今日、2月24日は、江戸の三美人の一人「笠森お仙(かさもりおせん)」の忌日。
江戸の三美人(明和の三美人)の中でも、特に人気のあったお仙さん。
その笠森お仙にまつわる場所が、台東区谷中界隈に三ヶ所あります。
以前から、谷中散策をしていて、この三ヶ所の「お仙」スポットの違いが気になって仕方なかったので、ちょっと調べてみました。
笠森お仙

まずは、「笠森お仙」について。
「笠森お仙」こと「お仙」さんは、宝暦元年〜文政十年(1751〜1827)江戸時代後期、当時を代表する絶世の美女と言われた実在する人物。
江戸谷中の笠森稲荷境内にあった水茶屋「鍵屋」の鍵屋五兵衛の娘で、鍵屋の看板娘として「鍵屋」を支えていたようです。
かねてより美人との噂があり、絵師の鈴木春信は「お仙」を錦絵で描いたところ、その錦絵は大評判となり、お仙さん見たさに水茶屋「鍵屋」には多くの人で溢れかえったとのこと。
笠森お仙は、錦絵、絵草紙、芝居のモデルになっただけでなく、手拭いや人形などのお仙グッズも販売されるほどだったようです。
「大圓寺」の笠森おせん鈴木春信と永井荷風の碑

東京メトロ千代田線の「千駄木駅」から三崎坂を上って行った途中に「大圓寺」(大円寺)というお寺があります。
入り口にも「お仙」の案内看板があり、三崎坂も谷中散策ではよく通る道なので、他の「お仙」スポットよりも目にとまりやすいです。
境内には、「錦絵開祖鈴木春信の碑」↑と、
永井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っています。
永井荷風は、笠森お仙をモデルにした小説「恋衣花笠森」を執筆しています。
二つの碑は共に大正8年建立。「お仙に関連の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に」立てられたと、台東区教育委員会の案内板にありました。
大圓寺は、絵師鈴木春信、永井荷風とビッグネームも登場し、笠森お仙スポットの第一の感があります。
「功徳林寺」
続いて、谷中の人気スポット「朝倉彫塑館」から、250mほど南に行ったところにある浄土宗功徳林寺。
こちらのお寺の入り口にも、お仙ゆかりの寺として案内板が設置されています。
「当時大評判になった、その笠森稲荷堂が境内にあります。ご自由にご参拝ください。」とあるので境内に入ってみると

ちょっと真新しい感じの、お稲荷さんがありました。
ふむふむ、ここが、お仙さんの笠森稲荷なんですねー。
と、思っていたら・・・↓
上野桜木「養寿院」

谷中から言問通りに出て、鶯谷方面へ行くと「おせん」と書かれた看板の、まさに茶屋風な建物があります。
以前から、この「おせん」の看板が気になっていたのですが・・・。
ある日、この上野桜木界隈を散策している時に、その「おせん」と書かれた看板の茶屋風の建物(廃業されてるようです)の、向かいに養寿院という小さな寺院があり

小さいながらも大変良い雰囲気を感じて、お参りさせていただくことにしました。
正面の本堂でお参りを済ませて、帰ろうと振り返ると・・・
門の横に、、、んんん??
笠森稲荷?
あれまぁ。。ここにも笠森稲荷がありました。。。
いったいどれが、本当の笠森お仙の笠森稲荷?
少し整理すると

1.お仙に関連深い笠森稲荷を合祀されていると案内板に書かれている谷中「大圓寺」。鈴木春信と永井荷風のお仙の石碑有り。
2.谷中のお仙ゆかりの寺と称する「功徳林寺」の笠森稲荷堂。

3. そして、言問通りの上野桜木にある養寿院の笠森稲荷。
いったいどれが、本当のお仙の「笠森稲荷」なのでしょうか?
ガイドブックなど色々と調べてみましたが、あまり詳細に記載されている本が見つからず・・・。
台東区史
そこでこのサイトでは何度かお世話になっている困った時の「台東区史」を紐解いてみることに。以前、台東区史を読んでいた時に「笠森お仙」の記載があったような。

