夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

鬼平「狐火」亀有、市ヶ谷界隈を歩く

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「狐火」より

 

新宿(にいじゅく)の渡し

密偵のおまさは、佐倉の叔母の葬式帰り、下総の松戸を出て、新宿(にいじゅく)の渡口へさしかかる。

おまさは、渡し口のわら屋根の茶店から、大盗賊・狐火の勇五郎の右腕といわれた瀬戸川の源七が出てくるのを偶然見かける。

新宿は、そのころ武蔵の国・葛飾群(現・東京の葛飾区)にあった宿駅の一つで、江戸からの街道が松戸を経て、上総・下総・常陸の国々へも通じている。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』新装版「狐火」P119

 

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名所江戸百景 にい宿のわたし 広重 国立国会図書館

広重の名所江戸百景「にい宿のわたし」にも対岸(松戸側)に、わら屋根の建物が見える。

もしかしたら、池波正太郎はこの浮世絵をみて、瀬戸川の源七がやっている渡し口のわら屋根の茶店と設定したのかもしれない。

ただ、この「新宿の渡し(にい宿の渡し)」が、現在のどこにあたるのか。

いろいろと調べてもわからなかったので、葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員の方に話を聞いた。

 

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新宿の渡しは、現在の亀有アリオの横の道を入った、中川橋付近にあったとのこと。

 

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名所江戸百景には、遠く筑波山と思われる山が描かれているが、現在はその方角にビルが立ち並ぶせいか、それとも天気のせいか、訪れた日は筑波山が確認できなかった。

この中川橋の通り、現在の江北橋通りの一部は、旧水戸街道にあたる。

 

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中川橋から環七を過ぎ、綾瀬方面へ少し向かうと「旧水戸街道一里塚」の石碑があった。

横に並んでいるちょっと怖い3人の顔は、水戸黄門すけさんかくさんとのこと。 

 

 

市ヶ谷八幡宮境内の料理茶屋 万屋(よろずや)

おまさが江戸にもどった、その夜、市ヶ谷・田町三丁目の薬種屋〔山田屋孫兵衞〕方へ、賊が押しこんで一家十七人が皆殺しにされた。

屋内に、狐火札が貼り付けられていたことから、賊は二代目・狐火の勇五郎一味の仕わざだと長谷川平蔵はにらむが、密偵おまさは現場の状況を見て、二代目の仕事ではないと訴える。

「おまさ。おいで」

平蔵は、後始末を配下たちと町奉行所にまかせ、おまさをつれて外へ出た。

平蔵がおまさをみちびいた場所は、市ヶ谷八幡宮境内にある〔万屋〕という料理茶屋の〔離れ〕であった。

ここは平蔵なじみの茶屋だ。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』新装版「狐火」P130 

 

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江戸切絵図 尾張屋版 市ヶ谷牛込絵図 国立国会図書館

事件のあった市ヶ谷・田町三丁目の薬種屋〔山田屋孫兵衞〕方と、市ヶ谷八幡宮は同じ通りの並び。平蔵は、おまさを連れて料理茶屋万屋へ連れて行く。

 

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名所江戸百景 市ケ谷八幡 広重 国立国会図書館

広重の江戸名所図会を見ても、門前に茶屋と思われる建物が立ち並んでいる。

平蔵なじみの料理茶屋万屋(よろずや)は、鬼平シリーズにも度々登場する。

 

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外堀通りの「市ヶ谷八幡町」交差点そばから、市ヶ谷八幡宮にあがれる。

現在は、駿台予備校が境内下にある。

 

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太平洋戦争の戦災により、ほとんどが消失してしまい江戸時代から残るものは少ない。

 

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「あきれた奴」の回でも紹介したが、銅製の鳥居は文化元年(1804年)建立、鬼平が 活躍していた時代とほぼ同時期にあたる。

 

 

 

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鬼平犯科帳 決定版(六) (文春文庫)

鬼平犯科帳 決定版(六) (文春文庫)

 

 

狐火

狐火

 

 

 

MARUMI EXUSレンズプロテクトSOLID 82mmをNikon24-70VRにつける

MARUMI EXUSレンズプロテクトSOLID 82mmを24-70VRにつける

 

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従来品の7倍の強度を誇るレンズ保護フィルター EXUS レンズプロテクト SOLID

 

7倍の強度

ネット上やリアルの話で、レンズを落として or ぶつけて、保護フィルターが割れただけでレンズは無事だったという話はよく聞きます。

でも、本当に保護フィルターが割れてレンズは守られたのか?

