夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

どれが本当のお仙の笠森稲荷?。谷中界隈に三ヶ所ある江戸三美人の一人「笠森お仙」に関連する場所。

今日、2月24日は、江戸の三美人の一人「笠森お仙(かさもりおせん)」の忌日。

江戸の三美人(明和の三美人)の中でも、特に人気のあったお仙さん。

その笠森お仙にまつわる場所が、台東区谷中界隈に三ヶ所あります。

以前から、谷中散策をしていて、この三ヶ所の「お仙」スポットの違いが気になって仕方なかったので、ちょっと調べてみました。

笠森お仙

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まずは、「笠森お仙」について。

「笠森お仙」こと「お仙」さんは、宝暦元年〜文政十年(1751〜1827)江戸時代後期、当時を代表する絶世の美女と言われた実在する人物。

江戸谷中笠森稲荷境内にあった水茶屋「鍵屋」の鍵屋五兵衛の娘で、鍵屋の看板娘として「鍵屋」を支えていたようです。

かねてより美人との噂があり、絵師の鈴木春信は「お仙」を錦絵で描いたところ、その錦絵は大評判となり、お仙さん見たさに水茶屋「鍵屋」には多くの人で溢れかえったとのこと。

笠森お仙は、錦絵、絵草紙、芝居のモデルになっただけでなく、手拭いや人形などのお仙グッズも販売されるほどだったようです。

 

「大圓寺」の笠森おせん鈴木春信と永井荷風の碑

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東京メトロ千代田線の「千駄木駅」から三崎坂を上って行った途中に「大圓寺」(大円寺)というお寺があります。

入り口にも「お仙」の案内看板があり、三崎坂も谷中散策ではよく通る道なので、他の「お仙」スポットよりも目にとまりやすいです。

 

f:id:odekakeiku:20200224221034j:plain境内には、「錦絵開祖鈴木春信の碑」↑と、

 

f:id:odekakeiku:20200224221026j:plain永井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っています。

 

f:id:odekakeiku:20200315170136j:plain永井荷風は、笠森お仙をモデルにした小説「恋衣花笠森」を執筆しています。

二つの碑は共に大正8年建立。「お仙に関連の深い笠森稲荷を合祀している大円寺に」立てられたと、台東区教育委員会の案内板にありました。

大圓寺は、絵師鈴木春信、永井荷風とビッグネームも登場し、笠森お仙スポットの第一の感があります。

 

「功徳林寺」

f:id:odekakeiku:20200224220304j:plain続いて、谷中の人気スポット「朝倉彫塑館」から、250mほど南に行ったところにある浄土宗功徳林寺。

 

f:id:odekakeiku:20200224220319j:plainこちらのお寺の入り口にも、お仙ゆかりの寺として案内板が設置されています。

「当時大評判になった、その笠森稲荷堂が境内にあります。ご自由にご参拝ください。」とあるので境内に入ってみると

 

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ちょっと真新しい感じの、お稲荷さんがありました。 

ふむふむ、ここが、お仙さんの笠森稲荷なんですねー。

と、思っていたら・・・↓

 

上野桜木「養寿院」

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谷中から言問通りに出て、鶯谷方面へ行くと「おせん」と書かれた看板の、まさに茶屋風な建物があります。

以前から、この「おせん」の看板が気になっていたのですが・・・。

ある日、この上野桜木界隈を散策している時に、その「おせん」と書かれた看板の茶屋風の建物(廃業されてるようです)の、向かいに養寿院という小さな寺院があり

 

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小さいながらも大変良い雰囲気を感じて、お参りさせていただくことにしました。

正面の本堂でお参りを済ませて、帰ろうと振り返ると・・・

 

f:id:odekakeiku:20200224230223j:plain門の横に、、、んんん??

笠森稲荷?

 あれまぁ。。ここにも笠森稲荷がありました。。。

 

いったいどれが、本当の笠森お仙の笠森稲荷?

少し整理すると

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1.お仙に関連深い笠森稲荷を合祀されていると案内板に書かれている谷中「大圓寺」。鈴木春信と永井荷風のお仙の石碑有り。

 

f:id:odekakeiku:20200224220313j:plain2.谷中のお仙ゆかりの寺と称する「功徳林寺」の笠森稲荷堂。

 

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3. そして、言問通りの上野桜木にある養寿院の笠森稲荷。

 

いったいどれが、本当のお仙の「笠森稲荷」なのでしょうか?

