夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

鬼平「大川の隠居」日本橋から吾妻橋界隈を船で行く

今回は、鬼平犯科帳6巻「大川の隠居」より

江戸橋から大川こと隅田川までを歩く・・・のではなく、今回は水上を船で訪ねます。

 

ある晩、長谷川平蔵が風邪をこじらせ寝込んでいるところに、あろうことか盗人が入り、亡父の形見の銀煙管を盗まれてしまう。

しばらくして、平蔵の病も癒え、市中見回りに岸井左馬之介と共に出る。

 

思案橋のたもとの船宿加賀屋

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江戸橋(東側、江戸橋JCT側から撮影)

平蔵と左馬之介の二人は日本橋の南詰から江戸橋へ出て渡り、思案橋のたもとの船宿加賀屋に入る。

 

二人は、日本橋の南詰から江戸橋へ出て、これを北へわたり、小網町の河岸道を、堀江・六軒町へ出た。

日本橋川からの入り堀にかかる思案橋のたもとに〔加賀屋〕という船宿がある。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P196 

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 思案橋のたもとに加賀屋という船宿があったという設定だが、現在、思案橋は入江が埋め立てられて存在しない。

 

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江戸橋JCT(東側、水天宮側から撮影)

思案橋界隈は、現在の首都高江戸橋JCTあたりだと思われる。

 

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名所江戸百景「日本橋えど橋」

名所江戸百景にもあるように、当時この辺りには、多くの船が集まり、船宿や大川(隅田川)へ出る屋形船などが多く停泊していたようだ。

 

思案橋の船宿から大川へ

平蔵は、船宿で一献傾けてから、大川へ舟で出てみようかと左馬之介を誘う。

頼んだ舟の、船頭は老いていた。

「大丈夫かね、平蔵さん。あんな年寄りで・・・・・・」

と、左馬之介が、

「まるで、日増しの焼竹輪のような船頭だな」

めずらしく、冗談をいった。

だが平蔵は、河岸をはなれたときの老船頭が竿をあつかう手さばきを見るや、にやりとして、

「左馬。この船頭なら竜巻が来たとて、びくともするものではないよ」

と、ささやいた。

(中略)

日本橋川を出た舟は、行徳河岸を右へまがり、三つ俣から新大橋をくぐって大川へ出た。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P198-199

 

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船宿のある思案橋から、友五郎と名乗る老いた船頭が、大川まで舟を出す。

原作では、日本橋川から右へまわりとあるが、左にまがらないと新大橋方面には向かない。誤記か、それとも船頭と客の向きの関係で反対に言ったのかは、わからない。

 

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日本橋川を出て、右ではなく左に曲がると、現在は隅田川大橋があり(当時はない)、上を首都高9号深川線が走る。

 

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現在の新大橋(北側から撮影)

「新大橋をくぐって大川へ出た」と記載されているように、大川=隅田川と思ってしまうが、昔は吾妻橋〜新大橋あたりまでを大川と言っていたふしがある。

新大橋がかけられたのが、元禄六年(1693)。一説によると五代将軍綱吉の生母桂昌院が庶民の不便を憐れみ新しく橋をかけるように将軍に言ったとも伝えられている。

すぐ近くの深川の萬年橋たもとに住んでいた松尾芭蕉は(現在も芭蕉庵跡がある)、新大橋が完成した時の喜びを句にして詠んでいる。

みな出て 橋をいただく 霜路哉 芭蕉

有りがたや いただいて踏む はしの霜 芭蕉

完成当時の、江戸庶民の嬉しさが伝わる名句だと思う。

当時は隣にある両国橋を大橋と呼んでいたため、新大橋としたそうだ。

 

 

 

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両国橋(隅田川から神田川へ入る辺りから撮影)

両国とは武蔵国と下総国。その両国にかかる橋。現在でもこの両国橋を境にして、都心側を靖国通り、千葉側を京葉道路と同じ国道14号だが名前が変わる。

両国橋まで来た時に岸井左馬之介は用があると、少し舟を降りる。

左馬之介を待っている間、平蔵と友五郎は煙草を吸うが、その時、友五郎が手にしていた煙管が平蔵の盗まれた煙管だった。

 