少し疑問も感じます。

前玉(レンズ)と保護フィルターの構造的にみても、保護フィルターの方が、強度は弱く割れやすいのは当たり前。

同じ条件下で、保護フィルターをつけずに落としたら、意外とレンズは割れないかも。

前玉は、奥まったところにあるし、フードもつけてたら傷すらつかないかも。

そう思ってしまうへそ曲がり野郎です。

むしろ、保護フィルターが割れて、レンズ面に傷がつく方が怖い。

 

と、思ったので強化ガラスを採用した EXUS SOLID にしました。

でも、従来品の7倍とあるけど、従来品は何なのかは、どこにも記載なし。

従来品とは、前作の厚みを増して強度を向上さた EXUS レンズプロテクトから7倍ではなく、おそらくはDHGレンズプロテクトあたりのことだと思います。

 

 

MARUMI カメラ用フィルター DHGレンズプロテクト 82mm レンズ保護用 059145

MARUMI カメラ用フィルター DHGレンズプロテクト 82mm レンズ保護用 059145

 

 

 

Nikon 24-70VRに付けてみる。

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開けてみると、マルミおなじみのフィルターケース。

P.Lフィルターとかならケースは必需品だけど、常時つける保護フィルターにはあまりケースは出番はないかも。

 

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今回は、Nikon24-70VRにつけるために、フィルター径82mm

 

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ブロアーで埃を落としてから付けます。

ブロアーでも落ちない埃は、エアーダスターで吹き飛ばす。

エアーダスターは、かなり強力で通常の7倍は吹き飛ばせる能力はあるのではないだろうか。全くといっていいほど、埃が残らない。

エレコム エアダスター ECO 逆さ使用OK ノンフロンタイプ 3本セット AD-ECOMT

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当たり前だけど、無事に装着できた。

問題はここから・・・

 

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Nikon24-70VRについては、一部の保護フィルターで、レンズフードが付けられないと問題になっていた。

前作のEXUS レンズプロテクトが問題ないようだったので、EXUS SOLIDも問題ないだろうと思ったけど、発売したばかりでレビューがなく、正直おっかなびっくりで装着。

問題なくレンズフードも装着できた。

 

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もちろん、Nikon純正のレンズキャップも問題なく装着可能。

 

 

もともとレンズに、保護フィルターの類は付けない主義だった。

余計なガラスはない方が良いに決まっている。

でも、Nikon24−70VRを使い始めてから、子供達(親戚の子も)がよく触る。

(大きいから、余計触りたくなるのかな?) 

それと常用レンズで、ここまで筒の長いレンズはあまり使ってこなかったので、やたらとぶつけそうになる。

以上の心配事を抱えつつ撮影しているのが精神的によくないので、今回、強度を売りにしている保護フィルターを購入した。

でも、たかが保護フィルターに1万5千円越え。

ちょっとした古い中古の単焦点レンズが買える。

保護フィルターに、保護フィルターが必要になるんじゃないかと思うほど、私めにとっては思い切った買い物でした。

 

 

鬼平「あきれた奴」市ヶ谷、両国界隈を歩く

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(8)』「あきれた奴」より

 

今回の話の主役は、火付盗賊改方同心・小柳安五郎。

小柳の妻は、非常に難産で母子ともに亡くなった。

 

市ヶ谷・坪井主水道場

その後、小柳は人が変わったように仕事に、稽古に打ち込む。

以前の安五郎は、別に剣術が得意というわけでもなく、色白の細っそりとした、やさしげな面だちの男であったが、ここ二年の間に風貌も一変した。筋骨がたくましくなり、陽に灼けつくした顔が精悍に引きしまっている。余暇ができると、長官の息・長谷川辰蔵が門人になっている市ヶ谷左内坂の坪井主水の道場へ通って、熱烈な稽古にはげむ。

「あの年齢で、よくもあれだけの稽古ができるものです」

と、いつか役宅におとずれた坪井主水が感心して、もらしたことがあったほどだ。

平蔵は、腹心の与力・佐嶋忠介のみへ、

「小柳は、むしろ、われから危難に立ち向い、早く一命を落して妻子の傍へ行きたいとねがっているのではないか・・・・・・」

案じたこともあった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(8)』新装版「あきれた奴」P52-53 

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江戸切絵図 尾張屋版 市ヶ谷牛込絵図 国立国会図書館

長谷川平蔵の嫡男、辰蔵の通う坪井主水道場は、市ヶ谷左内坂にあったと設定されている。

 

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現在でも、JR市ヶ谷駅のお堀を渡った北側を市ヶ谷左内町と住所が残り、左内坂の標識が建つ。

 

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左内坂近く、市ヶ谷亀岡八幡の銅製の鳥居は、鬼平が活躍していた時代とほぼ同時期の文化元年(1804年)建立。

 

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境内を突き抜けたところにある、裏参道からでも左内坂にぬけられる。

 

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 左内坂へぬける裏参道の途中に「陸軍用地」と掘られた標石が残っていた。

切絵図にもあるように江戸時代この界隈は、御三家筆頭 尾張藩の広大な上屋敷があった。

明治期になって尾張屋敷は陸軍士官学校、幼年学校になる。

 