ガイドブックなど色々と調べてみましたが、あまり詳細に記載されている本が見つからず・・・。

 

台東区史

そこでこのサイトでは何度かお世話になっている困った時の「台東区史」を紐解いてみることに。以前、台東区史を読んでいた時に「笠森お仙」の記載があったような。

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台東区史4冊ある中の、通史編IIに「笠森お仙」についての記述がやはりあり、なんとそこに、この三ヶ所の笠森お仙にまつわる由来について記載されてありました。

以下、台東区史を引用しながら見ていきます。

 

お仙のいた鍵屋という水茶屋は現在の位置でいうと功徳林寺(谷中七ー六ー九)の笠森稲荷の門前にあった。

台東区史II P50

少しややこしいですが、 お仙さんのいた水茶屋「鍵屋」現在の功徳林寺にあったそうです。

台東区史を読み進めます。

三崎坂の中程に大圓寺がある。ここには「錦絵開祖鈴木春信碑」がある。また、永井荷風の碑文で「笠森阿仙乃碑」が建っている。大圓寺には享和年間に小石川白山から移した瘡守稲荷があり、よく笠森稲荷と混同された。

台東区史II P50

 台東区史を読んで少し驚きましたが、区史によると、大圓寺には鈴木春信と永井荷風の石碑がありますが、こちらの稲荷は、よく笠森稲荷と混同されたお稲荷さんだったそうです。

区史をさらに読み進めます。

つぎは上野桜木一丁目の養寿院の笠森稲荷である。この稲荷は明治三年、天王寺中門前町から移したもので、これがお仙の茶屋のあった稲荷である。

明治の初めに天王寺は縮小され、子院であり稲荷の別当にあたる福泉院が取り潰しにあったので、笠森稲荷を引き継いだのが養寿院であった。

さきの功徳林寺は、明治十六年の創建で、現在の笠森稲荷はその後の勧請であるから、お仙の時代とものとは違う。

台東区史II P50 

 台東区史によると、お仙さんのいた鍵屋の笠森稲荷は、3番目の言問通り沿いにある養寿院の笠森稲荷こそが、それであると結論づけています。

しかし、どれが本物、偽物なんて、恐れ多すぎて凡人の私どもには選別できかねます。

区史で「お仙の時代のものとは違う」と書かれた功徳林寺の笠森稲荷も、区史が認めるように、史実ではお仙さんのいた水茶屋「鍵屋」があった場所であり、

よく混同されたという大圓寺のお稲荷さんも、鈴木春信、永井荷風のお仙さんの石碑が建ち、江戸から明治大正と多くの人がそれぞれに「お仙さん」思いを馳せた場所だったのかもしれません。

 

 ちなみに、笠森稲荷の水茶屋「鍵屋」の看板娘お仙さんは、明和七年二月に突如、姿を消します。

「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という詞がその頃はやったようで、お仙を「茶釜」に喩えて、突然いなくなったお仙を江戸の人々は惜しんだとのこと。

実はお仙はこっそりと、八代将軍徳川吉宗が創始した「御庭番」を務める旗本、倉地政之助に嫁いでいたそうです。九人の子宝にも恵まれ、七十七歳まで生き天寿を全うしたそうです。

 

〜向こう横丁のお稲荷さんへ

一銭あげて ざっと拝んで お仙の茶屋へ〜

童唄

 

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2月15日は西行忌「願わくば花の下にて春死なむ・・・」。そんなにダメな歌?「嘆けとて月やは物を思はする・・・」百人一首86番

今日、2月15日は「西行忌」

願わくは花の下にて春死なん・・・

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史実に残る実際の西行の忌日は、旧暦の文治6年2月16日。

西行の残した有名な歌の一つに

「願わくは 花の下にて 春死なん  その如月の望月のころ」

できることなら、春、桜の下にて死にたい。二月のお釈迦様が亡くなった、あの満月のころに。

という歌から、実際の忌日より1日早い、お釈迦様の入滅した日「涅槃会」である2月15日にあわせて、西行法師の忌日としている。

旧暦の2月15日は、新暦の3月中旬〜下旬。実際に桜の花が咲く頃。

権力や欲に貪る生臭坊主ならいざ知らず、西行ともあろう孤高の僧侶が「できることなら桜の下で死にたい」というのは、少し俗な感じがして違和感を感じるが、「二月のお釈迦様亡くなった満月の頃に」という下の句で、その上の句の俗な感じが薄らぐというより、全体的に深みが出てくるように思う。

この歌は、上の句を「俗」、下の句を「仏」とすることで、一見「俗」な願いであり、また「聖」な願いでもある、西行らしいと言えば西行らしい調和の取れた歌に仕上がっているように勝手に思うのです。

 

西行は、若き頃のゴータマと同じく、苦悩する若者だったのかもしれない。

天皇を直接守る武家の家に生まれ、家柄もよく、その当時として生まれながらにして恵まれて育った。

しかし、結婚をして2人の子供ができ、4つになる娘を溺愛する日々を過ごしていた23歳の時、何を思ったか、妻とその子らを残し、恵まれた地位も捨てて突如出家する。

出家時、泣きすがってきたきた溺愛の娘を、蹴飛ばして突き放し家を出たという。

それからの西行は、ご存知の通り日本各地を放浪し多くの歌を残した。

 