平蔵は、小房の粂八に一部始終を話し探らせると、友五郎は粂八の昔なじみの盗人、浜崎の友蔵だった。

後日、粂八も同様に、印籠を役宅から盗んで来たと友蔵に話す。粂八が再び印籠を役宅に戻し、友五郎も煙管を役宅に忍んで入り戻し、代わりに印籠を盗んでくるという遊びごとを繰り替えす。

平蔵は一人で、思案橋の船宿〔加賀屋〕へ行き、友五郎に舟を出させる。

舟は大川橋(のちの吾妻橋)をくぐり、尚も大川をさかのぼっていた。

西岸は、浅草・山之宿の町なみの向こうに、金竜山・浅草寺の大屋根が月光をうけて夜空に浮きあがり、東岸は、三めぐりの土手から長命寺、寺嶋あたりの木立がくろぐろとのぞまれる。

「旦那。明日は雨になります」

と、友五郎。

「何をいう。月がでているではないか」

「月よりも、大川の隠居のほうがたしかでございますよ」

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P218

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大川橋(現在の吾妻橋)の下からスカイツリー方面

大川橋は吾妻橋は、浅草の最寄りの橋でスカイツリーを一望できるというのもあって隅田川に架かる橋の中では、一番賑わっている。

 

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この吾妻橋界隈では、ひな祭りが近づくと、江戸流しびなが行われ幾千の紙で出来た雛人形が流される。

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大川の隠居

「大川の隠居?」

「ほれ、ごらんなせえ。あそこに出て来ましたよ」

友五郎が舟ばたを、手で拍子をとって叩きながら、大川の川面へ向って、

「おう隠居。久しぶりだなあ」

まるで、人にはなしかけでもするように声を投げると、川面が大きくうねった。

そこへ視線を移した平蔵が、おもわず、

「あっ・・・・・・」

と、いった。

川波のうねりが、たちまちに舟ばたへ近寄ったかとおもうと、そのうねりの間から魚の背びれあらわれた。

魚も魚、平蔵と友五郎が乗っている小舟ほどもあろうかとおもわれる、大鯉の背びれなのである。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(6)』「大川の隠居」P219

 

 

友五郎と平蔵が見た、大川の隠居こと大きな鯉。

原作で大川の隠居を二人が見たとされる場所のすぐ近くの川沿いに、公園がある。

最近、遊具もリニューアルされ、大きなくじらの滑り台が出来た。

近所の子供や親御さんたちは皆「くじらの滑り台」と言うが、自分はあえて「大川の隠居」と言っている(思っている)。

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今日も、大川の隠居は、子供達に大人気だ。

 

 

鬼平犯科帳〈6〉 (文春文庫)

鬼平犯科帳〈6〉 (文春文庫)

 

 

他参考図書:橋から見た隅田川の歴史(飯田雅男著 文芸社)

 

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船橋屋くず餅 きな粉と黒蜜をたっぷりかけて食べる 亀戸天神前本店

船橋屋くず餅 きな粉と黒蜜をたっぷりかけて食べる 亀戸天神前本店

 

創業は文化二年(1805年)

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亀戸天神の門前に船橋屋が店を出したのは、文化二年(1805年)

(十一代将軍徳川家斉の頃で、ちょうどこの年、幕府はロシア皇帝の親書をもって来航した特使レザノフを半年待たせた上、追い返してしまう。これが後の露寇事件を招く。)

下総国の船橋で豆腐屋を営んでいた勘助さんという人が、当時、亀戸天神前に茶店が少ないことに目をつけ創業した。

その勘助さんの地元の船橋は、良質な小麦の産地。湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜きな粉をかけて餅を作ったところ、それが評判を呼び江戸の名物に数えられるようになったそうだ。

 

亀戸天神本店 

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亀戸天神本店は、持ち帰りだけでなく、食べていける喫茶も併設している。

 

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 席に着く前に、注文をして木札をもらう。その木札を目安に甘味を運んでくれる。

 

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船橋屋の看板は、作家の吉川英治が揮毫した。

今も亀戸天神前本店の喫茶室に、その看板が掲げられている。

 

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ここ本店は、昭和20年3月10日の東京大空襲で全焼したが、昭和28年には檜造りの今の本店を建て、60年以上たった2016年11月に改装リニューアルし、現在に至る。

