今回は、この世界の片隅にを歩くの第2回め。
原作、アニメ版の進行と共にすすめていきます。
2回目は、すずさんの幼少期から嫁入り前までの日々から、江波界隈を少し。
江波山から草津方面を眺める(原作、アニメ版:干上がった海を渡って草津のおばあちゃん家へ)
江波山から草津方面を撮影
原作(上巻17P〜大潮の頃)、アニメ共に夜満潮のシーンからはじまる。翌朝になると・・・
すず「ゆうべの海こんなじゃったのに。大潮の今朝と来たらこうじゃ」
と言って遠浅の海が干上がっており、お兄ちゃん、すず、すみの三兄弟が草津までお土産のスイカを持って渡るシーン。
現在は埋め立てられており、当時の面影はない。
盆灯篭(お墓まいりシーン)
ここで、ちょっと場所ではないけど広島の盆灯篭について。
作中で草津の祖母方へ、遅れてすずの両親が到着する。その時に、すずのお父さんの手に持っているのが盆灯篭。おそらく街で買ってきたものだろう。
山を登って墓参りするシーンでも、盆灯篭を持っている。
広島では昔から、お盆に紙でできた灯篭をお墓にお供えする風習がある。
はじまりは諸説あるけど、有名な説は・・・
「その昔、広島城下紙屋町の紙屋の娘がなくなり、父親が供養にと石の灯篭を建てたかった。しかしそんなお金もあるはずがなく、しかたなく紙で作った灯篭を建てた」というもの。
お盆時期、広島ではスーパーやコンビニでもこの盆灯篭は販売される。しかし近年はゴミ処理の問題等で紙灯篭も年々減ってきているとか。
海神宮(アニメ版:13年2月 海苔を立てかけるシーン)
「13年2月」とタイトルがあって、次の場面で江波港の海神宮(かいじんぐう)が映る。
海神宮。江波港の入り口に鎮座。海の安全を願って江戸時代に創建された。
現在の社殿は安政7年(1860年)のもの。爆心地から3.36kmの距離にあり。被爆建物。
旧広島地方気象台(アニメ版:海苔を立てかけるシーン)
お兄ちゃん「こづかいまで我慢せーや。お前がえっとラクガキせにゃ すむ話じゃろうが」
と兄、要一がコートを着ながら、鉛筆代をねだるすずに小言を言うシーン。その後ろに見えているのが、江波山気象台こと旧広島地方気象台。
昭和9年に建てられ、昭和62年に八丁堀の合同庁舎に移転するまで使われていた。
爆心地から3.63kmの距離にあり爆風を受けて曲がった窓枠や飛散したガラスが突き刺さったままの壁など、今なお被爆の痕跡が残る。
現在は、広島市江波山気象館。全国でも珍しい気象の博物館。
松下商店(アニメ版:すずとすみが走って登校しているシーン)
すずさんと妹のすみちゃんが走って登校しているシーンで出てくる角の松下商店。
姉妹はこの前を走って登校する。
現在の江波小学校は、江波山の麓(松下商店から南西)にあるが、地元の方がおっしゃるには、当時は現在の児童館あたり(松下商店の北側)にあったらしい。姉妹が走って登校するシーンも正確に再現されているようでした。
江波山(水原のために、白いウサギが跳ねる海の絵を描いてあげる)
江波山を歩きまわっておそらくこの辺かなと思って海の方を見るも、現在は埋立地とビル等の建物に苛まれて、あまり見渡せなかった。
ということで、もう少し高いところならばと、江波気象館の屋上へ上がって撮影。
作中にも描かれている三角山がわずかに見てとれましたが、やはり現在は白いウサギがが跳ねているような白波を見れるような感じでは到底ありません。
宇品の転覆事故
水原「うさぎがよう跳ねよる。正月の転覆事故もこんな海じゃった」
水原哲のいう転覆事故は、実際にあった事故のようです。
当時の事件事故を記録した大呉市民史にも
宇品沖惨事
二日午後四時四十分ごろ、江田島汽船みどり丸(十四トン)屠蘇客およそ八十名を乗せ能美島に向う途中、峠島付近で強風をうけ右舷に傾き約五分で沈没、三日正午までに五十一名救助(うち十一名死亡)、同朝呉鎮掃海艇数隻回航、潜水夫を入れ、船体を引き揚げ、船室内から二十一死体を収容、なお九名不明。