嘆けとて月やは物を思はする・・・(小倉百人一首86)

西行は「月」を題材にした歌を多く残している

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「嘆けとて 月やは物を思はする かこち顔なる 我が涙かな 西行法師」

嘆きなさいと言って、月が私を物思いにさせるわけではないのに、月のせいだと言わんばかりの顔をして、流れ出る私の涙よ

 

百人一首にも入っている歌(86番)として知られ、自分も中学時代、百人一首を覚えた時、なんとなく心情が理解できるようで、百人一首の中でも好きな歌の1つだった。

 

しかし、後に自分が大人になって百人一首関連の本を読んでいくなかで、この歌は一部の著名な文化人からは、すこぶる評判が悪いことを知った。

 

西行は他にもいい歌があるのに・・・

なんでこんな歌を定家が百人一首に選んだのか理解できない・・・云々。

 

 田辺聖子もこの歌に対して悪評を立てる文化人の一人で、著書「田辺聖子の百人一首」の中で

この歌も、西行の歌としておよそ魅力のない歌で、古来からいぶかしがられている。

(中略)

この「かこち顔」の歌は若い時の歌らしいが、どこがいいのか、現代人にはわからない。老いた定家の心にひびく何かがあったのかもしれないが、百人一首に折々ある「なんでこんな歌が」の一つである。

仕方がないから文法のおさらいでもしましょう。

「田辺聖子の小倉百人一首」角川文庫

 

と、原稿の文字を埋めるためか、この歌の内容如何よりも文法のおさらいに入ってしまうご始末。。。 

 

月は、ありのままの月のままであって、それを勝手にどう捉えるかは、その月を見た人間次第。

だけれども、そんなことはわかっているのだけれども、月のせいだと言わんばかりの顔をして、月のせいにしてしまいたいほどに、涙が自然と溢れ出てくるんだよ。

この歌は、仏門に入る前の西行の若い頃の作品だというのも魅力的で、「月」はありのままの「月」なんだ、「月」でしかないんだと言う「客観」と、でも「かこち顔」して涙が自然と出てくると言う「主観」とをうまく掛け合わせていて、感情を交えず正しく見る=仏教で言う「正見」に気づいているようで、そこに重きを置いている作風も若いとはいえ凄いなーと、凡夫の私は思ふのです。

そんなにダメでしょうか?この歌。

 

西行全歌集 (岩波文庫)

西行全歌集 (岩波文庫)

  • 作者:西行
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2013/12/18
  • メディア: 文庫
 
田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

田辺聖子の小倉百人一首 (角川文庫)

  • 作者:田辺 聖子
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1991/12/06
  • メディア: 文庫
 

 

 

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1月29日は「草城忌」 食欲をそそられる日野草城の食の俳句と、百人一首と

f:id:odekakeiku:20200129143332j:plain「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」草城

 

1月29日は「草城忌」

今日、1月29日は「草城忌」

 昭和初期の俳壇に新しい風を吹き込んだ俳人、日野草城(ひのそうじょう)の忌日。

 

f:id:odekakeiku:20200129161029j:plain 先日、久しぶりに日野草城の句集を、図書館で見つけて借りて読んでいたので、今回は草城の句を、ちょこっとご紹介したいと思います。

日野草城の俳句との出会いは、学生時代によく通っていた図書館にて。

何気なく手にとった草城の句集でしたが、草城の句は日常の光景を柔らかくユーモラスな表現を含んでいて、当時まだ10代の自分にもわかり易く親しみやすい作風に、いつしか(受験勉強そっちのけで)引き込まれて読んでいました。

中でも食べ物に対する描写は、情景をありありと連想させ、当時10代のいつでも空腹だった自分には、読むたびに食欲をそそられるものがありました。

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「きのこ飯 ほこほことして 盛られたる」草城 花氷(秋)

 

日野草城

まずは、簡単に草城について。

日野草城 明治34年(1901年)7月18日〜昭和31年(1956年)1月29日

本名は、克修(よしのぶ)。

東京 上野の生まれで、俳句を嗜む父の影響もあって中学時代から「ホトトギス」に投句。

京都大学法学部を卒業した後、大阪海上火災保険に入社し出世コースを歩むも、戦後、病気のため退社。

昭和10年(1935年)に発表した「ミヤコホテル」は、それまでの俳句にない大胆な色気を伴う表現で、室生犀星(絶賛)vs中村草田男(批判)らによる「ミヤコホテル論争」と言われるほどの論争にまで発展。

