夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

人間魚雷「回天」の島。大津島を訪ねて。山口県周南市

 

人間魚雷「回天」。

その存在を初めて知ったのは、小学校の時に見たテレビ番組だったと思う。

魚雷に乗り込み敵艦に体当たりするという無謀な戦法に、小学生の自分は凄まじい衝撃を感じた。

戦闘機で突っ込む神風特攻隊の方がまだマシだ。

そんな事を思ったりした。

 

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以来30年あまり、一度は訪れたいと思い続けた山口県大津島の回天訓練基地へ、数年前に訪れた。これはその時の記録です。

当時、個人的に「回天」の資料を読み込んでいたのもあってか、回天の地をめぐって帰ってきても、誰にも話す気にもなれず、ブログにあげるのも正直重く、、、気づけば数年が経ちました。

自分は30代ですが、先日ふと話した人間魚雷「回天」について、同世代の人の中には「回天」について全く知らない人が意外と多くいて、少しそのことにも衝撃を受けたので、戦後75年目の終戦の日に、少し上げてみようと思い立ちました。

 

回天の島 大津島へ

f:id:odekakeiku:20200815071448j:plain始発の羽田発広島行きの飛行機へ乗り込み、広島空港から広島駅までバス、広島駅から新幹線で徳山へ。

ANAの羽田→岩国便を利用しなかったのは、早朝の便が当時はまだ無かったからだったかな。

 

f:id:odekakeiku:20200815071452j:plain新幹線内から徳山の工業地帯。社会でやった山口県の宇部から岡山にかけて広がる、まさに「瀬戸内工業地域」。この工業地域の発展は、多くは戦後になってからのもの。

 

f:id:odekakeiku:20200815071523j:plain広島から新幹線こだまで30分弱「徳山」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20200815071459j:plain駅構内には、徳山の主要産業である工業製品が陳列されていました。

 

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駅のお土産コーナーの「回天」グッズ。

訪れる前に「回天」に関する資料を読み込んできたせいか、こいうのに違和感を当時は感じていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071504j:plain大津島行きのフェリーは、徳山駅から歩いてすぐ。

フェリー乗り場には、平成18年公開の映画「出口のない海」の撮影で使われた実物大「回天」模型が置かれていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071540j:plain徳山→馬島まで、当時710円(2020年現在720円)。徳山10時40分発。

 

f:id:odekakeiku:20200815071543j:plain徳山を出て40分ほどの船旅で「馬島」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20200815071549j:plain港近くに、「回天供養」の観音様が立っておられました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071557j:plain回天記念館までは、なだらかな坂道を登って行きます。

初めてきた場所なのに、なんとなく懐かしいような感じ。

 

回天記念館

f:id:odekakeiku:20200815071628j:plain港から約10分ほどで、回天記念館に到着。回天で亡くなった搭乗員の名前と出身地が刻まれた石碑が、記念館入口まで並びます。

 

 

f:id:odekakeiku:20200815071729j:plain回天を創案し、自らも出撃して戦死した仁科関夫少佐の遺品。

 

f:id:odekakeiku:20200815071749j:plain回天上部ハッチ。戦後、海底から引き上げられたものだそうです。見ていて、ただただ重い。。。

 

f:id:odekakeiku:20200815071703j:plain再現された、回天内部。人一人座れるのがやっと。当時としてはハイテク兵器だが、あまりにも簡素。これが、自分の棺になると思って乗り込む覚悟は如何に。

 

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「浮きつ島鼓海を訪ふ」 森繁久弥

天を回せよ

今は嗚呼

鼓海の波は静かなり

その勲しの

あとや 哀し

大津島に鎮もれる

魂々よ

静かに思ふ

人生に無駄なものが

あらふか

眠れ友よ いかにも

碧き 海に

平成五年五月二十二日作

 

発射試験場跡へ通じるトンネル

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現存する建物でモニュメント的な存在になっている、回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)は、トンネルを抜けた先にある。

 

f:id:odekakeiku:20200815071902j:plain当時はレールが敷かれており、トロッコを使いトンネルを抜けて回天は運ばれていた。入り口の幅は3.5m。高さ4m。長さ247m。

 

f:id:odekakeiku:20200815071910j:plain搭乗員もまた、このトンネルを通って訓練場へ向かったかと思うと感慨深い。

 

f:id:odekakeiku:20200815071853j:plainトンネルの途中に、海へと開いた横道。空襲時指揮所(通信所)と説明があった。

回天搭乗員の全体の戦死者は106名だが、離島のこの基地への空襲もあり、搭乗員の中には空襲時に被弾して亡くなった搭乗員も2名含まれている。

 

f:id:odekakeiku:20200815071852j:plain途中から、トンネルの横幅が広くなっている。この辺りは、複線で広くしていたようです。

 

f:id:odekakeiku:20200815071909j:plain当時を回想する大きな写真の展示。

実際に使用されていたトンネルの中で解説を読むのも、どこか重く感じられた。

 

f:id:odekakeiku:20200815071931j:plain回天の乗組員たちは、どんな思いでこのトンネルを抜けて、訓練に向かったのだろう。

 

