今回は、池波正太郎著 鬼平犯科帳「谷中・いろは茶屋」界隈を歩く。
火付盗賊改同心、兎忠(うさちゅう)こと木村忠吾が、谷中の岡場所いろは茶屋の菱屋のお松の元に入り浸る。
ここは〔いろは茶屋〕とよばれる岡場所であって、貞享の時代から谷中・天王寺門前にひらかれた遊所だ。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(2)』「谷中・いろは茶屋」P64
吉原と岡場所
江戸時代、幕府公認の公の娼婦街は吉原だけだった。
幕府から正式に認められている吉原は格式が高く、そして幕府に税金を納めているのもあって遊び代が高く、実際のところ吉原は庶民の手には届きにくい所だったらしい。
それに対して幕府非公認の娼婦街が岡場所。
品川、内藤新宿、板橋、千住、赤坂、市ヶ谷、根津、谷中など、江戸市中には他にも岡場所がたくさんあった。
岡場所は、表立ってそういう商売が認められていないので、娼婦は茶屋や旅籠屋などで飯盛女(めしもりおんな)として客に給仕するというのが名目。
料金はいろいろ説があるが百文〜五百文ほどだったそうだ(吉原で比較的安いとされた小見世の価格が七百文ほど。一文は時代によるけど現在の二十円ほど)。
当然、下級武士の類に入る同心木村忠吾にとっても気軽に吉原通いとはいかないようで、上野・谷中界隈の見回りを任せられてから見つけた、谷中いろは茶屋に通ってしまう。
根津から谷中茶屋町へ
ある日、忠吾は谷中界隈の巡回から外され、役所詰で書類作りに追われる日々。
お松が忘れられない忠吾は、ある夜、居ても立っても居られず無断で役宅を抜け出して、谷中いろは茶屋へと向かう。
夜が明けぬうちに役所へ帰るつもりの忠吾だから、汗みずくとなって外神田から湯島へぬけ、不忍池の西側を根津へ出ると、通いなれた善光寺坂をのぼりきり、一乗寺の横路へ入った。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(2)』「谷中・いろは茶屋」P81
現在の東京メトロ千代田線根津駅のある交差点から、善光寺坂へと続く道は今は「言問通り」となり交通量も多い。
「善光寺坂」の案内板が坂の途中にある。
以前、坂の上に存在した善光寺に由来し信濃坂ともよばれていたそうだ。
善光寺は元禄十六年(1703年)の大火によって消失し青山に移転したとある。
ちなみに原作では、羽振りが良くお松に「お前の好きな男(忠吾)のためにおつかい」と金十両を渡した川越の旦那こと盗賊墓火の秀五郎が出入りする隠れ家、数珠屋油屋は善光寺坂の途中にあると設定されている。
善光寺坂をのぼりきったところにある、作中にも出てくる一乗寺は、今も現存している。
この界隈は、今でも寺町として多くの寺が残っている。
一乗寺の横路も現存。
そして、いろは茶屋へと向かっていた木村忠吾は、横路を(現在も切絵図のまま)突き当たって左へ曲がり、そこを曲がりかかったところで、偶然にも盗賊一味を見つけてしまう。
さて、善光寺坂をあがり、一乗寺を左に見て越えて、現在のデニーズがある先を左(日暮里方面に)へ曲がって進むと、住宅街から突如、谷中霊園の塀が見えてくる。
この辺りが、当時の天王寺(史実では鬼平の時代は、まだ改名前の感応寺)の門前だったようだ。
切絵図を見ると、天王寺門前に「新茶屋町」と見てとれる。
近くに台東区が建てた「旧町名由来案内 旧谷中茶屋町」の案内があった。
それによると、天王寺(鬼平当時は感応寺)は江戸開幕以前よりこの地にあり、日蓮宗の寺だった。
元禄十二年(1699年)幕府の名によって日蓮宗から天台宗に改宗され、檀家が離れて経営が傾いたそうだ。この点は現在の寺事情と似ている。
寺の経営立て直しのため、寺社奉行所に町屋の開設を願い出て翌年許可され、感応寺門前新茶屋町ができたとされている。
以前は広大な土地を有していた天王寺(感応寺)も、今はJR日暮里駅近くにある。
天王寺は、富くじが幕府に公認され、目黒不動、湯島天神とならんで「江戸の三富」の一つとしても有名だった。
谷中いろは茶屋とは
本作のタイトルにもなっている谷中いろは茶屋とは、ある一軒の茶屋の名前ではなく、この茶屋町全体のことを指して言われていたらしい。
ちなみに、いろは茶屋の名前の由来は
- 茶屋町を作る時に、京都にあるという「いろは茶屋」のようにしたい。
- 谷中茶屋町は賑わいをみせて一時は、四十七軒の茶屋が立ち並んでいた。
- 「いろは」と書かれた暖簾がかけられていた。
など諸説ある。
寺社奉行所に許可されて作られただけあってか、最初は料理茶屋がメインだったが、次第に女性を多く抱える色茶屋町となっていく。
それもあってか延享二年(1745)に寺社奉行支配地から町奉行所支配地へ、支配替になった。
いろは茶屋は、寺町にあるため場所柄、客は僧侶が多かったらしい。
不届な 和尚いろはに ほれて行き
という川柳が残っている。
TVドラマ版の鬼平「谷中・いろは茶屋」では、町方が僧侶の女郎買い取り締まりの手入れがあって、墓火の秀五郎を逃してしまう。
もちろん原作もそうだが、TVドラマ版もよく調べて作ってあり、あながちフィクションだとバカにできない。
谷中は、今でも寺と坂の町。
個人的なことだけど、縁あって自分の祖母も明治に日暮里の生まれ。日暮里も昔は、谷中本村と呼ばれていたそうだ。
それとは別に、自分も小中学の頃、谷中界隈はよく行き来していた。フィクションとはいえ鬼平の舞台としてこの界隈を改めて調べて歩いみると、実に味のあるところです。
参考文献:台東区史 通史編(東京都台東区)、台東下谷町名散歩(小森隆吉著 聚海書林)