新興俳句の先駆けとして様々な句を発表し続け、昭和11年には 高浜虚子の怒りに触れて「ホトトギス」を除名処分。

晩年は、病気、貧困、住むところにも苦労しつつも、妻に支えられながら創作活動を続ける。

草城が亡くなる前年、虚子が見舞いに訪れ、再び草城は「ホトトギス」に迎えられる。

昭和31年に亡くなるまで「花氷」「旦暮」「昨日の花」「人生の午後」など多くの句集を発表。

 

草城と食

以下、個人的に草城の「食」についての句(一部)を集めてみました。

 

「かんばしく 珈琲たぎる 余寒かな」花氷(春)

「春の夜や 檸檬に 触るる 鼻の先」花氷(春)

「子を産んで やつりにけりな 桜餅」花氷(春)

「サイダーの うすきかおりや 夜の秋」花氷(夏) 

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「ところてん 煙のごとく 沈みをり」花氷(夏)

「うすまりし 醤油すずしく 冷奴」花氷(夏)

「夏みかん ざくりざくりと むかれけり」花氷(夏)

「くちびるに 触れてつぶらや さくらんぼ」花氷(夏)

「舌に載せて さくらんぼうを 愛しけり」花氷(夏)

「きのこ飯 ほこほことして 盛られたる」花氷(秋)

「朝寒や 白粥うまき 病みあがり」花氷(秋)

「白菊や 風邪気の妹に 濃甘酒」花氷(秋)

「寂しさに 葡萄の房を 握りけり」花氷(秋)

「雪の夜の 紅茶の色を 愛おしけり」花氷(冬)

 「雨の夜の こころさぶしき ゼリーかな」昨日の花

「みづみづし セロリを噛めば 夏匂ふ」昨日の花

「七月の つめたきスウプ 澄み透り」昨日の花

 「マカロニが 舌を焦しぬ 風涼し」昨日の花

「クロイツェル・ソナタ氷片 珈琲に」転轍手(ベートーヴェンを聴く レコードコンサート一句)

「ももいろの ミリオンダラー 妻に飲ます」転轍手(愛しき消費ありがたしボーナス)

「子のグリコ 一つもらうて 炎天下」転轍手(あやめ池遊園)

 

草城と日常 

日常やサラリーマンから見た情景も当時としては斬新で注目を集めます。

「春暁や 人こそ知らね 木々の雨」花氷

「春愁を 消せとたまひし キスひとつ」花氷(春)

「夕風に へらへらと笑ふ しびとばな」花氷(秋)

死人花→彼岸花

「初雪を 見るや手を措く 妻の肩」花氷(冬)

「早寝して  夢いろいろや 冬ごもり」花氷(冬)

「風邪の子の 枕辺にゐて ものがたり」花氷(冬)

「静けさや 炭が火となる おのずから」花氷(冬)

 「扇風機 つばさが消えて 風となる」昨日の花(事務室)

「をさなごの ひとさしゆびに かかる虹」昨日の花(二尊院)

 「重ね着の 中に女の はだかあり」昨日の花

「懐に ボーナスありて 談笑す」昨日の花

「小市民 金を預けて 出て寒し」転轍手

 

戦前のサラリーマン時代の作品は、生き生きとして温かい日常の情景を描いた句が多い気がしますが、戦中の暗い時代のいわゆる戦争俳句、そして戦後の病床期はガラッと作風が変わり、どの作品も哀愁が漂います。

 

「ちちろ虫 女体の記憶 よみがへる」人生の午後

「死ぬときの 鼠の声を 聴きにけり」人生の午後

「裸婦の図を 見てをりいのち おとろへし」人生の午後

「所得税 すくなきを うらやまけり」

「すずらんの りりりりりりと 風にあり」銀 

「夏布団 ふはりとかかる 骨の上」人生の午後 

 

草城と「小倉百人一首」

 草城は学生時代、短歌にも興味をしめし「古今集」「新古今集」はじめ多くの古典を好んで読んでいたそうです。

そのせいもあってか、草城の句の中には、(なかでも)「小倉百人一首」に登場する歌を連想させたり絡ませたような、洒落やユーモアのある句も多く遺しているように思えます。

 

「千早ぶる 神代の石や 鮓(すし)の石」草城 花氷 

 『ちはやふる 神代も聞かず 竜田川 から紅に 水くくるとは』在原業平(17)

 

「酌の手を とめて千鳥が 鳴くといふ」草城 花氷(冬)

『淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いくよ寝覚めぬ 須磨の関守」源兼昌 (78)

 

「玉の緒よ 絶えねば絶えね 河豚汁(ふぐとじる)」草城 花氷(冬)

『玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする』式子内親王(89)

 

「きりぎりす 鳴かねば青さ まさりける」草城 青芝(秋)

『きりぎりす なくや霜夜の さむしろに 衣かたしき 独りかも寝む』九条良経 (91) 

 

「これやこの  珍(うづ)のバナナは そろそろ剥く」草城 人生の午後

『 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」蝉丸(10)