 

回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)

f:id:odekakeiku:20200815092133j:plain現在、回天訓練基地跡としてシンボル的な存在になっているこの場所は、もともとは昭和14年(1939年)に建設された「九三式酸素魚雷」の発射試験場だった。

 

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魚雷は、雷跡を引く。当時の魚雷は、発射されたら方向転換はできないので、撃たれた側は雷跡を見ながら魚雷を避けることができた。

しかし、日本海軍の開発した酸素魚雷は、排気ガスが炭酸ガスのため海水によく溶けて雷跡をほぼ残さない。魚雷が発射されても、どこを通ってくるかわかりにくいため避けることが難しくなる。

さらに酸素式魚雷は、ステレス性が高いだけでなく、威力が強く航続距離も長かった。

 

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酸素魚雷は特殊な構造のため開発は困難を極めたが、日本海軍がいち早く実用化に漕ぎ着けた。

その酸素式魚雷の発射試験場が、ここ大津島だったのである。

 

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昭和19年9月5日からは、この施設を利用して、回天の発射訓練が行われるようになった。その回転も「九三式酸素魚雷」をベースに改良し人が乗れるようにしたもの。

日本海軍が世界に先駆けて開発した、酸素魚雷に、人間が乗り込む必死必殺の兵器になる。

そこまで戦局が悪化し「回天」という人道的に問題のある兵器を作らねばならない段階にまで至っていたことなど、改めてこの地を踏んで、いろいろな思いが浮かんできた。

 

 

特攻の島1

特攻の島1

  • 作者:佐藤 秀峰
  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Kindle版
 

 

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柿田川湧水群。日本で最も短い一級河川は、家康も晩年を過ごしたいと思っていた富士山からの雪解け水が湧き出る城跡。

今日3月22日は「世界水の日」

地球的視点から、水の大切さと貴重さを世界中の人々が共に見つめ直す日にしようと国連が制定。

そこで今回は以前よく訪れていた静岡県清水町にある

名水百選「柿田川湧水群」について。

新型コロナが流行っているので「霊峰富士から湧き出る神聖な水で流す」との願いも込め、新型コロナの1日も早い収束(終息)を願いつつ

 

柿田川湧水群

f:id:odekakeiku:20200322221028j:plain以前、よく仕事で訪れていた静岡県清水町。時間調整などで時間ができた時に、必ず訪れていたのが「柿田川公園」です。

疲れていても、どんなに嫌なことが続いても、ここに来るとなぜか元気が湧き出てくるような不思議な公園でした。。。

 

f:id:odekakeiku:20200322221039j:plainここは、「柿田川湧水群」として名水百選にも選ばれ、霊峰富士をはじめ周辺の山々に降った雨水や雪解け水などが、湧き出る場所。

交通量の多い、国道1号線に隣接しているとは到底想像ができないほどの自然と、至るところでこんこんと湧き出る水のせいか、公園全体に神聖な雰囲気が漂います。

 

第1展望台

f:id:odekakeiku:20200322221116j:plain富士山周辺に降った雨や雪が、ここ柿田川湧水群に湧き出るまでの期間は、およそ26年〜28年の歳月がかかっているとか(国土交通省のトリチウム濃度分析による)。

12月には、遡上してきた鮎を見ることもできるそうです。

 

第2展望台

f:id:odekakeiku:20200322221120j:plain以前この場所には紡績工場があり、その井戸として利用していたところからも、今でもこんこんと水が湧き出ています。

濃いコバルトブルーの色が印象的です。

 

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時間の許す限り、いつまでも滞在したい、なんとも言えない心地の良い公園です。

 

貴船神社・泉頭城

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縁結びの神様と知られる京都に本宮のある「貴船神社」。

祭神は、水神の高龗神(たかおかみのかみ)。

この神社のあたりは、戦国時代に北条氏が築城した「泉頭城(いづみかしらじょう)」の「西の丸」にあたるとのこと。

泉頭城は東西400m、南北500mほどの戦国期の城郭で、伊豆を守るための国境の城としての役目を果たしていたと考えられています。

豊臣秀吉による小田原征伐の時に廃城。

元和元年(1615年)徳川家康は、泉頭の城郭が大変気に入り、晩年を過ごす場所として隠居御殿の城を造営するように土井利勝、本多正純に命じますが、翌年、家康が没したために取りやめになります。