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平成の現在は、左内坂の坂をあがったところからは、防衛省が見られる。

 

両国橋

ある日、小柳は妻子の墓参りをすませ、亡き妻の実家、本所・亀沢町にある井上友之助方で夕飯を馳走になった。

その帰り道、両国橋へさしかかる。

長さは九十四間、幅四間の両国橋の中程まで、ゆっくりとたわって来た小柳安五郎が、

(や・・・・・・)

はっと足をとめた。

そこは常人ではない。暗夜の江戸の町の刑事にはたらく安五郎である。

突如・・・・・・

前方の橋板から湧きあがるように身を起こした人影が、橋の南側の欄干へ走り寄りざま、いきなり大川へ身を投げようとしたのを見たのであった。

声をかける間も、抱きとめる間もなかった。

安五郎の右手から、傘が飛んだ。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(8)』新装版「あきれた奴」P54

 一間はメートルに換算すると、約1.82mほど。

(明治の度量衡法で定められた数値なので、江戸時代の実際の長さとは誤差あり)

長さ九十四間、幅四間なので、当時の両国橋の長さは約171m、幅は7m と少しだったようです。

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名所江戸百景 両国橋大川ばた 広重 国立国会図書館

もともとの正式名は大橋でしたが、武蔵国と下総国にかかる橋から、いつしか両国橋と呼ばれるようになったとのこと。

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現在の橋は昭和7年完成。球体のオブジェは、花火玉をイメージしているとか。

 

火付盗賊方改同心・小柳は、ここで2つか3つくらいの子供を背負い身投げをしようとしていた女を救い、五鉄に連れて行く。

 

軍鶏なべ屋「五鉄」

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 鬼平シリーズで度々登場する、軍鶏なべ屋「五鉄」。

場所は「二つ目橋の角地で南側は堅川」にあったと設定されている。現在その場所には墨田区の立てた高札が設置されている。

 

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大川(隅田川)から二つ目の橋だったので二つ目橋。またはニ之橋と呼ばれていた。

現在は上を首都高七号小松川線が走る。

 

鳥料理屋・かど家

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ニ之橋北詰の交差点を東へ少し行くと、鳥料理屋かど家がある。

創業は文久二年(1862年)、鬼平の時代よりも後になるが、初代の弥八さんがこの角地に、しゃも鍋「角弥」を創業、現代に続いている。

 池波正太郎先生もよく訪れたとかで、五鉄のモデルといわれている。

 

鬼平犯科帳(八)

鬼平犯科帳(八)

 

 

あきれた奴

あきれた奴

 

 

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鬼平「むかしの男」雑司ヶ谷、護国寺、根津、庚申塚界隈を歩く

鬼平「むかしの男」雑司ヶ谷、護国寺、根津、庚申塚界隈を歩く

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』「むかしの男」より

 

長谷川平蔵が留守中、江戸の目白台にある平蔵の私邸に、妻の久栄へ宛てられた一通の手紙が届けられる。

 

雑司ヶ谷の鬼子母神

「ごめん下さんなせ」

と、その手紙を持ってあらわれたのは、ここからも程近い雑司ヶ谷の鬼子母神・門前にある〔みょうがや〕という茶店の老婆であった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P265 

 

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雑司ヶ谷の鬼子母神へは、都内で唯一残った路面電車「都電荒川線」で行ける。

 

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「鬼子母神」の読みは、原作にもあるように、正確には「きしじん」だが、都電の標識は「きしじん」。

 

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都電「鬼子母神前」からすぐ、参道が続く。

 

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雑司ヶ谷の鬼子母神は、月に1度、手創り市が開催され多くの人出で賑う。

 

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鬼子母神は、子を食う鬼だったが、お釈迦様が鬼子母神の子を隠したことで、子供がいなくなることがどんなに悲しいか悟り改心し仏教の守り神になったので鬼ではなくなった。

ゆえに、子母神の「」の字の上に点がなくなっている。

 

護国寺

久栄あての手紙には、こうある。

 

久しぶりにて候。

明日四ツ(午前十時)護国寺・門前の茶店、よしのやまでおこし下されたく、もしも、おきき入れなきときは、こちらよりそちらへ参上つかまつるべく候。念のため。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P269

差出人は、近藤勘四郎。平蔵に出会う以前、久栄は勘四郎に騙されひどい目にあった。思い出したくもない「むかしの男」。

 

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 神齢山・護国寺は、音羽町(現・文京区音羽二丁目)の北にある。

 この寺は、新義真言宗・豊山派の大本山で、五代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院のねがいによって建立されたという。

 ゆえに、幕府により寺領千二百石を附せられ、となりの護持院とならび、境内は宏大森厳をきわめ、幾多の堂宇をめぐるだけでも小半日はかかるそうな。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P273

