文春文庫 池波正太郎作 鬼平犯科帳 泥鰌(どじょう)の和助始末 より
この作品は、江戸市中を東西南北と広い範囲をせわしなく場面が入れ替わります。
とうてい散歩というようには回れないので、要所を抜粋して舞台となった界隈を少し探訪。
平蔵の息子、辰蔵が珍しく真面目に道場に通い剣術の稽古に励んでいる。
平蔵は「若さの気まぐれ」と気にもしていなかったが、そんなある日のこと、辰蔵から恐るべき剣法を見たと告げられた。
辰蔵の通う道場に、浪人態の五十ほどの「松田十五郎」という男が「稽古を願いたい」と訪ねて来たという。
浅草・奥山 亀玉庵
長谷川平蔵は、浅草・奥山の亀玉庵という蕎麦やへ 、剣友・岸井左馬之介を呼び出し、昨日、息子の辰蔵からきいた剣客のことを語ってきかせ、
「左馬は、どうおもう?」
「ふうむ・・・」
「刀の構えは、かならず下段。左足の指先が外側へじりじりとまわって右肩が出ると、相手は吸いこまれるように打ちかかる。それを待っていたとばかり・・・・・・」
「下段の刀が稲妻のごとく、相手の刀をはらいのけ、ただの一撃」
「うむ。坪井道場の面めん、いずれも歯がたたなかったという」
「銕さん。そりゃあ、まさに松岡重兵衛さんだよ」
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P155
池波作品に、たびたび登場する浅草・奥山の亀玉庵(亀玉庵は作者の創作だと思われる)。
現在、浅草寺境内の西側に「奥山」の案内板がある。
江戸の昔から、浅草寺の西北一帯は江戸の盛り場として、大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう場所であったらしい。
現在でも奥山という住所はないが、浅草寺の西北一帯は、商店街や、昼間から空いている居酒屋街、大衆劇場や商業施設などがあり賑わっている。
さわやかに晴れわたった秋空の下で、浅草観世音(金竜山・浅草寺)へ参詣の人びとが群れている奥山であったが、この亀玉庵の奥座敷はまことに物しずかで、西にひろがる浅草田圃の上を白鷺が一羽、ゆっくりと飛んで行くのが見えた。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P157
切絵図を見ると、浅草寺の北側は田園地帯だった。亀玉庵の奥座敷は物しずかで、西に広がる田圃が見えたというので、今の花やしきあたりにあったと設定しているのかもしれない。
浅草花やしきは、日本最古の遊園地と言われるが、開園は1853年(嘉永6年)鬼平の活躍した時代より後になる。
この、平蔵と左馬之介のいる亀玉庵の数軒離れた茶漬屋弁多津に、2人が探してる浪人、松岡重兵衛が出てきて、田園を歩いていると後からついて来た泥鰌の和助に声をかけられる。
昔から松岡重兵衛と馴染みであった、和助は「もう一度、大仕事」をしてみないかと誘う。
和助は表向きは腕のいい大工職人だが、新築や改築等に入った屋敷や商家に密かに細工をし、後に押し入る時にらくらくと盗みを働く。細くて小さな泥鰌のように、どこへでも忍び込んでしまうというところから、泥鰌という異名が付いた。
お盗めの助けばたらきをする若き日の平蔵と左馬之介
継母の波津に憎まれ、本所三ツ目の屋敷からはじき出されたかたちになっていた平蔵は、ほとんど、おまさの父親がやっていた〔盗人酒屋〕に寝泊まりし、飲む打つ買うの明け暮れにおぼれこみ、彦十のような取巻きが三十人もいて、深川・本所一帯の無類どもと、それこそ
「喧嘩の絶え間が・・・・・・」
なかったものである。
当然、金がいる。いくらあっても足りない。
(ええ、もう、どうせ、長谷川の家はつげねえ身だ。落ちるところまで落ちてやれ)
平蔵は、彦十のもってきたはなしに乗った。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P174-175
長谷川平蔵の父、長谷川宣雄が京都町奉行の役職につく前に住んでいたと設定されている本所の屋敷や、平蔵が剣術の稽古に励んだ高杉銀平道場等については、「本所・桜屋敷」本所界隈を歩くでも記載↓。
相模の彦十のはなしに乗って、お盗めの助けばたらきをすると決めた、若き日の平蔵と左馬之介は、彦十の手配した小舟を漕ぎだした。
大川(隅田川)へ舟を漕ぎ出した平蔵と左馬之介は、四ツ(午後十時)ごろに、大川をわたって、対岸の材木町の岸へ舟をつけた。
ここは駒形堂の北にあたり、当時は河岸に家もなく、苫をかぶせた小舟をつけたところで、すこしも怪しまれなかった。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P183
お盗めの助けばたらきをしていた平蔵と左馬之介が、舟をつけて盗賊一味を待っていた材木町は、現在の吾妻橋から駒形橋の間。
東都八景浅草夕照 広重
江戸切絵図を見ると、材木町は駒形堂と吾妻橋の間に位置する。広重の東都八景浅草夕照は、大川の対岸がちょうど材木町あたりと思われる。
ここで待っていた平蔵を、盗賊の一人が平蔵の顔をおおっていた布を引きめくった。
これが、高杉道場に食客として住みつき、平蔵と左馬之介に特別に年を入れて稽古をつけてくれた松岡重兵衛だった。
南新堀の紙問屋 小津屋源兵衛
そのとき和助は、小津屋にねらいをつけ、ぬけ目なく、ひそかに〔盗み細工〕をほどこしていたのである。
〔豆州・熱海 今井半兵衛製〕の雁皮紙が看板の小津屋は、幕府の御用もうけたまわっているし、諸大名への出入りも多い。江戸に数ある紙問屋の中でも指折りの大店であった。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P174-175
江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図
南新堀とは、現在の中央区新川1丁目の日本橋川沿いを言った。
その霊巌島の堀川べりが南新堀町で、ここは茶、傘、酒、畳表などの諸問屋がびっしりとたちならび、その中に紙問屋〔小津屋源兵衛〕の店舗と住宅があった。
文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P213
現在の地下鉄茅場町の駅から、永代通りを永代橋に向かっていった辺りの湊橋から豊海橋にかけて。今はミツカン東京支社などがある。
小津屋に盗み細工を仕掛けた和助だが、まさか実の息子が小津屋に奉公にあがるとは思ってもおらず、以後小津屋の盗み細工のことは、きっぱり忘れていた。
そんなある日、小津屋に奉公にあがっていた実の息子の磯太郎が、店の金を横領したと濡れ衣を着せられ自殺する。小津屋の跡とり息子は、先代に可愛がられていた磯太郎を目の敵にしていた。
そこで、和助は恨みを晴らそうと小津屋へ、松岡重兵衛、不破の惣七一味と盗みに入る。
和助は金よりも大事な書類・証文類をすべて盗み、大川で引き裂き捨てた。
後に、不破の惣七の裏切りにあい、松岡重兵衛と泥鰌の和助は殺される。
長谷川平蔵によって不破の惣七一味は捕らえられ、盗まれた金子は戻って来たが、和助が引き裂き捨てた書類・証文類がもとで小津屋は商売がうまくいかず倒産する。
ちなみにアニメ版鬼平は、原作の「泥鰌の和助始末」を「わかれ道」と「泥鰌の和助始末」の二作品に分けている。