 

f:id:odekakeiku:20200322221136j:plain大正の頃までは、その泉頭城の城郭もよく残っていたそうです。

その後、この地は工場地となり、一時期は排水によって柿田川が汚染されることもあったそうですが、自然環境保全運動の高まりもあり工場が移転され、現在のような憩いの場所に戻ったそうです。

 

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また、近くに行くことがあったら、是非にも立ち寄りたい場所です。

画像は、2013年4月の新緑の頃に訪れた時のものです。

今現在とは異なっている場合があります。

パナソニック「LUMIX DMC-GF3」で撮影。 

 

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どれが本当のお仙の笠森稲荷?。谷中界隈に三ヶ所ある江戸三美人の一人「笠森お仙」に関連する場所。

今日、2月24日は、江戸の三美人の一人「笠森お仙(かさもりおせん)」の忌日。

江戸の三美人(明和の三美人)の中でも、特に人気のあったお仙さん。

その笠森お仙にまつわる場所が、台東区谷中界隈に三ヶ所あります。

以前から、谷中散策をしていて、この三ヶ所の「お仙」スポットの違いが気になって仕方なかったので、ちょっと調べてみました。

笠森お仙

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まずは、「笠森お仙」について。

「笠森お仙」こと「お仙」さんは、宝暦元年〜文政十年(1751〜1827)江戸時代後期、当時を代表する絶世の美女と言われた実在する人物。

江戸谷中笠森稲荷境内にあった水茶屋「鍵屋」の鍵屋五兵衛の娘で、鍵屋の看板娘として「鍵屋」を支えていたようです。

かねてより美人との噂があり、絵師の鈴木春信は「お仙」を錦絵で描いたところ、その錦絵は大評判となり、お仙さん見たさに水茶屋「鍵屋」には多くの人で溢れかえったとのこと。

笠森お仙は、錦絵、絵草紙、芝居のモデルになっただけでなく、手拭いや人形などのお仙グッズも販売されるほどだったようです。

 

「大圓寺」の笠森おせん鈴木春信と永井荷風の碑

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東京メトロ千代田線の「千駄木駅」から三崎坂を上って行った途中に「大圓寺」(大円寺)というお寺があります。

入り口にも「お仙」の案内看板があり、三崎坂も谷中散策ではよく通る道なので、他の「お仙」スポットよりも目にとまりやすいです。

 

f:id:odekakeiku:20200224221034j:plain境内には、「錦絵開祖鈴木春信の碑」↑と、

 

f:id:odekakeiku:20200224221026j:plain永井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っています。

 

f:id:odekakeiku:20200315170136j:plain永井荷風は、笠森お仙をモデルにした小説「恋衣花笠森」を執筆しています。

二つの碑は共に大正8年建立。「お仙に関連の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に」立てられたと、台東区教育委員会の案内板にありました。

大圓寺は、絵師鈴木春信、永井荷風とビッグネームも登場し、笠森お仙スポットの第一の感があります。

 

「功徳林寺」

f:id:odekakeiku:20200224220304j:plain続いて、谷中の人気スポット「朝倉彫塑館」から、250mほど南に行ったところにある浄土宗功徳林寺。

 

f:id:odekakeiku:20200224220319j:plainこちらのお寺の入り口にも、お仙ゆかりの寺として案内板が設置されています。

「当時大評判になった、その笠森稲荷堂が境内にあります。ご自由にご参拝ください。」とあるので境内に入ってみると

 

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ちょっと真新しい感じの、お稲荷さんがありました。 

ふむふむ、ここが、お仙さんの笠森稲荷なんですねー。

と、思っていたら・・・↓

 

上野桜木「養寿院」

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谷中から言問通りに出て、鶯谷方面へ行くと「おせん」と書かれた看板の、まさに茶屋風な建物があります。

以前から、この「おせん」の看板が気になっていたのですが・・・。

ある日、この上野桜木界隈を散策している時に、その「おせん」と書かれた看板の茶屋風の建物(廃業されてるようです)の、向かいに養寿院という小さな寺院があり

 

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小さいながらも大変良い雰囲気を感じて、お参りさせていただくことにしました。

正面の本堂でお参りを済ませて、帰ろうと振り返ると・・・

 

f:id:odekakeiku:20200224230223j:plain門の横に、、、んんん??

笠森稲荷?

 あれまぁ。。ここにも笠森稲荷がありました。。。

 

いったいどれが、本当の笠森お仙の笠森稲荷?

少し整理すると

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1.お仙に関連深い笠森稲荷を合祀されていると案内板に書かれている谷中「大圓寺」。鈴木春信と永井荷風のお仙の石碑有り。

 

f:id:odekakeiku:20200224220313j:plain2.谷中のお仙ゆかりの寺と称する「功徳林寺」の笠森稲荷堂。

 

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3. そして、言問通りの上野桜木にある養寿院の笠森稲荷。

 

いったいどれが、本当のお仙の「笠森稲荷」なのでしょうか?