意味はともかく、「これやこの」を俳句に用いる感性が、病床にあっても斬新な気がします。

 

他にも、百人一首に出てくる歌の中の句を、いたるところで見かけます。

草城の遺した句の全てを鑑賞したわけではないですが、改めてざっと見ただけで、これだけあるので(実際はもっとありましたが割愛しました)草城は「小倉百人一首」が好きだったのかもと思ってしまいます。

 

また草城は、百人一首のゆかりのある、天智天皇を祀った近江神宮にも参拝し句を詠んでいます。

 「みそなはす 皐月の湖の てりくもり」草城 第五句集(近江神宮)昭和十六年

 近江神宮が創祀されたのは、草城が訪れた(もしくは句を詠んだ)前年の昭和15年。

 現在では、近江神宮と言えば「競技かるた」の「クイーン戦」「名人戦」が開催され、漫画やアニメの「ちはやふる」でも登場する神社として有名ですが、当時は、天智天皇を祀るというくらいで、現在のように百人一首と関連がある神社とも一般的に認知されていなかったようにも思えます。

 昭和初期、それまでの古い体質の俳壇に、旋風を巻き起こした草城ですが、古典の「小倉百人一首」などに登場する歌が、草城の遺した俳句のなかに見え隠れするというのも、個人的に興味深く感じます。

 

参考図書

・「日野草城句集 室生幸太郎編」 角川書店発行

・日野草城句集 昨日の花 邑書林句集文庫

・昭和俳句文学アルバム24「日野草城の世界」桂信子編著 梅里書房

 

草城句集―花氷 (京鹿子叢書)

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  • 作者:日野草城
  • 出版社/メーカー: 沖積舎
  • 発売日: 1996/09/01
  • メディア: 単行本
 

 

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まるで佐渡のラピュタ? 金の抽出量「東洋一」を誇った北沢浮遊選鉱場跡

佐渡 北沢浮遊選鉱場跡 Kitazawa Flotation Plant

 

今回は「佐渡のラピュタ」こと「北沢浮遊選鉱場跡」へ撮影に行った時の備忘録です。

  

古くは、平安時代の説話集「今昔物語」にも出てくる佐渡の金。

佐渡最大の金山、相川金山だけでも掘られた坑道は最深部海面下530メートル、坑道の総延長は約400キロメートルにもおよぶそうです

(東京〜新潟間の新幹線の距離が約334キロメートル)。

 

掘り出された金を含む鉱石(金鉱石)から、金を抽出する施設も当然必要なわけで、昭和の15年間という短い間に操業され当時「東洋一」の規模を誇った選鉱場の跡地が、今も佐渡島に残っています。

 

北沢浮遊選鉱場跡

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昭和12年、日中戦争が始まると、さらなる増産体勢が計られ大規模な選鉱場が必要になりました。そこで建設されたのが「北沢浮遊選鉱場」。

 

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金銀山で採れた鉱石を粉砕し、主に水と油、薬品からなる溶液で浮遊させ、金銀を抽出していた選鉱場。

 

佐渡のラピュタ

f:id:odekakeiku:20200124133122j:plain1940年、昭和15年に操業を開始し、1ヶ月に50,000トン以上の鉱石を処理する能力を備え規模、抽出量ともに「東洋一」を誇ったそうです。

 

f:id:odekakeiku:20200124133129j:plainむき出しのままのコンクリートの基礎

 

f:id:odekakeiku:20200124133133j:plainスタジオジブリの「天空の城のラピュタのようだ」と聞いてやって来ましたが、個人的にはラピュタに出てくるバズーの故郷、炭鉱の渓谷「スラッグ渓谷」に近いかなと感じました。

 もしここに運搬用の鉄道の線路があったら、まさにここは「スラッグ渓谷」。

 

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 ラピュタの荘厳なイメージよりも、同じ鉱石を扱う労働現場の、労働者が働いていた雰囲気のような気配を感じたから。当時、選鉱場内では女性も働いていたそうです。

夜はライトアップもされるそうで、それを見たらまた違う印象を持つのでしょう。

シックナー

f:id:odekakeiku:20200124133143j:plain昭和15年(1940年)に完成した、シックナーと呼ばれる泥鉱濃縮装置。直径は50mにもおよびます。

こっちの方が、天空の城ラピュタぽいかな。

 

発電所跡

f:id:odekakeiku:20200124133145j:plain唯一、建物の原型を留めて残っているのが、明治に完成した煉瓦造りの発電施設。

中は、往時の写真等を展示しているそうですが、行った時は入れませんでした。

 

f:id:odekakeiku:20200124133150j:plainここを訪れたのは、春のある日の夕暮れ時。

満開の桜も見下ろしていましたよ。

 

撮影機材:NikonD750 /AF-S NIKKOR 20mm f/1.8G ED / AF-S NIKKOR 300mm f/4E PF ED VR /

 