 

豆くず餅

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いつもは、くつ餅だけど、今回は豆くず餅を注文。

意外なことだけど、くず餅は和菓子には珍しい発酵食品。澱粉を十五ヶ月もの間、自然発酵させる。それゆえ弾力があり、少し粘りがあり、それでいて柔らかい。

 

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お土産で、、ここのくず餅をいただくと、ついつい先にきな粉をかけて、黒蜜をかけて食べてしまうが、ここ本店で出されるくず餅のように、黒蜜をかけてからきな粉をかけて食べるのが本道。

 

あんみつ

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くず餅が船橋屋の1番人気商品だけれど、お店の人曰く次に人気なのが、あんみつだとか。

寒天をテングサからちゃんと作っているそうだ。食べてみると、やや弾力があり、とても美味。

それとやはり、黒蜜が美味しい。

吉川英治は執筆に行き詰まると、よくパンにここの黒蜜を付けて食べていたようです。

 

 

開業から途中、維新、関東大震災、をくぐりぬけたものの東京大空襲で全焼、澱粉を貯蔵していた大樽も灰となる。

何気なくいつも賞味させてもらっているが、ここまでやってこられたご苦労も並大抵のものではないと思う。

いつまでも残ってもらいたい江戸の味です。

 

船橋屋 亀戸天神前本店

〒136-0071 東京都江東区亀戸3−2−14

TEL:03−3681−2784

喫茶:9:00〜17:00

持ち帰り:9:00〜18:00

 

 

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鬼平「瓶割り小僧」 神谷町〜麻布鼠坂界隈を歩く

今回は、著者池波正太郎自身が選んだ鬼平五選の1つでもあり「瓶割り小僧」の舞台、神谷町〜麻布鼠坂界隈を歩く。

 

石川の五兵衛を捉えたものの、一向に素性を吐かない五兵衛。

長谷川平蔵も、どこかで見た男とは思っていたが、思い出せない。

そんなある時、落とした湯呑みが割れた音で、平蔵は20年前、神谷町の小さな瀬戸物屋であった事を思い出す。

 

神谷町の小さな瀬戸物屋

場所は、芝の神谷町であった。神谷町は芝の増上寺の西側にあたり、寺院や大名・武家屋敷が多い。

その日。

平蔵は、麻布に住む旗本・曽我大膳方へ所用があり、帰途は坂を下って神谷町へ出た。

例によって、気軽な平蔵は紋付の羽織・袴の姿ながら共を従えてはいない。

坂を下った右手に、亡父の代から知り合いの、刀の研師・竹口惣助の家がある。

(中略)

語り合ううちに、道をへだてた向う側の、小さな瀬戸物屋の前で、事件が起こった。

 

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(21)』「瓶割り小僧」P58

 

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この江戸切絵図(芝愛宕下絵図)で見ると、左下が麻布になる。

原作では、麻布で用を済ませ坂を下って神谷町へ出たとしか書いていない。

切絵図で麻布方面から、神谷町へ出る道に「ガン木坂」と読める坂がある。

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今でも、国道1号桜田通りから、麻布台1丁目の信号を入った所に「雁木坂」は残っている。

坂の説明には、階段になった坂を一般に雁木坂というそうだが、敷石が直角に組まれていたからという説も紹介している。

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坂の一部は、敷石を直角に組んでいたという説を表現している。

坂とはこの雁木坂なのかどうなのかは記載がないのでわからないが、坂を下った右手に刀の研師の家があり、道を隔て向かい側の小さな瀬戸物屋で、子供の五兵衛は、瀬戸物屋の梅吉を言い負かす。

 

鼠坂

坂をのぼり切った道は、六本木から竜土町へと通じてい、夕暮れどきの忙しげな人通りがあったけれども、五兵衛は道を突切り、鼠坂へかかった。

このあたりは、崖地が多く、日中でも、あまり人が通らぬ。

木立が鬱蒼としていて、風も絶えているのに、落葉が坂道の上をゆるやかに舞い落ちてくる。

腹が減ってきたらしく、五兵衛は小走りに走り出した。

と、そのとき・・・・・・。

崖下の小径から鼠坂へ走り出て来た浪人・赤松小弥太が、

「待て、こいつ」

いきなり、五兵衛を突き飛ばした。

文春文庫 池波正太郎『鬼平犯科帳(21)』「瓶割り小僧

 