ガイドブックなど色々と調べてみましたが、あまり詳細に記載されている本が見つからず・・・。

 

台東区史

そこでこのサイトでは何度かお世話になっている困った時の「台東区史」を紐解いてみることに。以前、台東区史を読んでいた時に「笠森お仙」の記載があったような。

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台東区史4冊ある中の、通史編IIに「笠森お仙」についての記述がやはりあり、なんとそこに、この三ヶ所の笠森お仙にまつわる由来について記載されてありました。

以下、台東区史を引用しながら見ていきます。

 

お仙のいた鍵屋という水茶屋は現在の位置でいうと功徳林寺(谷中七ー六ー九)の笠森稲荷の門前にあった。

台東区史II P50

少しややこしいですが、 お仙さんのいた水茶屋「鍵屋」現在の功徳林寺にあったそうです。

台東区史を読み進めます。

三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信碑」がある。また、永井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。

台東区史II P50

 台東区史を読んで少し驚きましたが、区史によると、大圓寺には鈴木春信と永井荷風の石碑がありますが、こちらの稲荷は、よく笠森稲荷と混同されたお稲荷さんだったそうです。

区史をさらに読み進めます。

つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。

明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。

さきの功徳林寺は、明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代とものとは違う。

台東区史II P50 

 台東区史によると、お仙さんのいた鍵屋の笠森稲荷は、3番目の言問通り沿いにある養寿院の笠森稲荷こそが、それであると結論づけています。

しかし、どれが本物、偽物なんて、恐れ多すぎて凡人の私どもには選別できかねます。

区史で「お仙の時代のものとは違う」と書かれた功徳林寺の笠森稲荷も、区史が認めるように、史実ではお仙さんのいた水茶屋「鍵屋」があった場所であり、

よく混同されたという大圓寺のお稲荷さんも、鈴木春信、永井荷風のお仙さんの石碑が建ち、江戸から明治大正と多くの人がそれぞれに「お仙さん」思いを馳せた場所だったのかもしれません。

 

 ちなみに、笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」の看板娘お仙さんは、明和七年二月に突如、姿を消します。

「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という詞がその頃はやったようで、お仙を「茶釜」に喩えて、突然いなくなったお仙を江戸の人々は惜しんだとのこと。

実はお仙はこっそりと、八代将軍徳川吉宗が創始した「御庭番」を務める旗本、倉地政之助に嫁いでいたそうです。九人の子宝にも恵まれ、七十七歳まで生き天寿を全うしたそうです。

 

〜向こう横丁のお稲荷さんへ

一銭あげて ざっと拝んで お仙の茶屋へ〜

童唄

 

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2月15日は西行忌「願わくば花の下にて春死なむ・・・」。そんなにダメな歌?「嘆けとて月やは物を思はする・・・」百人一首86番

今日、2月15日は「西行忌」

願わくは花の下にて春死なん・・・

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史実に残る実際の西行の忌日は、旧暦の文治6年2月16日。

西行の残した有名な歌の一つに

「願わくは 花の下にて 春死なん  その如月の望月のころ」

できることなら、春、桜の下にて死にたい。二月のお釈迦様が亡くなった、あの満月のころに。

という歌から、実際の忌日より1日早い、お釈迦様の入滅した日「涅槃会」である2月15日にあわせて、西行法師の忌日としている。

旧暦の2月15日は、新暦の3月中旬〜下旬。実際に桜の花が咲く頃。

権力や欲に貪る生臭坊主ならいざ知らず、西行ともあろう孤高の僧侶が「できることなら桜の下で死にたい」というのは、少し俗な感じがして違和感を感じるが、「二月のお釈迦様亡くなった満月の頃に」という下の句で、その上の句の俗な感じが薄らぐというより、全体的に深みが出てくるように思う。

この歌は、上の句を「俗」、下の句を「仏」とすることで、一見「俗」な願いであり、また「聖」な願いでもある、西行らしいと言えば西行らしい調和の取れた歌に仕上がっているように勝手に思うのです。

 

西行は、若き頃のゴータマと同じく、苦悩する若者だったのかもしれない。

天皇を直接守る武家の家に生まれ、家柄もよく、その当時として生まれながらにして恵まれて育った。

しかし、結婚をして2人の子供ができ、4つになる娘を溺愛する日々を過ごしていた23歳の時、何を思ったか、妻とその子らを残し、恵まれた地位も捨てて突如出家する。

出家時、泣きすがってきたきた溺愛の娘を、蹴飛ばして突き放し家を出たという。

それからの西行は、ご存知の通り日本各地を放浪し多くの歌を残した。

 

嘆けとて月やは物を思はする・・・(小倉百人一首86)

西行は「月」を題材にした歌を多く残している

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「嘆けとて 月やは物を思はする かこち顔なる 我が涙かな 西行法師」