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江戸期は、5万坪ほどあったそうだが、明治後は皇族の墓地(豊島岡墓地)や、一時は陸軍墓地になったりして、現在は約半分の広さになった。

 

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本殿は元禄十年(1697年)に建立。

幾多の大火や震災、空襲の難にあわず建立当時のまま。内部(参拝可能)も、綱吉の時代の面影をとどめている。

 

護国寺門前の茶店よしのや

 当時、このあたりは江戸市中を外れた旧小石川村のおもかげが濃厚であって、門前につらなる茶店や茶屋もわらぶき屋根が多く、近藤勘四郎が久栄に指定してよこした〔よしのや〕という茶店は、護国寺前の道の西端、西青柳町の子育て稲荷のとなりにあった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P274

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護国寺を出て、不忍通りを雑司ヶ谷方面へ向かうと、首都高池袋線の護国寺出口がある。

 

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その首都高、護国寺出口のすぐ先、ビルの間に隠れてあるような稲荷が、弦巻稲荷神社。原作に出てくる、子育て稲荷とは、ここ。

 

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一説には、護国寺ができる以前、三代将軍家光が鷹狩りにきた折に参拝したといわれている古いお稲荷さんのようです(この稲荷の裏には腰かけ稲荷があり、家光が腰かけたのが由来とか)。

首都高の建設等で、場所は多少移されたと思われる。

江戸切絵図に書かれている場所では(細かく言えば)首都高護国寺入口あたりにあったと思えるが、それでもほぼ変わらない場所に今でもある。

この稲荷となりにあった茶店〔よしのや〕に、近藤勘四郎は久栄を呼び出す。

 

茶屋の離れで、近藤勘四郎の誘いに、久栄は「ばかなことを」と吐き捨て去ろうとすると、勘四郎は「屋敷へもどって、おどろくなよ」と。

 

久栄は〔よしのや〕を出るや、護国寺門前の通りを西へ・・・・・・雑司ヶ谷の方角へまっすぐに歩みだした。

と・・・・・・。

子育て稲荷の向うの土橋のたもとにしゃがみこみ、のんびり煙草をふかしていた百姓姿の中年男が、やれやれといったふうに立ちあがり、菅笠をかぶりはじめた。

その百姓男の前へさしかかった久栄が、何かを早くささやいた。

百姓がうなずく。

久栄は急ぎ足になり、わき目もふらずに去った。

百姓は、すれちがいに去る久栄を見返りもせず、ゆっくりと〔よしのや〕の前へ来て、

「茶をいっぺえもらおうかい」

土間の腰かけへ腰をおろしたものである。

この百姓の顔を笠の下からのぞいて見たら、そこに長谷川屋敷の門番・鶴蔵を見出すことになる。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P279-280

 鶴蔵は、勘四郎の行方をつきとめるべく、後をつけて行った。

 

久栄と鶴蔵が護国寺へ出て行ったあと、長谷川邸へ昨日手紙を持ってきた、鬼子母神・門前の茶店〔みょうがや〕の老婆が駆け込んできた。

久栄が浪人衆に取り巻かれ斬られたと。

屋敷の中が大騒ぎになっていると、茶店の老婆が幼女お順と共に消えた。

 

根津権現 総門前料理茶屋・日吉屋

鶴蔵に後をつけられていることも知らぬ近藤勘四郎は、大塚から駒込へ・・・・・・さらに本郷へ出て、

「根津権現の総門前にある日吉屋という料理茶屋へ入りましてござります」

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P290

 

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勘四郎と、盗賊・霧の七郎が打ち合わせをしていた根津権現総門前にある料理茶屋・日吉屋。

日吉屋は作者の創作の店だと思われるが、江戸時代この界隈には料理茶屋が立ち並び賑わいを見せ、曙の里と呼ばれていた。

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江戸の華名勝会 れ 九番[組] 河原崎権十郎/根津の摠門曙の里/根津

 

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今は、閑静な住宅街の中にある根津神社。4月〜5月にかけてつつじが咲き誇ることでも有名。

 

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 根津神社の社殿も、宝永3年(1706年)創建の当時のままの姿。社殿は国の重要文化財に指定されている。

明治に入って、東京大学医学部がすぐそばに設置されたため、根津門前の岡場所、遊郭は江東区東陽町の洲崎へ移転した。

 

 

巣鴨・庚申塚

勘四郎は白山から中仙道をまっすぐにすすみ、巣鴨の庚申塚へ出たものである。

ここは、江戸から板橋の宿場へ入る立場になっている。立場は、宿場の出入口にもうけられた茶店で、馬や人足、駕籠かきのたまり場でもある。

庚申塚の立場のうしろは、いちめんの畑地と森や林で、この中の細道をたどれば巣鴨村、滝野川村を経て、王子権現社や岩屋弁天へ通ずるというものさびしいところだ。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(3)』新装版「むかしの男」P290

