鬼平「むかしの男」雑司ヶ谷、護国寺、根津、庚申塚界隈を歩く
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』「むかしの男」より
長谷川平蔵が留守中、江戸の目白台にある平蔵の私邸に、妻の久栄へ宛てられた一通の手紙が届けられる。
雑司ヶ谷の鬼子母神
「ごめん下さんなせ」
と、その手紙を持ってあらわれたのは、ここからも程近い雑司ヶ谷の鬼子母神・門前にある〔みょうがや〕という茶店の老婆であった。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P265
雑司ヶ谷の鬼子母神へは、都内で唯一残った路面電車「都電荒川線」で行ける。
「鬼子母神」の読みは、原作にもあるように、正確には「きしもじん」だが、都電の標識は「きしぼじん」。
都電「鬼子母神前」からすぐ、参道が続く。
雑司ヶ谷の鬼子母神は、月に1度、手創り市が開催され多くの人出で賑う。
鬼子母神は、子を食う鬼だったが、お釈迦様が鬼子母神の子を隠したことで、子供がいなくなることがどんなに悲しいか悟り改心し仏教の守り神になったので鬼ではなくなった。
ゆえに、鬼子母神の「鬼」の字の上に点がなくなっている。
護国寺
久栄あての手紙には、こうある。
久しぶりにて候。
明日四ツ(午前十時)護国寺・門前の茶店、よしのやまでおこし下されたく、もしも、おきき入れなきときは、こちらよりそちらへ参上つかまつるべく候。念のため。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P269
差出人は、近藤勘四郎。平蔵に出会う以前、久栄は勘四郎に騙されひどい目にあった。思い出したくもない「むかしの男」。
神齢山・護国寺は、音羽町(現・文京区音羽二丁目)の北にある。
この寺は、新義真言宗・豊山派の大本山で、五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院のねがいによって建立されたという。
ゆえに、幕府により寺領千二百石を附せられ、となりの護持院とならび、境内は宏大森厳をきわめ、幾多の堂宇をめぐるだけでも小半日はかかるそうな。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P273
江戸期は、5万坪ほどあったそうだが、明治後は皇族の墓地(豊島岡墓地)や、一時は陸軍墓地になったりして、現在は約半分の広さになった。
本殿は元禄十年(1697年)に建立。
幾多の大火や震災、空襲の難にあわず建立当時のまま。内部(参拝可能)も、綱吉の時代の面影をとどめている。
護国寺門前の茶店よしのや
当時、このあたりは江戸市中を外れた旧小石川村のおもかげが濃厚であって、門前につらなる茶店や茶屋もわらぶき屋根が多く、近藤勘四郎が久栄に指定してよこした〔よしのや〕という茶店は、護国寺前の道の西端、西青柳町の子育て稲荷のとなりにあった。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P274
護国寺を出て、不忍通りを雑司ヶ谷方面へ向かうと、首都高池袋線の護国寺出口がある。
その首都高、護国寺出口のすぐ先、ビルの間に隠れてあるような稲荷が、弦巻稲荷神社。原作に出てくる、子育て稲荷とは、ここ。
一説には、護国寺ができる以前、三代将軍家光が鷹狩りにきた折に参拝したといわれている古いお稲荷さんのようです(この稲荷の裏には腰かけ稲荷があり、家光が腰かけたのが由来とか)。
首都高の建設等で、場所は多少移されたと思われる。
江戸切絵図に書かれている場所では(細かく言えば)首都高護国寺入口あたりにあったと思えるが、それでもほぼ変わらない場所に今でもある。
この稲荷となりにあった茶店〔よしのや〕に、近藤勘四郎は久栄を呼び出す。