 

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竜土町(りゅうどちょう)は戦後まであった旧町名で、今のミッドタウン界隈。

その竜土町へ通づる道は、現在の外苑東通りと思われる。

 

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現在、麻布郵便局と外務省飯倉公館の道を挟んで向かい側に坂がある。

 

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坂を下って行くと、島崎藤村が18年間(大正7年〜昭和11年)住んでいた旧居跡がある。

藤村の小説「嵐」も、鼠坂が舞台になっている。

 

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しばらく小道を行くと、車止めのある坂に出る。ここに鼠坂の案内があった。

案内には、「細く長い道を江戸でねずみ坂と呼ぶふうがあった」と記されている。

ちょうど宅配業者の方が車を降り、車も通れない鼠坂を下って荷物を届けていた。

 

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昭和50年代の拡張工事前は、もっと狭い道だったようだ。江戸時代は、さらに狭かったかもしれない。

(鼠坂は、他にも有名な所では、文京区の小日向と新宿区の納戸町に現在もある。その2つの鼠坂も現在でも狭く細長い坂道。)

この麻布の鼠坂は、池波さんにとってお気に入りだったのか、あまり有名な坂ではないけれど鬼平シリーズでは、「麻布ねずみ坂」(文庫版3巻)、 「浮世の顔」(文庫版14巻)、「麻布一本松」(文庫版21巻)などと、たびたび登場する。

 

狸穴

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鼠坂を下ったところに、港区立狸穴公園がある。

狸穴と書いて「まみあな」と読む。

 

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公園の中には、狸穴稲荷大明神。

狸穴だけど狐のお稲荷さん。

 

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すぐ近くには、狸穴坂

案内には「まみとは雌ダヌキ、ムササビ、アナグマの類で、昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」とあった。

 

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狸穴坂を登ると、ロシア大使館があり、先ほどの外苑東通りに戻る。

 

鬼平犯科帳(二十一)

鬼平犯科帳(二十一)

 

 

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鬼平のTV時代劇(吉右衛門版)も、アニメ版もエンディングテーマが良い

鬼平のTV時代劇(吉右衛門版)も、アニメ版もエンディングテーマが良い

鬼平犯科帳TV時代劇版 エンディングテーマ

鬼平犯科帳TV時代劇版は、火付盗賊改方長官の長谷川平蔵役を

  • 松本幸四郎(八代目)
  • 丹波哲郎
  • 萬屋錦之介
  • 中村吉右衛門(二代目)

と、名だたる名優が演じていた。

(今、千葉テレビや神奈川テレビで丹波哲郎版や萬屋錦之介版をやっているのでたまに録画して見ています。)

 

その中でも、やはり二代目中村吉右衛門版鬼平のエンディングテーマが良い。

Gipsy Kings(ジプシーキングス)の「inspiration」というインストゥルメンタル曲。

究極ベスト~エッセンシャル・ジプシー・キングス

究極ベスト~エッセンシャル・ジプシー・キングス

 

ジプシー・キングスは、フランスのアーティストで、キリンの淡麗のCMの「ボラーレ」など、日本でもCMのテーマソングなどにもよく使われてる。

1988年のファーストアルバム「ジプシー・キングス」に、このinspiration」が収録され、中村吉右衛門版鬼平の第1シリーズ(1989年〜)から、ずっと使われてきた。 

 

大の時代劇好きだった子供の頃、このエンディングテーマには違和感を感じていた。時代劇とはあまりにかけ離れた曲調で、正直言うとあまり馴染めなかった。

その頃、ビデオに録った時代劇を、テーマソング(オープニングもエンディングも)とクライマックスの殺陣シーンをテープレコーダーに編集して入れて聞いていたけど、鬼平のエンディングテーマだけは、入れていなかったように記憶している。

でも、少し大人になった頃から良さがわかってきた。やはり聞けば聞くほど味がある。

バックで映る江戸時代を模した情景もよく、何度見ても最後まで見入ってしまう。

 

 

