夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

鬼平「あきれた奴」市ヶ谷、両国界隈を歩く

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(8)』「あきれた奴」より

 

今回の話の主役は、火付盗賊改方同心・小柳安五郎。

小柳の妻は、非常に難産で母子ともに亡くなった。

 

市ヶ谷・坪井主水道場

その後、小柳は人が変わったように仕事に、稽古に打ち込む。

以前の安五郎は、別に剣術が得意というわけでもなく、色白の細っそりとした、やさしげな面だちの男であったが、ここ二年の間に風貌も一変した。筋骨がたくましくなり、陽に灼けつくした顔が精悍に引きしまっている。余暇ができると、長官の息・長谷川辰蔵が門人になっている市ヶ谷左内坂の坪井主水の道場へ通って、熱烈な稽古にはげむ。

「あの年齢で、よくもあれだけの稽古ができるものです」

と、いつか役宅におとずれた坪井主水が感心して、もらしたことがあったほどだ。

平蔵は、腹心の与力・佐嶋忠介のみへ、

「小柳は、むしろ、われから危難に立ち向い、早く一命を落して妻子の傍へ行きたいとねがっているのではないか・・・・・・」

案じたこともあった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(8)』新装版「あきれた奴」P52-53 

f:id:odekakeiku:20170328121750p:plain

江戸切絵図 尾張屋版 市ヶ谷牛込絵図 国立国会図書館

長谷川平蔵の嫡男、辰蔵の通う坪井主水道場は、市ヶ谷左内坂にあったと設定されている。

 

f:id:odekakeiku:20170328115152j:plain

現在でも、JR市ヶ谷駅のお堀を渡った北側を市ヶ谷左内町と住所が残り、左内坂の標識が建つ。

 

f:id:odekakeiku:20170328115756j:plain

左内坂近く、市ヶ谷亀岡八幡の銅製の鳥居は、鬼平が活躍していた時代とほぼ同時期の文化元年(1804年)建立。

 

f:id:odekakeiku:20170328121225j:plain

境内を突き抜けたところにある、裏参道からでも左内坂にぬけられる。

 

f:id:odekakeiku:20170328121419j:plain

 左内坂へぬける裏参道の途中に「陸軍用地」と掘られた標石が残っていた。

切絵図にもあるように江戸時代この界隈は、御三家筆頭 尾張藩の広大な上屋敷があった。

明治期になって尾張屋敷は陸軍士官学校、幼年学校になる。

 

f:id:odekakeiku:20170328122731j:plain

平成の現在は、左内坂の坂をあがったところからは、防衛省が見られる。

 

両国橋

ある日、小柳は妻子の墓参りをすませ、亡き妻の実家、本所・亀沢町にある井上友之助方で夕飯を馳走になった。

その帰り道、両国橋へさしかかる。

長さは九十四間、幅四間の両国橋の中程まで、ゆっくりとたわって来た小柳安五郎が、

(や・・・・・・)

はっと足をとめた。

そこは常人ではない。暗夜の江戸の町の刑事にはたらく安五郎である。

突如・・・・・・

前方の橋板から湧きあがるように身を起こした人影が、橋の南側の欄干へ走り寄りざま、いきなり大川へ身を投げようとしたのを見たのであった。

声をかける間も、抱きとめる間もなかった。

安五郎の右手から、傘が飛んだ。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(8)』新装版「あきれた奴」P54

 一間はメートルに換算すると、約1.82mほど。

(明治の度量衡法で定められた数値なので、江戸時代の実際の長さとは誤差あり)

長さ九十四間、幅四間なので、当時の両国橋の長さは約171m、幅は7m と少しだったようです。

f:id:odekakeiku:20170327122448p:plain

名所江戸百景 両国橋大川ばた 広重 国立国会図書館

もともとの正式名は大橋でしたが、武蔵国と下総国にかかる橋から、いつしか両国橋と呼ばれるようになったとのこと。

f:id:odekakeiku:20170327142744j:plain

現在の橋は昭和7年完成。球体のオブジェは、花火玉をイメージしているとか。

 

火付盗賊方改同心・小柳は、ここで2つか3つくらいの子供を背負い身投げをしようとしていた女を救い、五鉄に連れて行く。

 

軍鶏なべ屋「五鉄」

f:id:odekakeiku:20170327143548j:plain

 鬼平シリーズで度々登場する、軍鶏なべ屋「五鉄」。

場所は「二つ目橋の角地で南側は堅川」にあったと設定されている。現在その場所には墨田区の立てた高札が設置されている。

 

f:id:odekakeiku:20170328105658j:plain

大川(隅田川)から二つ目の橋だったので二つ目橋。またはニ之橋と呼ばれていた。

現在は上を首都高七号小松川線が走る。

 

鳥料理屋・かど家

f:id:odekakeiku:20170328111128j:plain

ニ之橋北詰の交差点を東へ少し行くと、鳥料理屋かど家がある。

創業は文久二年(1862年)、鬼平の時代よりも後になるが、初代の弥八さんがこの角地に、しゃも鍋「角弥」を創業、現代に続いている。

 池波正太郎先生もよく訪れたとかで、五鉄のモデルといわれている。

 

鬼平犯科帳(八)

鬼平犯科帳(八)

 

 

あきれた奴

あきれた奴

 

 

www.tabijiphoto.com