夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

人間魚雷「回天」の島。大津島を訪ねて。山口県周南市

 

人間魚雷「回天」。

その存在を初めて知ったのは、小学校の時に見たテレビ番組だったと思う。

魚雷に乗り込み敵艦に体当たりするという無謀な戦法に、小学生の自分は凄まじい衝撃を感じた。

戦闘機で突っ込む神風特攻隊の方がまだマシだ。

そんな事を思ったりした。

 

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以来30年あまり、一度は訪れたいと思い続けた山口県大津島の回天訓練基地へ、数年前に訪れた。これはその時の記録です。

当時、個人的に「回天」の資料を読み込んでいたのもあってか、回天の地をめぐって帰ってきても、誰にも話す気にもなれず、ブログにあげるのも正直重く、、、気づけば数年が経ちました。

自分は30代ですが、先日ふと話した人間魚雷「回天」について、同世代の人の中には「回天」について全く知らない人が意外と多くいて、少しそのことにも衝撃を受けたので、戦後75年目の終戦の日に、少し上げてみようと思い立ちました。

 

回天の島 大津島へ

f:id:odekakeiku:20200815071448j:plain始発の羽田発広島行きの飛行機へ乗り込み、広島空港から広島駅までバス、広島駅から新幹線で徳山へ。

ANAの羽田→岩国便を利用しなかったのは、早朝の便が当時はまだ無かったからだったかな。

 

f:id:odekakeiku:20200815071452j:plain新幹線内から徳山の工業地帯。社会でやった山口県の宇部から岡山にかけて広がる、まさに「瀬戸内工業地域」。この工業地域の発展は、多くは戦後になってからのもの。

 

f:id:odekakeiku:20200815071523j:plain広島から新幹線こだまで30分弱「徳山」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20200815071459j:plain駅構内には、徳山の主要産業である工業製品が陳列されていました。

 

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駅のお土産コーナーの「回天」グッズ。

訪れる前に「回天」に関する資料を読み込んできたせいか、こいうのに違和感を当時は感じていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071504j:plain大津島行きのフェリーは、徳山駅から歩いてすぐ。

フェリー乗り場には、平成18年公開の映画「出口のない海」の撮影で使われた実物大「回天」模型が置かれていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071540j:plain徳山→馬島まで、当時710円(2020年現在720円)。徳山10時40分発。

 

f:id:odekakeiku:20200815071543j:plain徳山を出て40分ほどの船旅で「馬島」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20200815071549j:plain港近くに、「回天供養」の観音様が立っておられました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071557j:plain回天記念館までは、なだらかな坂道を登って行きます。

初めてきた場所なのに、なんとなく懐かしいような感じ。

 

回天記念館

f:id:odekakeiku:20200815071628j:plain港から約10分ほどで、回天記念館に到着。回天で亡くなった搭乗員の名前と出身地が刻まれた石碑が、記念館入口まで並びます。

 

 

f:id:odekakeiku:20200815071729j:plain回天を創案し、自らも出撃して戦死した仁科関夫少佐の遺品。

 

f:id:odekakeiku:20200815071749j:plain回天上部ハッチ。戦後、海底から引き上げられたものだそうです。見ていて、ただただ重い。。。

 

f:id:odekakeiku:20200815071703j:plain再現された、回天内部。人一人座れるのがやっと。当時としてはハイテク兵器だが、あまりにも簡素。これが、自分の棺になると思って乗り込む覚悟は如何に。

 

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「浮きつ島鼓海を訪ふ」 森繁久弥

天を回せよ

今は嗚呼

鼓海の波は静かなり

その勲しの

あとや 哀し

大津島に鎮もれる

魂々よ

静かに思ふ

人生に無駄なものが

あらふか

眠れ友よ いかにも

碧き 海に

平成五年五月二十二日作

 

発射試験場跡へ通じるトンネル

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現存する建物でモニュメント的な存在になっている、回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)は、トンネルを抜けた先にある。

 

f:id:odekakeiku:20200815071902j:plain当時はレールが敷かれており、トロッコを使いトンネルを抜けて回天は運ばれていた。入り口の幅は3.5m。高さ4m。長さ247m。

 

f:id:odekakeiku:20200815071910j:plain搭乗員もまた、このトンネルを通って訓練場へ向かったかと思うと感慨深い。

 

f:id:odekakeiku:20200815071853j:plainトンネルの途中に、海へと開いた横道。空襲時指揮所(通信所)と説明があった。

回天搭乗員の全体の戦死者は106名だが、離島のこの基地への空襲もあり、搭乗員の中には空襲時に被弾して亡くなった搭乗員も2名含まれている。

 

f:id:odekakeiku:20200815071852j:plain途中から、トンネルの横幅が広くなっている。この辺りは、複線で広くしていたようです。

 

f:id:odekakeiku:20200815071909j:plain当時を回想する大きな写真の展示。

実際に使用されていたトンネルの中で解説を読むのも、どこか重く感じられた。

 

f:id:odekakeiku:20200815071931j:plain回天の乗組員たちは、どんな思いでこのトンネルを抜けて、訓練に向かったのだろう。

 

 

回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)

f:id:odekakeiku:20200815092133j:plain現在、回天訓練基地跡としてシンボル的な存在になっているこの場所は、もともとは昭和14年(1939年)に建設された「九三式酸素魚雷」の発射試験場だった。

 

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魚雷は、雷跡を引く。当時の魚雷は、発射されたら方向転換はできないので、撃たれた側は雷跡を見ながら魚雷を避けることができた。

しかし、日本海軍の開発した酸素魚雷は、排気ガスが炭酸ガスのため海水によく溶けて雷跡をほぼ残さない。魚雷が発射されても、どこを通ってくるかわかりにくいため避けることが難しくなる。

さらに酸素式魚雷は、ステレス性が高いだけでなく、威力が強く航続距離も長かった。

 

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酸素魚雷は特殊な構造のため開発は困難を極めたが、日本海軍がいち早く実用化に漕ぎ着けた。

その酸素式魚雷の発射試験場が、ここ大津島だったのである。

 

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昭和19年9月5日からは、この施設を利用して、回天の発射訓練が行われるようになった。その回転も「九三式酸素魚雷」をベースに改良し人が乗れるようにしたもの。

日本海軍が世界に先駆けて開発した、酸素魚雷に、人間が乗り込む必死必殺の兵器になる。

そこまで戦局が悪化し「回天」という人道的に問題のある兵器を作らねばならない段階にまで至っていたことなど、改めてこの地を踏んで、いろいろな思いが浮かんできた。

 

 

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