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「広島陸軍被服支廠」峠三吉「原爆詩集」にも描かれた現存する最大規模の被爆建物。解体一部保存か、全棟保存か。

比治山から見えた赤煉瓦の倉庫

f:id:odekakeiku:20191224233114j:plain比治山から見える広島陸軍被服支廠(2019年7月)

もうずいぶん前のことだけど、広島を訪れて比治山に登った時、逆「L」字形に建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群が気になった。

後日、調べてみるとそれは「広島陸軍被服支廠跡」という大正時代から建っている歴史遺構。

これだけ大きな被爆建物が、今でも広島の市街地にひっそり建っているのが不思議に思えたし、当然、何かに利用されているものとずっと思っていた。

 

広島陸軍被服支廠

f:id:odekakeiku:20191224233126j:plain2019年7月、広島原爆関連の調べ物をするために広島市内を訪れた時に、その「広島陸軍被服支廠」別名「出汐倉庫」を訪ねてみることにした。

住宅街の中に、原爆投下から70数年が経った今もひっそりと建ち並ぶ赤煉瓦の倉庫群。

 

f:id:odekakeiku:20191224233137j:plain「陸軍被服支廠」と言う名前の通り、旧陸軍の軍服を生産、管理する施設として使用されていた。

明治38年(1905年)に陸軍被服廠広島派出所が、宇品線(かつて存在した広島駅〜宇品までを結ぶ鉄道路線)の沿線に設置される。

 

ちなみに当時の陸軍被服本廠は、東京本所にあった。1919年に王子区赤羽台に移転、その後に発生した関東大震災で、多くの住民が本所被服廠跡に避難したが火災旋風が起きて4万人が犠牲となったあの場所(現在は東京都慰霊堂のある横網町公園)。

 

話を元に戻します。

明治40年(1907年)に陸軍被服廠広島派出所は、支廠に昇格し規模を大きくしていきます。

 

 

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煉瓦造りに見えるが、本体は鉄筋コンクリートで建設されており外壁に煉瓦を積み上げ耐火、耐震構造を兼ねている。

初期の鉄筋コンクリートと煉瓦を併用した珍しく貴重な構造だそうだ。

 

昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、投下直後は臨時の救護所としても使用された。

戦後は、大学の寮や日本通運の倉庫などにも使用されてきたが、現在は使用されていない。

 

f:id:odekakeiku:20191224233216j:plain赤煉瓦の壁が今もなお当時の面影を残して建ち並ぶ光景は、迫力があり感慨深いものがある。

これほど大きな被爆建物は残っていない。

 

原爆の傷跡

f:id:odekakeiku:20191224233256j:plain歩いていてすぐ気がついたが、西側の鉄板の窓が内側に食い込む様に変形している物がある。

 

f:id:odekakeiku:20191224233305j:plain爆心地から2,670m。

それだけ離れていても、鉄板を容易に変形させるほどの爆風だったのだ。

原爆は「熱線」「放射能」と、凄まじい「爆風」を発生させる。
この「爆風」の破壊力は想像を絶するものだった。

ここに来て改めて「爆風」の恐ろしさもリアルに感じ取ることができた。

 

峠三吉「原爆詩集」より

 自分は、この陸軍被服支廠を訪れる前、

「ちちをかえせ ははをかえせ」

の序文で始まる峠三吉の「原爆詩集」を読み返してきた。

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その日

いちめん蓮の葉が馬蹄型に焼けた蓮畑の中の、そこは陸軍被服廠倉庫の二階。

高い格子窓だけのうす暗いコンクリートの床。

そのうえに軍用毛布を一枚敷いて、逃げてきた者たちが向きむきに横たわっている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(冒頭)

 

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(中略)多くの少女は叫びつかれうらめしげに声を落とし、その子もやがて柱のかげに崩れ折れる。

灯のない倉庫は遠く燃えつづけるまちの響きを地につたわせ、衰えては高まる狂声を込めて夜の闇にのまれていく。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

 

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八日め

がらんどうになった倉庫。歪んだ鉄格子の空に、今日も外の空地に積みあげた死屍からの煙があがる。

柱の蔭から、ふと水筒をふる手があって、

無数の眼玉がおびえて重なる暗い壁。

K夫人も死んだ。

ー収容者なし。死亡者誰々ー

門前に張り出された紙片に墨汁が乾き

むしりとられた蓮の花片が、敷石のうえに白く散っている。

峠三吉「原爆詩集」倉庫の記録(抜粋)

 

解体一部保存か、全棟保存か

f:id:odekakeiku:20191225012144j:plain現存する4棟が建ったのは、1912年ごろ。築100年以上が経過し、維持管理が難しくなってきているとのこと。