巣鴨・庚申塚近くの百姓家に、長谷川平蔵に恨みを持つ、霧の七郎一味と、近藤勘四郎の隠れ家がある。

誘拐した平蔵の養女、お順をこの百姓家に閉じ込めていた。

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都電荒川線の停留所「庚申塚」のすぐ前に、猿田彦大神庚申堂がある。

 

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中には、「史跡 巣鴨の庚申塚」と書かれた碑が立っている。

 

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庚申塚のすぐ横からはじまる、巣鴨地蔵通商店街は、とげぬき地蔵などで賑わう、おばあちゃんたちの原宿。

 

モデルコース

東京メトロ千代田線「根津駅」→(徒歩)→根津神社

バス停「根津神社入口」→都バス上58(早稲田行き)→バス停「護国寺正門前」下車

護国寺→(徒歩)→弦巻稲荷神社(子育て稲荷)→(徒歩)→雑司ヶ谷鬼子母神

都電「鬼子母神前」→都電荒川線(三ノ輪橋方面)→都電「庚申塚」

庚申塚→(徒歩)→巣鴨地蔵通商店街→(徒歩)→JR巣鴨駅

 

鬼平犯科帳(三)

鬼平犯科帳(三)

 

 

むかしの男

むかしの男

 

 

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鬼平「泥鰌の和助始末」浅草、南新堀界隈を訪ねる

文春文庫 池波正太郎作 鬼平犯科帳 泥鰌(どじょう)の和助始末 より

鬼平犯科帳〈7〉 (文春文庫)

鬼平犯科帳〈7〉 (文春文庫)

 

 

この作品は、江戸市中を東西南北と広い範囲をせわしなく場面が入れ替わります。

とうてい散歩というようには回れないので、要所を抜粋して舞台となった界隈を少し探訪。

 

平蔵の息子、辰蔵が珍しく真面目に道場に通い剣術の稽古に励んでいる。

平蔵は「若さの気まぐれ」と気にもしていなかったが、そんなある日のこと、辰蔵から恐るべき剣法を見たと告げられた。

辰蔵の通う道場に、浪人態の五十ほどの「松田十五郎」という男が「稽古を願いたい」と訪ねて来たという。

 

浅草・奥山 亀玉庵

長谷川平蔵は、浅草・奥山の亀玉庵という蕎麦やへ 、剣友・岸井左馬之介を呼び出し、昨日、息子の辰蔵からきいた剣客のことを語ってきかせ、

「左馬は、どうおもう?」

「ふうむ・・・」

「刀の構えは、かならず下段。左足の指先が外側へじりじりとまわって右肩が出ると、相手は吸いこまれるように打ちかかる。それを待っていたとばかり・・・・・・」

「下段の刀が稲妻のごとく、相手の刀をはらいのけ、ただの一撃」

「うむ。坪井道場の面めん、いずれも歯がたたなかったという」

「銕さん。そりゃあ、まさに松岡重兵衛さんだよ」

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P155 

 

池波作品に、たびたび登場する浅草・奥山の亀玉庵(亀玉庵は作者の創作だと思われる)。

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現在、浅草寺境内の西側に「奥山」の案内板がある。

江戸の昔から、浅草寺の西北一帯は江戸の盛り場として、大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう場所であったらしい。

 

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現在でも奥山という住所はないが、浅草寺の西北一帯は、商店街や、昼間から空いている居酒屋街、大衆劇場や商業施設などがあり賑わっている。

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さわやかに晴れわたった秋空の下で、浅草観世音(金竜山・浅草寺)へ参詣の人びとが群れている奥山であったが、この亀玉庵の奥座敷はまことに物しずかで、西にひろがる浅草田圃の上を白鷺が一羽、ゆっくりと飛んで行くのが見えた。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P157 

 

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切絵図を見ると、浅草寺の北側は田園地帯だった。亀玉庵の奥座敷は物しずかで、西に広がる田圃が見えたというので、今の花やしきあたりにあったと設定しているのかもしれない。

 

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浅草花やしきは、日本最古の遊園地と言われるが、開園は1853年(嘉永6年)鬼平の活躍した時代より後になる。

 

この、平蔵と左馬之介のいる亀玉庵の数軒離れた茶漬屋弁多津に、2人が探してる浪人、松岡重兵衛が出てきて、田園を歩いていると後からついて来た泥鰌の和助に声をかけられる。

昔から松岡重兵衛と馴染みであった、和助は「もう一度、大仕事」をしてみないかと誘う。

 

和助は表向きは腕のいい大工職人だが、新築や改築等に入った屋敷や商家に密かに細工をし、後に押し入る時にらくらくと盗みを働く。細くて小さな泥鰌のように、どこへでも忍び込んでしまうというところから、泥鰌という異名が付いた。