大呉市民史昭和篇(中巻一)社会編 昭和十三年〔一月〕 三一九
とあった。この事故で、水原は江田島の海軍兵学校に行っていた兄を失う。
海軍兵学校に入ることは、東京帝大に入るよりもある意味難しいといわれいた時代。
水原が「親が呑んだくれている家には帰りたくない」と言うように、それだけ優秀な息子を不慮の事故で亡くした両親の喪失感も尋常ではなかったようだ。
水原は、すずに新しい鉛筆を差し出す。
水原「兄ちゃんのじゃけ。ようけあるけえ。」
この一言も、優秀な息子に惜しまずたくさんの鉛筆を買い与えていた事が伺える。
江波沖の埋め立て
江波山をさまよっていると、廣島工業港魚介藻類慰霊碑を発見。
昭和15年に江波沖76万平方メートルを埋め立てる起工式が行われ、埋没し生命を絶つ魚介藻類へ回向するため建てたとのこと。
ちなみに作中では、白うさぎのスケッチの話が出てくるのは昭和13年の出来事として描かれているので、その2年後には埋め立て事業がはじまる。
白うさぎのスケッチから5年後の「昭和18年12月」すずに縁談話が来る。
家に帰り秀作を覗き見た後、すずは江波山で身を隠し
すず「困ったね〜嫌なら断りゃええ言われても嫌かどうかもわからん人じゃったね〜」
と言って海を見つめている場面では、もうすでに江波沖は埋め立てられていて新しく工場を建設している様子が描かれている。
となりの古江、遠くの満州
ちょっと話は前後するけど。
草津の家でお昼を食べているシーンで、箸の持ち方で近くにお嫁に行くか遠くにお嫁に行くかという場面がある。
千鶴子(すずの従妹)「おばあちゃんはどっから来んさったん?」
イト(おばあちゃん)「わしゃ古江よ〜ね」
広電でも古江は、草津の隣。
すみ「隣の古江から草津でそんとなじゃ、満州やなんかへいっての人は火箸でも足らんね」
江波沖の埋め立てで、すずさん一家も海苔を作ることができなくなってしまったように、当時埋め立てで職を失う人が多かった。
資料によると特に江波では満州に開拓に出る人も多く、それゆえ満州へ嫁ぐ人も多かったと思われる。
丸子山不動院(アニメ版:草津から家へ船で帰るシーン)
丸子山不動院(画像右端の山の上お堂)
草津から、縁談のため急ぎ江波の家まで舟に乗せてもらい帰るシーンで、小高い山の上に丸子山不動院が映る。
文化5年(1808年)江波の仲屋幸助という船乗りが豊後国(今の大分県)で、漁師より海中より網にかかったという不動明王をもらい受け、丸子山にお堂を建てて祀る。
江波の皿山(すずさんの実家、浦野家近く)
江波気象館より江波の皿山(写真中央手前)を写す。
すずさんの実家、浦野家の背後に江波の皿山が写っている。
広電の江波停留場の先、江波車庫と皿山。
アニメ版では皿山の片側が禿山のようになっているが、これは当時ここが陸軍の射撃場になっていたため。戦中は高等女学校の生徒が実弾で訓練していたとの記録もあるとか。原爆投下直後、この射撃場でも多くのご遺体を荼毘に付したそうです。
長くなったので、この辺までで。
まだまだ江波は書き足りないので、時間があれば番外編でも書こうかなと思います。
参考資料
「この世界の片隅に 上」こうの史代 双葉社
「この世界の片隅に 廣島 昭和8年 中島本町ロケ地MAP」広島フィルム、呉地域フィルムコミッション発行
「この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集 」双葉社
「大呉市民史昭和篇(中巻一)社会編」弘中柳三 大呉市民史刊行委員会
「ヒロシマの被爆建造物は語る」広島市
「目で見る 広島市の100年」郷土出版社
「写真アルバム 広島市の昭和」樹林舎
撮影機器:オリンパスOM-D E-M10 Mark III ,M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 EZ