 アニメ「鬼平」エンディングテーマ

そして2017円1月から4月まで深夜に放送していた「アニメ版鬼平」のエンディングテーマは、由紀さおりさんが歌う「そして・・生きなさい」 

作詞は、テレサテンが歌っていたことで有名な「つぐない」や「時の流れに身をまかせ」 を作詞した、荒木とよひさ先生。

作曲は、多くのアニメ音楽を手がけた、自称「アニメ屯田兵」(wikiより)こと田中公平先生と、とても豪華。

 

人は夢から生まれた生き物

青空がこんなに切ないなんて

過去も未来も瞬き一つの短い命と知っているから 

時よ生まれ変わったら 一春の花でいい

 そして生きなさい

そして愛されて・・・

 

「そして・・生きなさい」歌:由紀さおり

作詞:荒木とよひさ 作曲:田中公平 編曲:川村竜 より

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個人的なことだけど、この曲を聴いた時に「青空がこんなに切ないなんて」という箇所が、自分も常々感じていることだったので、すごく共感し、曲を購入してダウンロードした。

 

そして・・生きなさい

そして・・生きなさい

 

 

するとTV版にはない、2番の歌詞もすごく良かった。 

 

人は自由に旅する生き物

星空がこんなに寂しいなんて

風の行方に心が冷めても

過ぎ行く季節と知っているから

時よ生まれ変わったら

一冬の星でいい

そして生きなさい

そして輝いて・・・

 

そして・・生きなさい」歌:由紀さおり

作詞:荒木とよひさ 作曲:田中公平 編曲:川村竜 より

 

珍しく飽きずに、何度も何度もリピートして聴かせていただいております。

 

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浅草の地名の由来。チベット語?アイヌ語?説は本当か?

浅草の地名の由来は、チベット語か?アイヌ語か?

 

f:id:odekakeiku:20170214202231j:plain先日、浅草寺の境内で歴史散歩をされているグループがあった。

案内役と思われる年配の男性の方が「実は、浅草の名前の由来はチベット語だっていう説があるんですね〜」と説明されていた。

 

 

f:id:odekakeiku:20180520112014j:plainたしかに、浅草とチベット語で思い出すのが、浅草神社で三社祭の時にだけ奉納されるびんざさら舞

この楽器の起源はチベットで、「ビンザ・サラ」チベット語「振り動かすと音を出す木」という意味だとか。

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話は戻して、自分も何度か聞いたことのある「浅草の地名の由来はチベット語」説。

「浅草の地名の由来はチベット語」説は本当にあるのか?いつ頃から誰が言い出したのか?

アイヌ語から来たという説も聞いたことがある。

浅草の地名の由来については、個人的に昔から少し気になっていたので図書館で調べてみた。

 

角川日本地名大辞典 13 東京都 角川書店

角川日本地名大辞典 13 東京都

角川日本地名大辞典 13 東京都

 

 地名と言えば、昔からこの本。

角川日本地名大辞典 13 東京都

各都道府県に1巻、全47巻ある。

この「13巻 東京都」も1,200ページを超える分厚い辞典だ。

 

あさくさ 浅草<台東区>

〔中世〕鎌倉〜戦国期に見える地名。豊島郡のうち。

深大寺(調布市)と並び、奈良期以来の由来を伝える古刹金龍山伝法院浅草寺を中心とする地域称。

寺名が転化したもので、早く「吾妻鏡」養和元年7月3日条には、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)本殿造営に「浅草大工字郷司」が起用された旨が見える。

角川日本地名大辞典13東京都 P59 角川書店 (オンデマンド版)

 

地名由来も事細かく載っている角川地名大辞典には、意外にも浅草寺の寺名が転化したものとしか記載されていなかった。

他にも、浅草寺の創建など細かく説明されているが、浅草の由来までは見つけられなかった。

f:id:odekakeiku:20170214202251j:plainたしかに金龍山伝法院浅草寺は、観音様を本尊とし、元々は天台宗の寺院だった。

天台宗といえば、開祖最澄が密教を初めて日本に伝えたと言われている。

天台宗、密教、チベット語・・・とつながらなくもない気もする。

自分も10年以上も前、チベットを旅して寺院巡りをしたが、チベットは観音菩薩が降り立った地とされ、観音菩薩とチベットとは切っても切れない。それにダライ・ラマ法王も観音菩薩の化身とされている。

