夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

知れば知るほど面白い「書」の世界。王羲之、蘭亭序、初唐の三大家、欧陽詢、虞世南、褚遂良、則天文字。令和は蘭亭序の影響受けた?

 

顔真卿「祭姪文稿」来る

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2019年1月に国立博物館の特別展で「顔真卿」が来るという話を聞いて、思わずチケットを購入!

私ごとですが高校時代、書道(書く方ではなく、書の周辺知識を楽しみに感じて授業に出ていたw)を選択しており「顔真卿」と聞くとどうも反射的に反応してしまいます。

顔真卿は唐代の書家で、書道をかじったことがある人は、知らない人はいない書の大家の中の大家。その真筆は極めて少なく、その中でも傑作中の傑作と言われるのが「祭姪文稿」が初来日とあって、大きなニュースに・・・っていうほどどうも日本ではあまり話題になっていませんが、高校時代何度も見返した顔真卿の「祭姪文稿」の実物をどうしても見たい!

紙の耐久年数が長くても1000年と言われる中、顔真卿の真筆ともなれば1200年は軽く過ぎています。それゆえ、現在所蔵している台北の故宮でも滅多に展示しない一品。

恐らくこの機を逃せば、二度とお目にかかれないでしょう。

 

高校で学んでから二十年近くが経ち、「書」についての知識も気がつけばうる覚え状態。この機会に改めて調べ直し、整理してメモ書きとします。

 

まずは書の最高峰の書聖と言われる人物、王羲之から。

王羲之<おうぎし> (303年〜361年諸説有り)

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東晋の政治家、書家。能書(書の達人)を輩出する名家の生まれ。

それまでの書の伝統にこだわらず、時代を先取りした表現を完成させ、書を芸術の域にまで高めたと言われています。

時代は下って、唐の第二代皇帝太宗(在位629〜649年)は、全国にある王羲之の書を大枚をはたいて集めさせたのもあり、中国全土から消えた王羲之の書は、ごく一部の宮廷関係者以外目にすることができなくなり神聖化しました。

しかし現在、王羲之の真筆は確認されていません。なぜなら、太宗が崩御した時に王羲之の真筆のほとんどを陵墓に一緒に埋葬してしまったから。そして盗掘にでもあったのか王羲之の真筆は発見されていません。

盗掘されたとしても、どこからか出てきそうだけど、出てきていないということはまだ太宗の広大な陵墓のどこかに埋まっているのか、それとも別の所に隠してしまったのか・・・。

日本では7世紀から9世紀にかけて、真筆ではないにしても王羲之の作品が遣唐使の使節によってもたらされ、王羲之の書や下記に紹介する蘭亭序などの作品は手本として長く重んじられ、万葉集はじめ日本の古典作品の作風に大きく影響を及ぼしました。

  

蘭亭序<らんていじょ>

f:id:odekakeiku:20190222210103j:plain「定武蘭亭序(呉炳本)」王羲之(303?〜361?)東京国立博物館

王羲之の書の中でも、会心の書と言われるのが「蘭亭序」。

王羲之が蘭亭で開いた曲水の宴の際に作られた詩集の序文として、書かれたものの草稿、下書きです。

曲水の宴は、日本の平安朝の曲水の宴のように、流れて来る盃の酒を飲みほし詩を詠むという宴。王羲之は蘭亭序(の下書き)を書いた時、そうとう酒に酔っていたようですが、後に何度書き直しても酒に酔って書いた最初の草稿を上回るものは書けなかったとのこと。

 

王羲之の書を集めていた唐の皇帝太宗は、最高傑作の「蘭亭序」だけがなかなか手に入らず、最後は騙し取る形で入手したと伝えられています。

太宗は臣下の欧陽詢(おうようじゅん)に臨書させ、それを石に刻し拓本し臣下に配ったと言われます。

蘭亭序の真筆も、太宗の陵墓に副葬されたとされていますが真筆は発見されていません。

 

追記:新元号「令和」も蘭亭序の影響受けたもの?