嘆きなさいと言って、月が私を物思いにさせるわけではないのに、月のせいだと言わんばかりの顔をして、流れ出る私の涙よ

 

百人一首にも入っている歌(86番)として知られ、自分も中学時代、百人一首を覚えた時、なんとなく心情が理解できるようで、百人一首の中でも好きな歌の1つだった。

 

しかし、後に自分が大人になって百人一首関連の本を読んでいくなかで、この歌は一部の著名な文化人からは、すこぶる評判が悪いことを知った。

 

西行は他にもいい歌があるのに・・・

なんでこんな歌を定家が百人一首に選んだのか理解できない・・・云々。

 

 田辺聖子もこの歌に対して悪評を立てる文化人の一人で、著書「田辺聖子の百人一首」の中で

この歌も、西行の歌としておよそ魅力のない歌で、古来からいぶかしがられている。

(中略)

この「かこち顔」の歌は若い時の歌らしいが、どこがいいのか、現代人にはわからない。老いた定家の心にひびく何かがあったのかもしれないが、百人一首に折々ある「なんでこんな歌が」の一つである。

仕方がないから文法のおさらいでもしましょう。

「田辺聖子の小倉百人一首」角川文庫

 

と、原稿の文字を埋めるためか、この歌の内容如何よりも文法のおさらいに入ってしまうご始末。。。 

 

月は、ありのままの月のままであって、それを勝手にどう捉えるかは、その月を見た人間次第。

だけれども、そんなことはわかっているのだけれども、月のせいだと言わんばかりの顔をして、月のせいにしてしまいたいほどに、涙が自然と溢れ出てくるんだよ。

この歌は、仏門に入る前の西行の若い頃の作品だというのも魅力的で、「月」はありのままの「月」なんだ、「月」でしかないんだと言う「客観」と、でも「かこち顔」して涙が自然と出てくると言う「主観」とをうまく掛け合わせていて、感情を交えず正しく見る=仏教で言う「正見」に気づいているようで、そこに重きを置いている作風も若いとはいえ凄いなーと、凡夫の私は思ふのです。

そんなにダメでしょうか?この歌。

 

西行全歌集 (岩波文庫)

西行全歌集 (岩波文庫)

  • 作者:西行
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/12/18
  • メディア: 文庫
 
田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

  • 作者:田辺 聖子
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1991/12/06
  • メディア: 文庫
 

 

 

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1月29日は「草城忌」 食欲をそそられる日野草城の食の俳句と、百人一首と

f:id:odekakeiku:20200129143332j:plain「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」草城

 

1月29日は「草城忌」

今日、1月29日は「草城忌」

 昭和初期の俳壇に新しい風を吹き込んだ俳人、日野草城(ひのそうじょう)の忌日。

 

f:id:odekakeiku:20200129161029j:plain 先日、久しぶりに日野草城の句集を、図書館で見つけて借りて読んでいたので、今回は草城の句を、ちょこっとご紹介したいと思います。

日野草城の俳句との出会いは、学生時代によく通っていた図書館にて。

何気なく手にとった草城の句集でしたが、草城の句は日常の光景を柔らかくユーモラスな表現を含んでいて、当時まだ10代の自分にもわかり易く親しみやすい作風に、いつしか(受験勉強そっちのけで)引き込まれて読んでいました。

中でも食べ物に対する描写は、情景をありありと連想させ、当時10代のいつでも空腹だった自分には、読むたびに食欲をそそられるものがありました。

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「きのこ飯 ほこほことして 盛られたる」草城 花氷(秋)

 

日野草城

まずは、簡単に草城について。

日野草城 明治34年(1901年)7月18日〜昭和31年(1956年)1月29日

本名は、克修(よしのぶ)。

東京 上野の生まれで、俳句を嗜む父の影響もあって中学時代から「ホトトギス」に投句。

京都大学法学部を卒業した後、大阪海上火災保険に入社し出世コースを歩むも、戦後、病気のため退社。

昭和10年(1935年)に発表した「ミヤコホテル」は、それまでの俳句にない大胆な色気を伴う表現で、室生犀星(絶賛)vs中村草田男(批判)らによる「ミヤコホテル論争」と言われるほどの論争にまで発展。

新興俳句の先駆けとして様々な句を発表し続け、昭和11年には 高浜虚子の怒りに触れて「ホトトギス」を除名処分。

晩年は、病気、貧困、住むところにも苦労しつつも、妻に支えられながら創作活動を続ける。

草城が亡くなる前年、虚子が見舞いに訪れ、再び草城は「ホトトギス」に迎えられる。

昭和31年に亡くなるまで「花氷」「旦暮」「昨日の花」「人生の午後」など多くの句集を発表。

 

草城と食

以下、個人的に草城の「食」についての句(一部)を集めてみました。

 