 

お盗めの助けばたらきをする若き日の平蔵と左馬之介

継母の波津に憎まれ、本所三ツ目の屋敷からはじき出されたかたちになっていた平蔵は、ほとんど、おまさの父親がやっていた〔盗人酒屋〕に寝泊まりし、飲む打つ買うの明け暮れにおぼれこみ、彦十のような取巻きが三十人もいて、深川・本所一帯の無類どもと、それこそ

「喧嘩の絶え間が・・・・・・」

なかったものである。

当然、金がいる。いくらあっても足りない。

(ええ、もう、どうせ、長谷川の家はつげねえ身だ。落ちるところまで落ちてやれ)

平蔵は、彦十のもってきたはなしに乗った。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P174-175

 

長谷川平蔵の父、長谷川宣雄が京都町奉行の役職につく前に住んでいたと設定されている本所の屋敷や、平蔵が剣術の稽古に励んだ高杉銀平道場等については、「本所・桜屋敷」本所界隈を歩くでも記載↓。

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相模の彦十のはなしに乗って、お盗めの助けばたらきをすると決めた、若き日の平蔵と左馬之介は、彦十の手配した小舟を漕ぎだした。

大川(隅田川)へ舟を漕ぎ出した平蔵と左馬之介は、四ツ(午後十時)ごろに、大川をわたって、対岸の材木町の岸へ舟をつけた。

ここは駒形堂の北にあたり、当時は河岸に家もなく、苫をかぶせた小舟をつけたところで、すこしも怪しまれなかった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P183

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お盗めの助けばたらきをしていた平蔵と左馬之介が、舟をつけて盗賊一味を待っていた材木町は、現在の吾妻橋から駒形橋の間。

 

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東都八景浅草夕照 広重

江戸切絵図を見ると、材木町は駒形堂と吾妻橋の間に位置する。広重の東都八景浅草夕照は、大川の対岸がちょうど材木町あたりと思われる。

ここで待っていた平蔵を、盗賊の一人が平蔵の顔をおおっていた布を引きめくった。

これが、高杉道場に食客として住みつき、平蔵と左馬之介に特別に年を入れて稽古をつけてくれた松岡重兵衛だった。

 

 

南新堀の紙問屋 小津屋源兵衛

そのとき和助は、小津屋にねらいをつけ、ぬけ目なく、ひそかに〔盗み細工〕をほどこしていたのである。

〔豆州・熱海 今井半兵衛製〕の雁皮紙が看板の小津屋は、幕府の御用もうけたまわっているし、諸大名への出入りも多い。江戸に数ある紙問屋の中でも指折りの大店であった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P174-175

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江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図

南新堀とは、現在の中央区新川1丁目の日本橋川沿いを言った。

その霊巌島の堀川べりが南新堀町で、ここは茶、傘、酒、畳表などの諸問屋がびっしりとたちならび、その中に紙問屋〔小津屋源兵衛〕の店舗と住宅があった。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(7)』新装版「泥鰌の和助始末」P213

 

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現在の地下鉄茅場町の駅から、永代通りを永代橋に向かっていった辺りの湊橋から豊海橋にかけて。今はミツカン東京支社などがある。

 

小津屋に盗み細工を仕掛けた和助だが、まさか実の息子が小津屋に奉公にあがるとは思ってもおらず、以後小津屋の盗み細工のことは、きっぱり忘れていた。

そんなある日、小津屋に奉公にあがっていた実の息子の磯太郎が、店の金を横領したと濡れ衣を着せられ自殺する。小津屋の跡とり息子は、先代に可愛がられていた磯太郎を目の敵にしていた。

そこで、和助は恨みを晴らそうと小津屋へ、松岡重兵衛、不破の惣七一味と盗みに入る。

 

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和助は金よりも大事な書類・証文類をすべて盗み、大川で引き裂き捨てた。

後に、不破の惣七の裏切りにあい、松岡重兵衛と泥鰌の和助は殺される。

長谷川平蔵によって不破の惣七一味は捕らえられ、盗まれた金子は戻って来たが、和助が引き裂き捨てた書類・証文類がもとで小津屋は商売がうまくいかず倒産する。

 

 

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ちなみにアニメ版鬼平は、原作の「泥鰌の和助始末」を「わかれ道」と「泥鰌の和助始末」の二作品に分けている。

わかれ道

わかれ道

 

 

泥鰌の和助始末

泥鰌の和助始末

 

 

鬼平「大川の隠居」日本橋から吾妻橋界隈を船で行く

今回は、鬼平犯科帳6巻「大川の隠居」より

江戸橋から大川こと隅田川までを歩く・・・のではなく、今回は水上を船で訪ねます。

 

