一本の鉛筆の歌碑
最近再開発された広島駅新幹線口の広島テレビの入るビルの1階
そこに、美空ひばりの「一本の鉛筆」のモニュメントがある。
「一本の鉛筆 作詞松山善三 作曲佐藤勝」
「あなたに聞いてもらいたい・・・」
で、始まる「一本の鉛筆」
美空ひばりが歌った数多くの曲の中では、あまり目立たない曲だが、美空ひばり自身この曲をとても気に入っており、自身の持ち歌ベスト10の中の1曲として大切に歌っていたという。
広島平和音楽祭と「一本の鉛筆」
「一本の鉛筆」は1974年第1回広島平和音楽祭で発表された。
広島平和音楽祭は、古賀政男が実行委員長となり1974年に第1回がはじまり、第20回まで続いた。古賀政男の要望もあってか第1回に美空ひばりが登場。
美空ひばりはトリをつとめ、一曲目の「ひとすじの道」を歌い終えた後
「一本の鉛筆」を歌う直前、ふと、こう語り出した。
昭和12年5月29日生まれ。本名、加藤和枝。
私は横浜で生まれました。
戦時中、幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません。
みなさまの中には尊い肉親を失い、そして愛する人を失い、その悲しさを乗り越えて、今日まで強く生きて来られた方がたくさんいらっしゃることでしょう。
今日の私の歌が、みなさまの心の少しでもなぐさめになりましたら幸せだと思います。
これから二度と、あのような恐ろしい戦争が起こらないようみなさまとご一緒に祈ろうと思います。
茨の道が続こうと、平和のために我歌う。
この広島平和音楽祭を記念して、新しい歌が生まれました。ご紹介いたします。
これは、私にとりましてこれから永久に残る大切な歌でございます。
美空ひばりと戦争
発表当時の動画を、一部見ることができる。
発表当時、美空ひばりの周辺では問題が多々あり、美空ひばり自身大変な時期だった。「茨の道が続こうと」という一言は、それらのことを言っていると言う人もいるけど、それだけではないように思う。
なぜ冒頭で急に、美空ひばりは自分の生年月日と本名を名乗ったのか。
1945年5月29日、美空ひばり本名「加藤和枝」は8歳の誕生日を迎える。ちょうどこの日、横浜大空襲があった。
のちに「三人娘」と言われる江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばりが、それぞれ「いま何がほしいか」というインタビューに別々に答えいてる。
江利チエミは「相手が何を考えているか見抜ける力が欲しい」と答え、
雪村いずみは「天女の羽衣のようなものがほしい」と答えていたが、
美空ひばりは「この世界から戦争がなくなってほしい」と答えていたという。
美空ひばり自身、戦争に対する思いは終世思い続けていたようで、あまり公にはしていなかったが、世界中の戦火にあった人々へ色々と援助もしていたらしい。
1974年8月9日に開催された、第一回広島平和音楽祭会場の体育館では、現在のように控え室には冷房がなく、ただ氷柱だけが用意されているだけだった。
控え室が大変暑いことを周囲の人々が気にかけ、もっと涼しいところへと促すと
ひばりは「広島の人たちは、もっと暑かったのよね」とつぶやき、その場を動かなかったという。
それから14年後の1988年の第15回広島平和音楽祭にも、美空ひばりは再び出場する。
この時、ひばりの体は病魔に冒され、控え室にはベットが用意され、出番がくるまで点滴を打って待つほどだった。
そして出番が来ると、病気を感じさせない立ち振る舞いで「一本の鉛筆」を熱唱。
歌い終わったあと
「来てよかった」
と言って会場を去ったという。翌年、ひばりは52歳でこの世を去った。
「一本の鉛筆」は広島の原爆を歌った歌だが、歌詞の中に一度も「広島」や「原爆」というような単語は出てこない。
広島の原爆の歌だとわかるのは「一本の鉛筆があれば八月六日の朝と書く」というフレーズだけ。
自身の体験や心情は積極的には語らなかったが、平和への願いは常に持ち続けていた美空ひばりらしい歌だと思う。
他にも、美空ひばりは「八月五日の夜だった」「白い勲章」という反戦歌も歌っていますよ。