 

 

東京の地名由来辞典 東京堂出版

東京の地名由来辞典

東京の地名由来辞典

 

 続いて、「東京の地名由来辞典」というタイトルからして直球本。

ちょうど偶然にも表紙の装丁も浅草寺の雷門。

これは期待できそうだ。

 

 浅草 あさくさ (台東区)

浅草の称は、「吾妻鏡」に、治承五年(1181)に鶴岡八幡宮の造形に際し、浅草の大工を召すように沙汰したと記されているのが初見とされている。

地名としての浅草の由来は定かではないが、草深い武蔵野の内で草のあまり茂っていない地だったため、浅草(浅茅)などと言ったとするのが、もっとも有力な説となっている(江戸往古図説・江戸砂子・求涼雑記)。

他にも、麻草や藜(あかざ)などを起源とする説をはじめ、アイヌ語やチベット語を語源とする説などもあるが、いずれも信用性に乏しい

(以下略)

東京の地名由来辞典 P13 作者:竹内誠 東京堂出版

 

 アイヌ語やチベット語を語源とする説もあるという記載はあったが、こちらも残念ながら詳細までは、わからなかった。

 

 

台東区史 通史編II 台東区刊

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先日、谷中の「谷中いろは茶屋」を調べた時に参考にした区史。

 

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もしや地名由来も詳しく載っているかと思い再び開いてみた。

 

 

さすがは、区史!

地名のいわれの項に、浅草のいわれについても事細かく記載されていた。

由来の定説では、先の2書の記載と同じく「吾妻鏡」や「江戸砂子」「江戸往古図説」の引用で説明しているが 

 

浅草の地名由来については、定説の他に、幾つかの説がある。

浅草寺の網野宥俊は『浅草寺史談抄』の中で、それら諸説をつぎのように分類している。

(イ)浅芝草を起源とする説

(ロ)アイヌ語を起源とする説

(ハ)チベット語を起源とする説

(ニ)麻草を起源とする説

(ホ)アカザ草を語源とする説

(ヘ)その他の雑節について

台東区史 通史編 II P38

 

今まで上がっていた定説以外にも、こんなに異説がある。

落語ではないが「〜ではないかなと思うんだよ」と庶民でも個人的な見解を言えば、立派な説になりそうだ。

それだけ昔から、身近な「浅草」の地名の由来は、江戸庶民の関心ごとの1つだったのかもしれない。

 

アイヌ語説から見ていく

(ロ)の説はアイヌ語のアツクサにちなむという。"アツ"は"海""クサ"は"越す"を意味する語だそうですある。すると、"アツアクサ"は"海を越す"という意味になる。

台東区史 通史編 II P38 

 有名な話では、東北や北関東にアイヌ語由来の地名が残っている。

浅草も江戸以前は、浅草湊と呼ばれ海運の拠点だった。入江だったと考えれば、海を越すところ???なのかな。

う〜〜んやはり、少しピンとこない。

 

続いて、チベット語説

(ハ)の説は河口慧海師の唱える説だとして、網野は「師の説によると、アーシャーは所在地を示し、クシャは茅または聖という二つの意味があって、一はチガヤの生えているところ、一は聖(きよ)いとか栄光ある土地という意味の二様に解釈され、浅草は往古チガヤの生えているところであり、また観音像がお堂に奉られるようになって、聖いお方のいますところという意味で名づけられたかも知れない」と述べている。

台東区史 通史編 II P38 

な、なんと!チベット語説を唱えたのは河口慧海(1866〜1945だった。

河口慧海―日本最初のチベット入国者

河口慧海―日本最初のチベット入国者

 

 日本人として初めてチベットに足を踏み入れた、明治の黄檗宗の僧侶であり冒険家。

目黒の五百羅漢寺(当時は本所にあった)で、出家。

日本人であるとわかると都合がわるいので、中国人に扮したり、チベット人に扮したりして当時、鎖国状態だったチベットを冒険。

チベットのお寺の大学に潜り込んで学んだり、たまたま脱臼を治したことで評判が募り医者としても活躍する。

自分もチベット入りする前に師の伝記を読んだことがあったので、びっくら驚いた。

 

