切腹最中で有名な新橋の和菓子屋、新正堂。
忠臣蔵で浅野内匠頭が切腹した、田村右京大夫邸の跡地だったことから、切腹最中を考案されたようです。
では、赤穂事件(忠臣蔵)の松の廊下の刃傷事件のあとから、浅野内匠頭が田村邸に移されて切腹するまでの経過を少し。
そもそも、田村右京大夫建顕とは、どんな人物だったのでしょうか?
外様大名から譜代格奏者番へ異例の出世
田村右京大夫建顕(たむらうきょうだゆうたてあき)は、奥州一ノ関藩三万石 初代藩主です。
田村家は、坂上田村麻呂の末裔の名門として奥州に豪族として存在していましたが、戦国の動乱期に、伊達家に取り込まれてしまいます。
建顕の父の代に、岩沼三万石を分知され、建顕の時に一ノ関に転封となります。
仙台藩の支藩であり当然外様大名の部類に入りますが、建顕は学問が秀でていて、そうとう優秀な藩主だったようです。
そんなこともあってか、学問大好きの5代将軍綱吉に重用され異例の譜代格となり奏者番を拝命されます。
能樂圖繪 前編 上 「田村」月岡耕漁 [画] 国立国会図書館
もしかしたら、能好きでもある綱吉のこと、能に「田村」という坂上田村麿が主人公の演目があるのですが、田村右京大夫はその末裔であり名家だったということも、出世の要因の一つだったのかもしれません。
松の廊下の事件当日
松の廊下の刃傷事件があった時、田村建顕は奏者衆の一人として千代田のお城に登城していました。
その日の奏者番の当番は、三宅備前守康雄。
田村は、あくまでも非番だったようです。
本来なら退出していてもよかったのですが、田村は変事のあとにすぐ退出するのもいかがなものかと思い、一人奏者番詰所に残っていたそうです。
そこへ「誰か残っている者はいないか」と老中土屋政直に呼ばれ、浅野内匠頭を当分預けるとの命を受けます。
田村は急ぎ藩邸に浅野内匠頭預かりの準備をさせ、引き取りのため総勢75名の藩士を江戸城に向かわせます。
平川門を出て田村邸へ
田村家で用意した浅野内匠頭が乗った籠には、錠が施され網がかけられ罪人のあつかいで、不浄の門とされた平川門より出されました。
江戸切絵図 芝愛宕下絵図(一部)尾張屋版 国立国会図書館
田村家側も当然しばらくの間、浅野内匠頭を預かるものと考えていたようで、特別に用意した部屋には、夜着、ふとん一式、一通りの生活用品、部屋の片隅に便所まで準備していたようです。
また、預かっている間の田村自身の奏者番の勤めや、他の当番の勤めは如何にすべきか?浅野に渡す道具はどこまでいいか?などを事細かく、老中土屋に宛てに質問状を出しています。
即日切腹
ところが、田村の予想とは反し、その当時の常識では考えられない超異例の、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂浅野藩五万石は取り潰しが決まりました。
(しかし吉良上野介は、お咎めなし)
朝廷と将軍家との大事な儀式を台無しにされ、綱吉の逆鱗に触れた故と考えられています。
浅野自身も即日切腹とは思ってもいなかったようで、田村邸に着き用意された部屋に入ると、大紋を脱ぎ、出された一汁五菜料理に、湯漬けを二杯食べていたようです。
田村は当初、座敷内での切腹を考えていましたが、大目付庄田下総守安利に庭先での切腹を指定されます。
いくら浅野が悪いとはいえ、五万石の大名(本藩は安芸広島藩の大大名)を庭先で切腹させるとは、当時の武士の常識では考えられなかったようで、大目付に付いてきた副検死役の多門伝八郎重共らが抗議したととのこと。
しかし、そのまま庭先で切腹。浅野内匠頭長矩は35歳の生涯をとじました。
その後、一ノ関藩田村家藩邸は幕末まで残り、明治五年にこの界隈は、田村町と名付けられました。
昭和22年港区が成立すると芝田村町に。
今では田村町の名前はなくなり、現在の住所は新橋(または西新橋)となりました。