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震度6程度の地震でも、倒壊の恐れがあるらしい。

2019年12月、広島県は現存する4棟のうち3棟を解体し、残る1棟を改修し保存する方針を示した。

それに対し、貴重な被爆建物を全棟保存しようと言う呼びかけも起きている。

 

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現存する、これだけ大きなスケールの被爆建物はない。

実際に行って歩いて見て、五感で感じるものは大きい。

今なお語りかけてくる歴史の証言者だ。

広島の原爆関連施設ではマイナーなスポットだけど、きっと何か感じるものはあると思う。

広島を訪れた際は、一度訪れて見て感じてほしい遺構の一つです。 

 

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全棟保存を求める webでの署名活動も行われています。

 

【2019年7月撮影 広島市南区出汐「旧陸軍被服支廠」、比治山】 

 

原爆詩集 (岩波文庫)

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  • 作者:峠 三吉
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MacBook Pro13インチを購入するつもりだったけど16インチにして大正解!ハイスペックなだけでなくキーボードも改善、スピーカーの音質は神領域!

2011年から毎日ずっと使ってきた「MacBook Pro2011 13インチ」

 

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下がMBP13インチ(2011)、上が新しいMBP16インチ

ほぼ毎日持ち歩き、出張や海外にも頻繁に持って行っても壊れることを知らないタフさと、メモリ増設やHDDなど自分で裏蓋を開けてカスタマイズできるのが気に入ってました。

SDスロットも標準搭載だし、USBも汎用性の高い方だし(Cタイプではないし)、自分はまだ時代遅れのCD、DVDも人よりそこそこ使ってたし。

途中、SATケーブル不具合で、ケーブルを自分で2回交換したのと、トラックパッドを自分で1回交換したのみで、ほとんど8年間故障知らず。

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 メモリも16GBまで増設していて、まだまだ使えそうな気もするけど、処理能力的にもう限界かなと思っていたのと、急に壊れて作業が滞るのが怖いので、新しいMBPに買い換えようと決意し、どれにしようか1ヶ月ほど悩んだ挙句、結果的には13インチでは無く、発売されたばかりのMacBook Pro16インチを購入しました。

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 くだらないことまで、あれこれ悩んだことも、勉強のうち。備忘録として、簡単にメモ程度に残しておきます。

 

今までのMBP(2011 13インチ)の主な用途(超大まか)

  • Lightroomでの画像編集、画像管理 1ヶ月間の撮影画像のMBP取込枚数5,000〜1万枚(多い時で2万)約150GB〜600GB。取込画像:フルサイズRAW。
  • Photoshopでの画像編集、デザイン
  • データー納品
  • 執筆作業
  • ブログ記事作成

などなど

 

新しいMBPに最低欲しいスペック

  • CPU:クアッドコア 2.4GHzクラス以上
  • ストレージ:500GB〜1TB SSD(正直あればあるほど)
  • メモリ:16GB〜

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MacBook Pro 13インチ

当初、13インチにこだわった理由は、画像編集をするには画面が小さいけど、ほぼ毎日持ち運ぶので機動性を考えてが大きいです。

現在のMBP13インチの重量1.37キロは、超魅力的。

 

でも、13インチ標準のメモリ8GBは少なすぎる・・・

CPUは、動画編集はほとんどしないので、そこまでハイスペックなのは宝の持ち腐れになるので必要ないと考えていました。

それよりも重要なのは、メモリ。

でもなぜか、13インチのモデルのほとんどはメモリ8GBが標準

何度かApple Storeに行って相談したら「Lightroomの作業で16GBも必要ですか?」と言われることしばしばあったけど

改めてアクティビティモニタを開いて確認したら、Lightroomとchromeを開けて作業しただけで、8GBは優に越えて14GBほど常時使用している。

現行の13インチモデルの標準8GBでは、全然足りないと思っているユーザーは多いような気がするんだけど、Appleはここのところずっと8GBしか用意していないのは、なんでだろう?CTO(注文使用生産)して金を注込めということなのかな。

 

MBP13インチ(512GB)をメモリ16GBに増設すると、16インチ(512GBメモリ16GB)と値段があまり変わらなくなる

さてそんなこんなで、13インチモデルをメモリ16GBにCTOで増設して

(現在のMacBook Proは、メモリ、SSDなど自分で自力では増設できません)

ストレージも、毎月150GB〜多い時で600GBデータをMBPに移行して作業しているので最低500GBは欲しい!