ある晩、長谷川平蔵が風邪をこじらせ寝込んでいるところに、あろうことか盗人が入り、亡父の形見の銀煙管を盗まれてしまう。

しばらくして、平蔵の病も癒え、市中見回りに岸井左馬之介と共に出る。

 

思案橋のたもとの船宿加賀屋

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江戸橋(東側、江戸橋JCT側から撮影)

平蔵と左馬之介の二人は日本橋の南詰から江戸橋へ出て渡り、思案橋のたもとの船宿加賀屋に入る。

 

二人は、日本橋の南詰から江戸橋へ出て、これを北へわたり、小網町の河岸道を、堀江・六軒町へ出た。

日本橋川からの入り堀にかかる思案橋のたもとに〔加賀屋〕という船宿がある。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P196 

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 思案橋のたもとに加賀屋という船宿があったという設定だが、現在、思案橋は入江が埋め立てられて存在しない。

 

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江戸橋JCT(東側、水天宮側から撮影)

思案橋界隈は、現在の首都高江戸橋JCTあたりだと思われる。

 

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名所江戸百景「日本橋えど橋」

名所江戸百景にもあるように、当時この辺りには、多くの船が集まり、船宿や大川(隅田川)へ出る屋形船などが多く停泊していたようだ。

 

思案橋の船宿から大川へ

平蔵は、船宿で一献傾けてから、大川へ舟で出てみようかと左馬之介を誘う。

頼んだ舟の、船頭は老いていた。

「大丈夫かね、平蔵さん。あんな年寄りで・・・・・・」

と、左馬之介が、

「まるで、日増しの焼竹輪のような船頭だな」

めずらしく、冗談をいった。

だが平蔵は、河岸をはなれたときの老船頭が竿をあつかう手さばきを見るや、にやりとして、

「左馬。この船頭なら竜巻が来たとて、びくともするものではないよ」

と、ささやいた。

(中略)

日本橋川を出た舟は、行徳河岸を右へまがり、三つ俣から新大橋をくぐって大川へ出た。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P198-199

 

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船宿のある思案橋から、友五郎と名乗る老いた船頭が、大川まで舟を出す。

原作では、日本橋川から右へまわりとあるが、左にまがらないと新大橋方面には向かない。誤記か、それとも船頭と客の向きの関係で反対に言ったのかは、わからない。

 

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日本橋川を出て、右ではなく左に曲がると、現在は隅田川大橋があり(当時はない)、上を首都高9号深川線が走る。

 

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現在の新大橋(北側から撮影)

「新大橋をくぐって大川へ出た」と記載されているように、大川=隅田川と思ってしまうが、昔は吾妻橋〜新大橋あたりまでを大川と言っていたふしがある。

新大橋がかけられたのが、元禄六年(1693)。一説によると五代将軍綱吉の生母桂昌院が庶民の不便を憐れみ新しく橋をかけるように将軍に言ったとも伝えられている。

すぐ近くの深川の萬年橋たもとに住んでいた松尾芭蕉は(現在も芭蕉庵跡がある)、新大橋が完成した時の喜びを句にして詠んでいる。

みな出て 橋をいただく 霜路哉 芭蕉

有りがたや いただいて踏む はしの霜 芭蕉

完成当時の、江戸庶民の嬉しさが伝わる名句だと思う。

当時は隣にある両国橋を大橋と呼んでいたため、新大橋としたそうだ。

 

 

 

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両国橋(隅田川から神田川へ入る辺りから撮影)

両国とは武蔵国と下総国。その両国にかかる橋。現在でもこの両国橋を境にして、都心側を靖国通り、千葉側を京葉道路と同じ国道14号だが名前が変わる。

両国橋まで来た時に岸井左馬之介は用があると、少し舟を降りる。

左馬之介を待っている間、平蔵と友五郎は煙草を吸うが、その時、友五郎が手にしていた煙管が平蔵の盗まれた煙管だった。

 

平蔵は、小房の粂八に一部始終を話し探らせると、友五郎は粂八の昔なじみの盗人、浜崎の友蔵だった。

後日、粂八も同様に、印籠を役宅から盗んで来たと友蔵に話す。粂八が再び印籠を役宅に戻し、友五郎も煙管を役宅に忍んで入り戻し、代わりに印籠を盗んでくるという遊びごとを繰り替えす。

平蔵は一人で、思案橋の船宿〔加賀屋〕へ行き、友五郎に舟を出させる。

舟は大川橋(のちの吾妻橋)をくぐり、尚も大川をさかのぼっていた。

西岸は、浅草・山之宿の町なみの向こうに、金竜山・浅草寺の大屋根が月光をうけて夜空に浮きあがり、東岸は、三めぐりの土手から長命寺、寺嶋あたりの木立がくろぐろとのぞまれる。