ちなみに、新元号として発表された「令和」も万葉集の

「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」

より採用されたようですが

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蘭亭序は八行目の

是日也天朗気清恵風和和暢仰

「天朗らかに気清み、恵風和暢す」 

の影響を受けたとも言われています。

 

初唐の三大家「欧陽詢」「虞世南」「褚遂良」

 初唐の三大家と言われる欧陽詢(おうようじゅん)虞世南(ぐせいなん)褚遂良(ちょすいりょう)も王羲之の蘭亭序を臨書しており、その三大家の拓本が、現在、台東区の書道博物館等で見ることができます。

太宗皇帝は、欧陽詢の蘭亭序を特に気に入っていたようです。

 

欧陽詢<おうようじゅん>(557年〜641年)

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「九成宮醴泉銘」(一部)欧陽詢筆 国立国会図書館

欧陽詢の代表作の1つに「九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれんせいめい)」があります。太宗皇帝が避暑地の九成宮に避暑で訪れた際、甘い水(醴泉)が湧き出たことから、これは良い事がある前触れとして、記念に碑を作らせました。その碑の文字を書いたのが欧陽詢。

九成宮醴泉銘は、その完成度と格調の高さから楷書の手本とされ多くの拓本がとられたため碑はすり減っていると言われます。今も陝西省に現存。

 

虞世南<ぐせいなん>(558年〜638年)

f:id:odekakeiku:20190225140706j:plain「孔子廟堂碑」(一部) 虞世南筆 国立国会図書館

虞世南の代表作に「孔子廟堂碑(こうしびょうどうひ)」があります。こちらも欧陽詢の九成宮醴泉銘と共に楷書の作品の傑作として、今日まで「書」を学ぶものなら一度は習う手本とされています。

 

褚遂良<ちょすいりょう>(596年〜658年)

褚遂良は、欧陽詢、虞世南より40年後の人物です。

虞世南亡き後、書の重鎮がいなくなることを憂いていた太宗皇帝は褚遂良の噂を聞き、書道の顧問として側におきました。やがて太宗の信頼を得て、太宗亡き後も太宗の子高宗皇帝にも支え重鎮として活躍します。

ある時、高宗が皇后を変えたいと重臣に問いますがが、褚遂良は、徳に反すると大反対。結局、高宗が押し切る形で、則天武后が皇后になります。

いつの時代も女性の恨みは怖いもの。皇后になることを反対された則天武后は、褚遂良に対し死罪を命じますが、太宗より「どんなことがあっても褚遂良には死罪を免ずる」との遺詔があったため刑死されることを免れて、現在のベトナムまで流されその地で没しました。

 

則天武后が出てきたので、ついでに則天文字も・・

武則天と「則天文字」

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いきなりですが、水戸黄門こと徳川光圀。この光圀の「」の字は則天文字と呼ばれる唐の時代に少しの間しか使われていなかった超特殊文字です。

唐の第二代皇帝太宗の子で、三代皇帝になった高宗。高宗は高句麗を滅亡させ朝鮮半島を平定します。当時の日本も、百済に援軍を出し連合軍として戦っています(そして負けます)。世に言う「白村江の戦い」です。

やがて高宗は病弱になり政治にも関心がなく、しだいに皇后の武則天(※則天武后)に実権を握られてしまいました。

※日本では皇后としての呼び名の「則天武后」が有名ですが、中国では皇帝としての名の「武則天」と呼ぶのが一般的だそうです。

 

高宗死後、武則天は、中国史上最初で最後の女性の皇帝として即位し「唐」から「周」へと国号を改めます。

武則天は何かと改変が好きだったらしく、「皇帝」・「皇后」という呼称も「天皇」・「天后」と改めたり、「洛陽」を「神都」と改めるなど呼称、地名の改変を行うだけでなく、漢字の改変も行い則天文字を作ります。

しかし武則天死後、則天文字は廃止され、今では多くの則天文字が忘れ去られましたが、日本では徳川光圀の「圀」の字などが残っています。

ちなみに、それまで日本を「倭国」と読んでいたのを、武則天の時から「日本」に呼称が変わっているそうです。それを改変したのも一説によると武則天だとも言われています。

 

さて、武則天の治世が終わったあと、王羲之以来の書の巨人が産声をあげます。 

それが今回の主役の顔真卿なのですが、ちょっと長くなってしまので、顔真卿については次の記事に。

  

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王羲之と顔真卿: 二大書聖のかがやき (別冊太陽 日本のこころ 270)

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マンガ 「書」の歴史と名作手本―王羲之と顔真卿 (講談社+α文庫)

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