「かんばしく 珈琲たぎる 余寒かな」花氷(春)

「春の夜や 檸檬に 触るる 鼻の先」花氷(春)

「子を産んで やつりにけりな 桜餅」花氷(春)

「サイダーの うすきかおりや 夜の秋」花氷(夏) 

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「ところてん 煙のごとく 沈みをり」花氷(夏)

「うすまりし 醤油すずしく 冷奴」花氷(夏)

「夏みかん ざくりざくりと むかれけり」花氷(夏)

「くちびるに 触れてつぶらや さくらんぼ」花氷(夏)

「舌に載せて さくらんぼうを 愛しけり」花氷(夏)

「きのこ飯 ほこほことして 盛られたる」花氷(秋)

「朝寒や 白粥うまき 病みあがり」花氷(秋)

「白菊や 風邪気の妹に 濃甘酒」花氷(秋)

「寂しさに 葡萄の房を 握りけり」花氷(秋)

「雪の夜の 紅茶の色を 愛おしけり」花氷(冬)

 「雨の夜の こころさぶしき ゼリーかな」昨日の花

「みづみづし セロリを噛めば 夏匂ふ」昨日の花

「七月の つめたきスウプ 澄み透り」昨日の花

 「マカロニが 舌を焦しぬ 風涼し」昨日の花

「クロイツェル・ソナタ氷片 珈琲に」転轍手(ベートーヴェンを聴く レコードコンサート一句)

「ももいろの ミリオンダラー 妻に飲ます」転轍手(愛しき消費ありがたしボーナス)

「子のグリコ 一つもらうて 炎天下」転轍手(あやめ池遊園)

 

草城と日常 

日常やサラリーマンから見た情景も当時としては斬新で注目を集めます。

「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」花氷

「春愁を 消せとたまひし キスひとつ」花氷(春)

「夕風に へらへらと笑ふ しびとばな」花氷(秋)

死人花→彼岸花

「初雪を 見るや手を措く 妻の肩」花氷(冬)

「早寝して  夢いろいろや 冬ごもり」花氷(冬)

「風邪の子の 枕辺にゐて ものがたり」花氷(冬)

「静けさや 炭が火となる おのずから」花氷(冬)

 「扇風機 つばさが消えて 風となる」昨日の花(事務室)

「をさなごの ひとさしゆびに かかる虹」昨日の花(二尊院)

 「重ね着の 中に女の はだかあり」昨日の花

「懐に ボーナスありて 談笑す」昨日の花

「小市民 金を預けて 出て寒し」転轍手

 

戦前のサラリーマン時代の作品は、生き生きとして温かい日常の情景を描いた句が多い気がしますが、戦中の暗い時代のいわゆる戦争俳句、そして戦後の病床期はガラッと作風が変わり、どの作品も哀愁が漂います。

 

「ちちろ虫 女体の記憶 よみがへる」人生の午後

「死ぬときの 鼠の声を 聴きにけり」人生の午後

「裸婦の図を 見てをりいのち おとろへし」人生の午後

「所得税 すくなきを うらやまけり」

「すずらんの りりりりりりと 風にあり」銀 

「夏布団 ふはりとかかる 骨の上」人生の午後 

 

草城と「小倉百人一首」

 草城は学生時代、短歌にも興味をしめし「古今集」「新古今集」はじめ多くの古典を好んで読んでいたそうです。

そのせいもあってか、草城の句の中には、(なかでも)「小倉百人一首」に登場する歌を連想させたり絡ませたような、洒落やユーモアのある句も多く遺しているように思えます。

 

「千早ぶる 神代の石や 鮓(すし)の石」草城 花氷 

 『ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 から紅に 水くくるとは』在原業平(17)

 

「酌の手を とめて千鳥が 鳴くといふ」草城 花氷(冬)

『淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いくよ寝覚めぬ 須磨の関守」源兼昌 (78)

 

「玉の緒よ 絶えねば絶えね 河豚汁(ふぐとじる)」草城 花氷(冬)

『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする』式子内親王(89)

 

「きりぎりす 鳴かねば青さ まさりける」草城 青芝(秋)

『きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき 独りかも寝む』九条良経 (91) 

 

「これやこの  珍(うづ)のバナナは そろそろ剥く」草城 人生の午後

『 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」蝉丸(10)

意味はともかく、「これやこの」を俳句に用いる感性が、病床にあっても斬新な気がします。

 

他にも、百人一首に出てくる歌の中の句を、いたるところで見かけます。

草城の遺した句の全てを鑑賞したわけではないですが、改めてざっと見ただけで、これだけあるので(実際はもっとありましたが割愛しました)草城は「小倉百人一首」が好きだったのかもと思ってしまいます。

 

