「演説」という概念
演説とは英語にて「スピイチ」といひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思ふところを人に伝ふるの法なり。
と、福沢諭吉は著書「学問のすヽめ」(第十二編)の中で述べている。
一見、当たり前のような事を言っているようだが、明治維新直後の日本では「スピーチ」「演説」という概念は、今のように一般的ではなかったようだ。
福沢は続ける
わが国には、古よりその法あるを聞かず。寺院の説法などはまづこの類なるべし。
日本にはスピーチ、演説などは昔から聞いたことがない、言うなれば寺の僧侶による説法が近いかと。
ちなみに
- 「スピイチ」=「演説」
と訳語を創出したのも、福沢諭吉だと言われている。
三田演説會
西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、政府の議員・学者の集会・商人の会社・市民の寄り合ひより、冠婚葬祭、開業開店等の細事に到るまでも、僅かに十数名の人を会することあらば、必ずその会につき、あるいは会したる趣意を述べ、あるいは人々平生の持論を吐き、あるいは即席の思ひつきを説きて、衆客に披露するの風なり。
「学問のすヽめ」第十二編
「学問のすヽめ」が発行されたのが、明治5年(1872年)、第1回帝国議会が開かれたのが明治23年(1890年)と随分と後の事なので、選挙演説も議会の演説もまだなかった頃。
(当時)世間では議会が必要だなんて言ってるが、演説がちゃんと行われなければ議会を開く意味さえないと「学問のすヽめ」の中で言っている。
福沢諭吉は明治7年(1874年)に「三田演説會」を結成し、後に三田演説會からは犬養毅や尾崎行雄らを輩出している。
三田演説館
そして福沢諭吉は、私財二千数百円を充て明治8年(1875年)に三田演説館を開館させる。
外観は、なまこ壁で木造瓦葺きの和風建築だが、内部(通常非公開)はアメリカから図面を取り寄せた洋風。現在は国の重要文化財に指定されている。
余談だけど、どうしても可愛い河童の顔に見えてしまうのは自分だけでしょうかw
後五百年、古跡として見物する人もある可し
現在は、近くに立ち寄ることもできず、案内板を読むことができなかった。
写真だけ撮って自宅に帰って、画像を拡大し案内板を読んでみると
「其規模こそ小なれ、日本開闢以来第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸いに無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」
と、福沢先生は晩年おっしゃっていたそうです。
明治八年(1875年)の開館から、震災、戦災を免れ(移転はしている)、まだ144年ほどですが
福沢先生、6月27日の「演説の日」を前に、見物にやってきましたよ。
追記:演説の日
追記:すごく細かいことだけど、書いていて気づいたのですが、毎年6月27日の「演説の日」は、明治7年(1874年)6月27日に三田演説館で日本で初めて演説会が開かれた日というような説明をよくされていますが・・・
案内板や諸々の資料によると、三田演説館が開館したのが明治8年(1875)年5月。
このタイムラグは何故でしょうか。
三田演説会が1874年6月に結成されているので、三田演説館で云々は誤りなのかな。
参考資料
「学問のすヽめ」福沢諭吉著 伊藤正雄校注 講談社学術文庫
「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る 港区 三田 麻布十番コース」籠谷典子偏著 真珠書院