台東区史4冊ある中の、通史編IIに「笠森お仙」についての記述がやはりあり、なんとそこに、この三ヶ所の笠森お仙にまつわる由来について記載されてありました。
以下、台東区史を引用しながら見ていきます。
お仙のいた鍵屋という水茶屋は現在の位置でいうと功徳林寺(谷中七ー六ー九)の笠森稲荷の門前にあった。
台東区史II P50
少しややこしいですが、 お仙さんのいた水茶屋「鍵屋」は現在の功徳林寺にあったそうです。
台東区史を読み進めます。
三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信碑」がある。また、永井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。
台東区史II P50
台東区史を読んで少し驚きましたが、区史によると、大圓寺には鈴木春信と永井荷風の石碑がありますが、こちらの稲荷は、よく笠森稲荷と混同されたお稲荷さんだったそうです。
区史をさらに読み進めます。
つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。
明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。
さきの功徳林寺は、明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代とものとは違う。
台東区史II P50
台東区史によると、お仙さんのいた鍵屋の笠森稲荷は、3番目の言問通り沿いにある養寿院の笠森稲荷こそが、それであると結論づけています。
しかし、どれが本物、偽物なんて、恐れ多すぎて凡人の私どもには選別できかねます。
区史で「お仙の時代のものとは違う」と書かれた功徳林寺の笠森稲荷も、区史が認めるように、史実ではお仙さんのいた水茶屋「鍵屋」があった場所であり、
よく混同されたという大圓寺のお稲荷さんも、鈴木春信、永井荷風のお仙さんの石碑が建ち、江戸から明治大正と多くの人がそれぞれに「お仙さん」思いを馳せた場所だったのかもしれません。
ちなみに、笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」の看板娘お仙さんは、明和七年二月に突如、姿を消します。
「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という詞がその頃はやったようで、お仙を「茶釜」に喩えて、突然いなくなったお仙を江戸の人々は惜しんだとのこと。
実はお仙はこっそりと、八代将軍徳川吉宗が創始した「御庭番」を務める旗本、倉地政之助に嫁いでいたそうです。九人の子宝にも恵まれ、七十七歳まで生き天寿を全うしたそうです。
〜向こう横丁のお稲荷さんへ
一銭あげて ざっと拝んで お仙の茶屋へ〜
童唄




「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」草城
先日、久しぶりに日野草城の句集を、図書館で見つけて借りて読んでいたので、今回は草城の句を、ちょこっとご紹介したいと思います。




1940年、昭和15年に操業を開始し、1ヶ月に50,000トン以上の鉱石を処理する能力を備え規模、抽出量ともに「東洋一」を誇ったそうです。
むき出しのままのコンクリートの基礎
スタジオジブリの「天空の城のラピュタのようだ」と聞いてやって来ましたが、個人的にはラピュタに出てくるバズーの故郷、炭鉱の渓谷「スラッグ渓谷」に近いかなと感じました。
昭和15年(1940年)に完成した、シックナーと呼ばれる泥鉱濃縮装置。直径は50mにもおよびます。
唯一、建物の原型を留めて残っているのが、明治に完成した煉瓦造りの発電施設。
ここを訪れたのは、春のある日の夕暮れ時。

比治山から見える広島陸軍被服支廠(2019年7月)
2019年7月、広島原爆関連の調べ物をするために広島市内を訪れた時に、その「広島陸軍被服支廠」別名「出汐倉庫」を訪ねてみることにした。
「陸軍被服支廠」と言う名前の通り、旧陸軍の軍服を生産、管理する施設として使用されていた。
赤煉瓦の壁が今もなお当時の面影を残して建ち並ぶ光景は、迫力があり感慨深いものがある。
歩いていてすぐ気がついたが、西側の鉄板の窓が内側に食い込む様に変形している物がある。
爆心地から2,670m。


現存する4棟が建ったのは、1912年ごろ。築100年以上が経過し、維持管理が難しくなってきているとのこと。













昔から主流は、和服女性や歌舞伎の題材をとった押絵の羽子板が中心だけど、最近ではその年に流行ったものの羽子板も多くあります。
今年(2019年)で、放送50周年を迎えた「サザエさん」

東京藝術大学デザイン科の学生の作品と、羽子板職人のコラボレーションした羽子板。
こちらも販売しているのもあります。
お絵かき羽子板も作れます。
こちらは、手形スタンプ羽子板。


