を骨折していました。

 

のちに先生が「あなた奇跡ですよ。広島中心で直に被爆受けて、手の骨折くらいですんで」と言われたんです(今でも手に骨折の跡)。

 

でも、どんどんどん手が腫れて来たんです。下げたら手は痛いし、なにも持ち物はないし、立ち上がって起き上がっても、家の方がわからんのです。

家に残して来た母親が気にかかったので、なんとか感で帰ろうと思ったんです。

 

土やら瓦やらいろいろ踏み越えて、ぜんぜん家か何かわからなかったんですけど、昔は防火水槽があったんですね。

うちの名字が書いてある防火水槽があって「あーここか」ってわかったんですけど、ひどい瓦礫で痕跡がわからんのです。

 

比治山へ避難

 何をしてよいかもわからず、うろうろしていたら、軍隊の兵隊さん10人くらいが

「はよー逃げ! はよー逃げ! 比治山へ逃げ!」

って叫んでいるんですよ。

それでしかたないんで、比治山へ歩いて上がったんです。

一番上で、まーいっぱい人が集まっていて、水道が壊れていてあちこちらから噴水のように出ていて、みんなが飲むんですよ。まぁ綺麗な水でしたけどね。

 

f:id:odekakeiku:20190803215005j:plain比治山橋より比治山を望む

比治山で日陰を見つけて座って、まぁ何するわけでもなく、手もどんどん腫れて痛いし、一日中座って過ごしていたんです。 

山へ逃げてから(街中)あっちこっちから燃えだしたんです。

どう言うたらいんですか、一晩中、広島が燃えるのを山からね、ずーっと見てたんです。

ぜんぜん何もすることもできずにね。

水道の水を飲むくらいのことで、食事は何もない。

ただ広島が焼けるのを見ていたくらいで。

 

夜が明けたらね、中国新聞と、広島中央放送局(現在のNHK広島放送局)と、八丁堀の福屋(福屋百貨店)くらいなもので、あとは全部消失。もう綺麗にね。

 

f:id:odekakeiku:20190803215050j:plain比治山より爆心地付近を望む 

己斐(西広島)方面と、江波方面と、あと宇品、あの周りが残っていてね、広島の真ん中は全部焼けていました。

 広島放送局は、鉄砲町でね、家から割と近くでしたけど、家の辺りもなにもなくなっていました。

 

比治山より下山して

 夜が明けて8時ごろ、どうしようかなと思って、どっちにしろ山から降りなきゃと思ってね、山から降りかけたんですよ。

そしたら軍隊の人がね、おむすびを作ってくれていて、避難した人にね、1つづつ配っていたんです。

まぁ、あの頃はお米のない時代でしたからね、まぁ助かりましたよ。(大きさは、あんまり大きくない)。

それを食べながら、己斐の先に高須いうところがあるんです。

そこに友達がおったんです。そこへ歩いて行ったんです。

 

ずーっと街の焼けた中を歩いて行って、高須の友達の家で助けてもらって。そこで休ましてもらって三日泊まらせてもらいましたね。

母は家で死亡しとったし、弟は浜松航空隊(現在の航空自衛隊浜松航空基地)へ行ってて不在でしたし、父は用事で水内(広島市郊外)へ行っとりましたしね。

この高須の家でね、もう1人怪我してお世話になってた人がいましたね。

 

父は歩いて、水内から歩いて広島へ出て来て。

「焼け跡に行こう」と言うて一緒に行って見たんですけど。

瓦と赤土と、ゴミばかりで、どうにもならんのですよ。

私は具合が悪いので帰って、その日か、あくる日なのか、ちょっとわからんのですけど

父が家の跡を掘ってみたらしいんですよ。

そしたら完全に焼けてないんですよ。圧死で。蒸し焼きになっていて、半分くらいしか焼けてないって言うんですよ。

洋服のちぎれたのがね残っとって、青いようなのが残っといて

「あーこれはお母さんのだ」

っていうので解ったって。全部、遺体を掘るというのはいかんので、一部遺骨を持ち帰ったんです。

 

比治山から高須へ行くのにね、今の平和大通り、あの道を歩いて行ったんですが、もうずーっと死体の山。

火傷した人がね、みんな転がっているんです。もう真っ赤。背中も真っ赤。

着るものを着た人は、無かったですよ。

あれはどう言う事なんでしょうかね。焼けたんでしょうね。

 

広島は川がいっぱいあるでしょ。 

まー川の中に、熱いのでいっぱい飛び込んでいたんですよ。

川の中にぷかぷか膨れて、小さい子たちも膨れてね。ぷかぷか川の中をね。

それからボートが出て、その死体を男の人があげていたんですよ。

後から聞いたらね、吉島刑務所(広島刑務所)の囚人が出てね、その人らが手伝ったんですと。

それじゃあ、ぜんぜん間に合わんのですよ。あれは、どうなったんでしょうね。

 

 比治山から平和大通りを歩いて行って、不思議なことに、橋自体はね壊れていなかったんですよ。橋にもたれてる人もおるし、川の中へ落ちとる人もおるし、雁木(川沿いにある階段)にもたくさん遺体がありました。

それから市電が今の広電が、途中で止まっていましたよ。4台か5台見たけど、中がね・・・まぁ中は見れないですよ。

 

比治山から高須まで、一時間くらいでしたか、途中で鷹野橋あたりで友人に会ったんです。その人は宇品に住んでいて、宇品はどうもないので、友人が心配で様子を見にきていて、

「まぁーあんたは大丈夫だったん?」

と言われて、2、3分立ち話をしたんですね。

 

手が痛くて夜眠れないんですよ、当時、草津の駅のところにね。接骨病院があったんですよ。

泊まらせてもらってる家から行ったんです。

病院で竹で固定して、布で巻きつけてもらって、ただそれだけ。

五日市の疎開先で1部屋借りてたもんですから、そこで父と生活をはじめて。

なんか、父がこしらえてくれて、一ヶ月くらいおったんです。

宮島線は大丈夫だったんですよ。宮島線でね、五日市から毎日のように病院に通いました。すごい人でね満員で、あれが大変でした。

 

一ヶ月くらいして、弟が浜松から帰ってきて、父と私と3人でね、広島郊外の父の生家の寺へ戻ったんです。母の骨は、一部は掘って帰ってね、そこのお墓へ埋めました。

 

 広島放送局は、18歳から勤めていました(一時期フィリピンの放送局へも行っていたが、フィリピン陥落前に内地に帰る)。女学校を出た後でしたが、若い男性は全部、出征でおらんのですよ。

課長とか部長とか、みんな40~60代で、若い人は障害ある人くらいで。

広島放送局で、書類や原稿がくるのを写したり、よその階へ持っていったたり事務の仕事をしていました。

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NHK広島放送局(現在は移転して大手町にある)前に立つ「被曝放送局の碑」

一緒に働いてた人はほとんど亡くなったらしいです。

60歳くらいの部長さんがね、なんでかその日は早くに事務所に座ってたんです。

頭の上から、電気のシャンデリアが直撃して、亡くなってたらしいという話は後で聞きました。

原爆落ちる前、空襲警報とかはなかったですよ。いつも8時ごろ出るんですけど、その日に限って遅れてしまって。

こりゃ、急がな大変、遅れてしまうと。

もう少し遅れて出ていたら、家で母と一緒になったでしょうし、もう少し早く出ていても死んでいたでしょうね。