そんなこんなで、13インチ512GBモデルで選んでみると・・・

お値段が、16インチ(メモリ16GB、ストレージ512GB)と数千円しか違わないことが判明。。。

 

16インチモデルのデメリット

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MacBook Pro 16インチ 隣奥はMacBook Pro 13インチ

最初、16インチは重いし、機動性に欠けると考えていましたが、今まで使っていたMBP(2011)の重さは2.06kg。

新しく発売された16インチは、前回のモデルの15インチより、若干重くなり2kg。

でも、値段がCTOで増設した13インチと変わらないとなると16インチのデメリットは重いというのと、これも当たり前だけどひとまわり大きいというくらいで、むしろメリットばかりが目立ちます↓

 

16インチのメリット

  • 13インチ→16インチ 当たり前だけど画面が大きくて見やすい。
  • CPU他のスペックも13インチより、かなりハイスペック。
  • キーボードが13インチの(バタフライ式)よりも、16インチ(シザー構造)打ちやすく静か。不具合も改善。
  • 6スピーカーサウンドシステムで、音質が大幅に向上。

画面が見やすい、ハイスペックというのはあえて言わなくても当たり前だけど、

まず、キーボードが不具合の多かったバタフライ式を廃止してシザー式に戻ったこと。これにより、以前のMacBook Proのような安定したキーボード操作が戻った。

これは、かなり大きい改善点です!

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左16インチ 右13インチ

そして、あまり期待してなかったけど6スピーカーサウンドシステムは、今までのパソコンの内臓のスピーカーとは比べ物にならないほど。

我が家の6歳児の娘が、MacBook Pro16インチで曲が流れた瞬間に「これ(MBP16)から音が出てるの?」と驚いて聞き入ってたほど、重圧感のある低音、クリアで立体感のある音質。

ノートPCのスピーカーの常識を、遥かに超えた完成形です。

 

 

 

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浅草寺 「歳の市」夜の幻想的な「羽子板市」を見に行く。12月17日〜19日。

 

「納めの観音」

毎月18日は、観音様の縁日。

特に12月18日は「納めの観音」と言って、一年無事に過ごせた感謝や、来る年がより良い年になるようにと、聖観世音菩薩を本尊とする浅草寺へ参詣する人が昔から多いそうです。

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この「納めの観音」の前後三日間(12月17日〜19日)に開催されるのが「歳の市」別名「羽子板市」。

 

「歳の市」「羽子板市」

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もともと「歳の市」は、正月用品を売る市だったそうですが、いつからか正月の縁起物として人気のあった羽子板を売る市「羽子板市」になったようです。

 

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羽子板市で扱っているのは、遊ぶ羽子板ではなく、飾る羽子板。

飾り羽子板は、厄払い、女性の魔除として昔から女性へ贈られてきました。

 

世相の羽子板

f:id:odekakeiku:20191220144105j:plain昔から主流は、和服女性や歌舞伎の題材をとった押絵の羽子板が中心だけど、最近ではその年に流行ったものの羽子板も多くあります。

先日公開された「アナと雪の女王2」もあれば

 

f:id:odekakeiku:20191220144111j:plain今年(2019年)で、放送50周年を迎えた「サザエさん」

 

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浅草と言えば渥美清。第1作目の「男はつらいよ」から半世紀となる今年、50年目の最新作が公開される寅さんも羽子板になっていました。

その隣は、今年大いに盛り上がったラグビー日本代表の羽子板も。

 

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ペイペイやLINE Payなどのスマホ決済ができる露天もありましたよ。

政府のキャッシュレス決済5%還元対象にもなっています。時代ですね。

 

芸大生とのコラボ

f:id:odekakeiku:20191220144124j:plain東京藝術大学デザイン科の学生の作品と、羽子板職人のコラボレーションした羽子板。

 

f:id:odekakeiku:20191220144128j:plainこちらも販売しているのもあります。

毎年、楽しみにしているけど、最近は、芸大生の作品にもディズニーや、キャラクター物の作品が増えているような気がします。

 

子供も楽しめる

f:id:odekakeiku:20191220144133j:plainお絵かき羽子板も作れます。

我が家も、3年ほど前に子供が作りましたなー。

こちらは絵なので、お絵かきした後、実際に羽子板で遊べます。

 

f:id:odekakeiku:20191220144135j:plainこちらは、手形スタンプ羽子板。

 

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手形は、その年の子供の成長の記念になるので、意外と良いかも。

 

より立体感を感じる、夜の羽子板市

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羽子板市は、当然、午前から開催しているけど、夜は照明に照らされて押し絵がさらに浮かび上がったよう見える気がして好きです。

 

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境内も入れると、江戸時代にタイムスリップしたような。ちょっと幻想的です。

夜は21時半までやっていて(最終日は20時半まで)、日中のような混雑もないので撮影もしやすいですよ。
 

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早いもので、今年も残すこと10日ほど。

毎年「自分だけ年の瀬の気分がせず、世間から取り残されているような気がする」

そんな方は、浅草寺の「歳の市」に行く事をおすすめします。

「もういくつ寝ると正月か〜」という気分にきっとさせてくれますよ。

と、言っても今年の「歳の市」は終わっているので、来年どうぞ。

 

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