また草城は、百人一首のゆかりのある、天智天皇を祀った近江神宮にも参拝し句を詠んでいます。

 「みそなはす 皐月の湖の てりくもり」草城 第五句集(近江神宮)昭和十六年

 近江神宮が創祀されたのは、草城が訪れた(もしくは句を詠んだ)前年の昭和15年。

 現在では、近江神宮と言えば「競技かるた」の「クイーン戦」「名人戦」が開催され、漫画やアニメの「ちはやふる」でも登場する神社として有名ですが、当時は、天智天皇を祀るというくらいで、現在のように百人一首と関連がある神社とも一般的に認知されていなかったようにも思えます。

 昭和初期、それまでの古い体質の俳壇に、旋風を巻き起こした草城ですが、古典の「小倉百人一首」などに登場する歌が、草城の遺した俳句のなかに見え隠れするというのも、個人的に興味深く感じます。

 

参考図書

・「日野草城句集 室生幸太郎編」 角川書店発行

・日野草城句集 昨日の花 邑書林句集文庫

・昭和俳句文学アルバム24「日野草城の世界」桂信子編著 梅里書房

 

草城句集―花氷 (京鹿子叢書)

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  • 作者:日野草城
  • 出版社/メーカー: 沖積舎
  • 発売日: 1996/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

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まるで佐渡のラピュタ? 金の抽出量「東洋一」を誇った北沢浮遊選鉱場跡

佐渡 北沢浮遊選鉱場跡 Kitazawa Flotation Plant

 

今回は「佐渡のラピュタ」こと「北沢浮遊選鉱場跡」へ撮影に行った時の備忘録です。

  

古くは、平安時代の説話集「今昔物語」にも出てくる佐渡の金。

佐渡最大の金山、相川金山だけでも掘られた坑道は最深部海面下530メートル、坑道の総延長は約400キロメートルにもおよぶそうです

(東京〜新潟間の新幹線の距離が約334キロメートル)。

 

掘り出された金を含む鉱石(金鉱石)から、金を抽出する施設も当然必要なわけで、昭和の15年間という短い間に操業され当時「東洋一」の規模を誇った選鉱場の跡地が、今も佐渡島に残っています。

 

北沢浮遊選鉱場跡

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昭和12年、日中戦争が始まると、さらなる増産体勢が計られ大規模な選鉱場が必要になりました。そこで建設されたのが「北沢浮遊選鉱場」。

 

f:id:odekakeiku:20200124133105j:plain

金銀山で採れた鉱石を粉砕し、主に水と油、薬品からなる溶液で浮遊させ、金銀を抽出していた選鉱場。

 

佐渡のラピュタ

f:id:odekakeiku:20200124133122j:plain1940年、昭和15年に操業を開始し、1ヶ月に50,000トン以上の鉱石を処理する能力を備え規模、抽出量ともに「東洋一」を誇ったそうです。

 

f:id:odekakeiku:20200124133129j:plainむき出しのままのコンクリートの基礎

 

f:id:odekakeiku:20200124133133j:plainスタジオジブリの「天空の城のラピュタのようだ」と聞いてやって来ましたが、個人的にはラピュタに出てくるバズーの故郷、炭鉱の渓谷「スラッグ渓谷」に近いかなと感じました。

 もしここに運搬用の鉄道の線路があったら、まさにここは「スラッグ渓谷」。

 

f:id:odekakeiku:20200124133138j:plain

 ラピュタの荘厳なイメージよりも、同じ鉱石を扱う労働現場の、労働者が働いていた雰囲気のような気配を感じたから。当時、選鉱場内では女性も働いていたそうです。

夜はライトアップもされるそうで、それを見たらまた違う印象を持つのでしょう。

シックナー

f:id:odekakeiku:20200124133143j:plain昭和15年(1940年)に完成した、シックナーと呼ばれる泥鉱濃縮装置。直径は50mにもおよびます。

こっちの方が、天空の城ラピュタぽいかな。

 

発電所跡

f:id:odekakeiku:20200124133145j:plain唯一、建物の原型を留めて残っているのが、明治に完成した煉瓦造りの発電施設。

中は、往時の写真等を展示しているそうですが、行った時は入れませんでした。

 

f:id:odekakeiku:20200124133150j:plainここを訪れたのは、春のある日の夕暮れ時。

満開の桜も見下ろしていましたよ。

 

撮影機材:NikonD750 /AF-S NIKKOR 20mm f/1.8G ED / AF-S NIKKOR 300mm f/4E PF ED VR /

 

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「広島陸軍被服支廠」峠三吉「原爆詩集」にも描かれた、現存する最大規模の被爆建物。解体一部保存か、全棟保存か。

比治山から見えた赤煉瓦の倉庫

f:id:odekakeiku:20191224233114j:plain比治山から見える広島陸軍被服支廠(2019年7月)