「旦那。明日は雨になります」

と、友五郎。

「何をいう。月がでているではないか」

「月よりも、大川の隠居のほうがたしかでございますよ」

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P218

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大川橋(現在の吾妻橋)の下からスカイツリー方面

大川橋は吾妻橋は、浅草の最寄りの橋でスカイツリーを一望できるというのもあって隅田川に架かる橋の中では、一番賑わっている。

 

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この吾妻橋界隈では、ひな祭りが近づくと、江戸流しびなが行われ幾千の紙で出来た雛人形が流される。

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大川の隠居

「大川の隠居?」

「ほれ、ごらんなせえ。あそこに出て来ましたよ」

友五郎が舟ばたを、手で拍子をとって叩きながら、大川の川面へ向って、

「おう隠居。久しぶりだなあ」

まるで、人にはなしかけでもするように声を投げると、川面が大きくうねった。

そこへ視線を移した平蔵が、おもわず、

「あっ・・・・・・」

と、いった。

川波のうねりが、たちまちに舟ばたへ近寄ったかとおもうと、そのうねりの間から魚の背びれあらわれた。

魚も魚、平蔵と友五郎が乗っている小舟ほどもあろうかとおもわれる、大鯉の背びれなのである。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P219

 

 

友五郎と平蔵が見た、大川の隠居こと大きな鯉。

原作で大川の隠居を二人が見たとされる場所のすぐ近くの川沿いに、公園がある。

最近、遊具もリニューアルされ、大きなくじらの滑り台が出来た。

近所の子供や親御さんたちは皆「くじらの滑り台」と言うが、自分はあえて「大川の隠居」と言っている(思っている)。

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今日も、大川の隠居は、子供達に大人気だ。

 

 

鬼平犯科帳〈6〉 (文春文庫)

鬼平犯科帳〈6〉 (文春文庫)

 

 

他参考図書:橋から見た隅田川の歴史(飯田雅男著 文芸社)

 

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船橋屋くず餅 きな粉と黒蜜をたっぷりかけて食べる 亀戸天神前本店

船橋屋くず餅 きな粉と黒蜜をたっぷりかけて食べる 亀戸天神前本店

 

創業は文化二年(1805年)

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亀戸天神の門前に船橋屋が店を出したのは、文化二年(1805年)

(十一代将軍徳川家斉の頃で、ちょうどこの年、幕府はロシア皇帝の親書をもって来航した特使レザノフを半年待たせた上、追い返してしまう。これが後の露寇事件を招く。)

下総国の船橋で豆腐屋を営んでいた勘助さんという人が、当時、亀戸天神前に茶店が少ないことに目をつけ創業した。

その勘助さんの地元の船橋は、良質な小麦の産地。湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜きな粉をかけて餅を作ったところ、それが評判を呼び江戸の名物に数えられるようになったそうだ。

 

亀戸天神本店 

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亀戸天神本店は、持ち帰りだけでなく、食べていける喫茶も併設している。

 

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 席に着く前に、注文をして木札をもらう。その木札を目安に甘味を運んでくれる。

 

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船橋屋の看板は、作家の吉川英治が揮毫した。

今も亀戸天神前本店の喫茶室に、その看板が掲げられている。

 

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ここ本店は、昭和20年3月10日の東京大空襲で全焼したが、昭和28年には檜造りの今の本店を建て、60年以上たった2016年11月に改装リニューアルし、現在に至る。

 

豆くず餅

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いつもは、くつ餅だけど、今回は豆くず餅を注文。

意外なことだけど、くず餅は和菓子には珍しい発酵食品。澱粉を十五ヶ月もの間、自然発酵させる。それゆえ弾力があり、少し粘りがあり、それでいて柔らかい。

 

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お土産で、、ここのくず餅をいただくと、ついつい先にきな粉をかけて、黒蜜をかけて食べてしまうが、ここ本店で出されるくず餅のように、黒蜜をかけてからきな粉をかけて食べるのが本道。

 

あんみつ

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くず餅が船橋屋の1番人気商品だけれど、お店の人曰く次に人気なのが、あんみつだとか。

寒天をテングサからちゃんと作っているそうだ。食べてみると、やや弾力があり、とても美味。

それとやはり、黒蜜が美味しい。

吉川英治は執筆に行き詰まると、よくパンにここの黒蜜を付けて食べていたようです。

 

 

開業から途中、維新、関東大震災、をくぐりぬけたものの東京大空襲で全焼、澱粉を貯蔵していた大樽も灰となる。

何気なくいつも賞味させてもらっているが、ここまでやってこられたご苦労も並大抵のものではないと思う。

いつまでも残ってもらいたい江戸の味です。

 

船橋屋 亀戸天神前本店

〒136-0071 東京都江東区亀戸3−2−14

TEL:03−3681−2784

喫茶:9:00〜17:00

持ち帰り:9:00〜18:00

 

 

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