茶屋の離れで、近藤勘四郎の誘いに、久栄は「ばかなことを」と吐き捨て去ろうとすると、勘四郎は「屋敷へもどって、おどろくなよ」と。
久栄は〔よしのや〕を出るや、護国寺門前の通りを西へ・・・・・・雑司ヶ谷の方角へまっすぐに歩みだした。
と・・・・・・。
子育て稲荷の向うの土橋のたもとにしゃがみこみ、のんびり煙草をふかしていた百姓姿の中年男が、やれやれといったふうに立ちあがり、菅笠をかぶりはじめた。
その百姓男の前へさしかかった久栄が、何かを早くささやいた。
百姓がうなずく。
久栄は急ぎ足になり、わき目もふらずに去った。
百姓は、すれちがいに去る久栄を見返りもせず、ゆっくりと〔よしのや〕の前へ来て、
「茶をいっぺえもらおうかい」
土間の腰かけへ腰をおろしたものである。
この百姓の顔を笠の下からのぞいて見たら、そこに長谷川屋敷の門番・鶴蔵を見出すことになる。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P279-280
鶴蔵は、勘四郎の行方をつきとめるべく、後をつけて行った。
久栄と鶴蔵が護国寺へ出て行ったあと、長谷川邸へ昨日手紙を持ってきた、鬼子母神・門前の茶店〔みょうがや〕の老婆が駆け込んできた。
久栄が浪人衆に取り巻かれ斬られたと。
屋敷の中が大騒ぎになっていると、茶店の老婆が幼女お順と共に消えた。
根津権現 総門前料理茶屋・日吉屋
鶴蔵に後をつけられていることも知らぬ近藤勘四郎は、大塚から駒込へ・・・・・・さらに本郷へ出て、
「根津権現の総門前にある日吉屋という料理茶屋へ入りましてござります」
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P290
勘四郎と、盗賊・霧の七郎が打ち合わせをしていた根津権現総門前にある料理茶屋・日吉屋。
日吉屋は作者の創作の店だと思われるが、江戸時代この界隈には料理茶屋が立ち並び賑わいを見せ、曙の里と呼ばれていた。
江戸の華名勝会 れ 九番[組] 河原崎権十郎/根津の摠門曙の里/根津
今は、閑静な住宅街の中にある根津神社。4月〜5月にかけてつつじが咲き誇ることでも有名。
根津神社の社殿も、宝永3年(1706年)創建の当時のままの姿。社殿は国の重要文化財に指定されている。
明治に入って、東京大学医学部がすぐそばに設置されたため、根津門前の岡場所、遊郭は江東区東陽町の洲崎へ移転した。
巣鴨・庚申塚
勘四郎は白山から中仙道をまっすぐにすすみ、巣鴨の庚申塚へ出たものである。
ここは、江戸から板橋の宿場へ入る立場になっている。立場は、宿場の出入口にもうけられた茶店で、馬や人足、駕籠かきのたまり場でもある。
庚申塚の立場のうしろは、いちめんの畑地と森や林で、この中の細道をたどれば巣鴨村、滝野川村を経て、王子権現社や岩屋弁天へ通ずるというものさびしいところだ。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P290
巣鴨・庚申塚近くの百姓家に、長谷川平蔵に恨みを持つ、霧の七郎一味と、近藤勘四郎の隠れ家がある。
誘拐した平蔵の養女、お順をこの百姓家に閉じ込めていた。
都電荒川線の停留所「庚申塚」のすぐ前に、猿田彦大神庚申堂がある。
中には、「史跡 巣鴨の庚申塚」と書かれた碑が立っている。
庚申塚のすぐ横からはじまる、巣鴨地蔵通商店街は、とげぬき地蔵などで賑わう、おばあちゃんたちの原宿。
モデルコース
東京メトロ千代田線「根津駅」→(徒歩)→根津神社
バス停「根津神社入口」→都バス上58(早稲田行き)→バス停「護国寺正門前」下車
護国寺→(徒歩)→弦巻稲荷神社(子育て稲荷)→(徒歩)→雑司ヶ谷鬼子母神
都電「鬼子母神前」→都電荒川線(三ノ輪橋方面)→都電「庚申塚」
庚申塚→(徒歩)→巣鴨地蔵通商店街→(徒歩)→JR巣鴨駅