もうずいぶん前のことだけど、広島を訪れて比治山に登った時、逆「L」字形に建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群が気になった。

後日、調べてみるとそれは「広島陸軍被服支廠跡」という大正時代から建っている歴史遺構。

これだけ大きな被爆建物が、今でも広島の市街地にひっそり建っているのが不思議に思えたし、当然、何かに利用されているものとずっと思っていた。

 

広島陸軍被服支廠

f:id:odekakeiku:20191224233126j:plain2019年7月、広島原爆関連の調べ物をするために広島市内を訪れた時に、その「広島陸軍被服支廠」別名「出汐倉庫」を訪ねてみることにした。

住宅街の中に、原爆投下から70数年が経った今もひっそりと建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群。

 

f:id:odekakeiku:20191224233137j:plain「陸軍被服支廠」と言う名前の通り、旧陸軍の軍服を生産、管理する施設として使用されていた。

明治38年(1905年)に陸軍被服廠広島派出所が、宇品線(かつて存在した広島駅〜宇品までを結ぶ鉄道路線)の沿線に設置される。

 

ちなみに当時の陸軍被服本廠は、東京本所にあった。1919年に王子区赤羽台に移転、その後に発生した関東大震災で、多くの住民が本所被服廠跡に避難したが火災旋風が起きて4万人が犠牲となったあの場所(現在は東京都慰霊堂のある横網町公園)。

 

話を元に戻します。

明治40年(1907年)に陸軍被服廠広島派出所は、支廠に昇格し規模を大きくしていきます。

 

 

f:id:odekakeiku:20191224233154j:plain

煉瓦造りに見えるが、本体は鉄筋コンクリートで建設されており外壁に煉瓦を積み上げ耐火、耐震構造を兼ねている。

初期の鉄筋コンクリートと煉瓦を併用した珍しく貴重な構造だそうだ。

 

昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、投下直後は臨時の救護所としても使用された。

戦後は、大学の寮や日本通運の倉庫などにも使用されてきたが、現在は使用されていない。

 

f:id:odekakeiku:20191224233216j:plain赤煉瓦の壁が今もなお当時の面影を残して建ち並ぶ光景は、迫力があり感慨深いものがある。

これほど大きな被爆建物は残っていない。

 

原爆の傷跡

f:id:odekakeiku:20191224233256j:plain歩いていてすぐ気がついたが、西側の鉄板の窓が内側に食い込む様に変形している物がある。

 

f:id:odekakeiku:20191224233305j:plain爆心地から2,670m。

それだけ離れていても、鉄板を容易に変形させるほどの爆風だったのだ。

原爆は「熱線」「放射能」と、凄まじい「爆風」を発生させる。
この「爆風」の破壊力は想像を絶するものだった。

ここに来て改めて「爆風」の恐ろしさもリアルに感じ取ることができた。

 

峠三吉「原爆詩集」より

 自分は、この陸軍被服支廠を訪れる前、

「ちちをかえせ ははをかえせ」

の序文で始まる峠三吉の「原爆詩集」を読み返してきた。

f:id:odekakeiku:20191224233326j:plain

その日

いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。

高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。

そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向きむきに横たわっている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(冒頭)

 

f:id:odekakeiku:20191224233452j:plain

(中略)多くの少女は叫びつかれうらめしげに声を落とし、その子もやがて柱のかげに崩れ折れる。

灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれていく。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

 

f:id:odekakeiku:20191224233506j:plain

八日め

がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、今日も外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。

柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、

無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。

K夫人も死んだ。

ー収容者なし。死亡者誰々ー

門前に張り出された紙片に墨汁が乾き

むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

解体一部保存か、全棟保存か

f:id:odekakeiku:20191225012144j:plain現存する4棟が建ったのは、1912年ごろ。築100年以上が経過し、維持管理が難しくなってきているとのこと。


f:id:odekakeiku:20191224233421j:plain

震度6程度の地震でも、倒壊の恐れがあるらしい。

2019年12月、広島県は現存する4棟のうち3棟を解体し、残る1棟を改修し保存する方針を示した。

それに対し、貴重な被爆建物を全棟保存しようと言う呼びかけも起きている。

 

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現存する、これだけ大きなスケールの被爆建物はない。

実際に行って歩いて見て、五感で感じるものは大きい。

今なお語りかけてくる歴史の証言者だ。

広島の原爆関連施設ではマイナーなスポットだけど、きっと何か感じるものはあると思う。

ぜひ、一度訪れて見て感じてほしい遺構です。 

 

www.change.org

全棟保存を求める webでの署名活動も行われています。

 

【2019年7月撮影 広島市南区出汐「旧陸軍被服支廠」、比治山】 

 

原爆詩集 (岩波文庫)

原爆詩集 (岩波文庫)

  • 作者:峠 三吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2016/07/16
  • メディア: 文庫
 

 

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