区史に戻る。

だがこのチベット語説はあまりにこじつけ過ぎのようにみなせる。何も、チベット語まで持ち出すこともないであろう。網野も、この説は紹介しているに過ぎない。

台東区史 通史編 II P38 

 と区史では、このチベット語説を一蹴している。

残念だけど・・・自分もそう思う。

 

チベットから帰国した河口慧海師は、チベット旅行記「西蔵旅行記」を出版し、一躍、時の人となる。

恐らくその時に、ふと浅草の地名を、チベット語から紐付けして「浅草の地名の由来はチベット語」説を提唱したのだと思う。

こじつけ過ぎと思われようが、何も悪いことではない。

冒険家は「未知の何かがあるかもしれない」「じつは、こうなっているのかもしれない」という仮説なしには冒険ができない。

 

ともあれ、浅草の由来は定説のなかの「草深い武蔵の地にあって、草のあまり茂っていないところ」(江戸往古図説・江戸砂子・求涼雑記)というのが、やはり有力な説に思える。

 

先人たちの残した地名。その由来に思いを馳せるのは、おもしろい。

地名由来説って、意外とミステリアスで調べるのけっこうハマる。

チベット語説を唱えてくれました河口慧海師はじめ、多くの歴史家、編集者の皆様、先人の皆様に感謝し、この微細な功徳(?)を回向いたします。

長文・乱文失礼致し候。ありがとうございました。

 

参考文献:「角川日本地名大辞典 13 東京都 角川書店」「東京の地名由来辞典 東京堂出版」「台東区史 通史編II 台東区」

 

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国立科学博物館企画展「花粉と花粉症の科学」花粉を学び花粉シーズンを乗り切る!

花粉と花粉症の科学 Science of pollen and pollinosis

上野の国立科学博物館の企画展 「花粉と花粉症の科学」を見て来ました。

このシーズンになると花粉症でずっと悩まされてきましたが、花粉について実際はよく知りませんでした。

花粉シーズン前ににちょうど良い機会だったので、花粉について学ばせてもらった事を備忘録として簡単に記します。

 

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花粉の媒介

花粉は、それ自体では動けないので、風、動物、水などに頼って運んでもらう必要があります。

  • 花粉を虫に運んでもらうもの→虫媒花
  • 花粉を鳥に運んでもらうもの→鳥媒花
  • 花粉をコウモリに運んでもらうもの→コウモリ媒花
  • 花粉を水に運んでもらうもの→水媒花
  • 花粉を風に運んでもらうもの→風媒花

この風媒花が、花粉症のほとんどの原因

 

 

栄養源としての花粉

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なぜ急に給食の展示?と思ったら

じつは、花粉自体は、栄養バランスが良いそうです。

動物に花粉を運んでもらう代わりに、花粉を食料として与えているそうです。

蜜もそうですが、栄養バランスのよい花粉によって、虫などの動物をおびき寄せているとか。

給食に含まれる栄養素とほとんど同じく、花粉にも栄養素がバランスよく含まれているとのこと。

 

 

食用の花粉、薬の花粉

なんと蜂蜜10gに、平均して5万粒の花粉が入っています。

蜂蜜を食べることで、知らず知らず花粉を食べていたようです。

 

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松花冷麺は、松の花粉を利用して作っているそうで、栄養価も高いようです。

 

花粉は他にも、薬としても古くから使われてきました。

いなばの白うさぎ~オオナムヂとヤガミヒメ~: 日本の神話 古事記えほん【四】 (日本の神話古事記えほん)

いなばの白うさぎ~オオナムヂとヤガミヒメ~: 日本の神話 古事記えほん【四】 (日本の神話古事記えほん)

 

神話で有名な因幡の白兎。

白兎は、ワニをだまして毛皮を剥ぎ取られてしまいます。

そこに通りかかった大国主命が、白兎をあわれに思い、ガマの花粉を敷き散らした上に転がせて傷を癒しました。

古事記に出てくるこのエピソード。日本でも古くから花粉を治療薬として使用されていたことがわかります。

 

このガマ花粉は生薬名を「蒲黄」というそうですが、傷薬だけでなく、長く服用すれば身を軽くし、気力を充実させ、長寿を得させるとか「本草網目」(1596)

 

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さらに花粉の世界へと入っていきます。

 

花粉の姿

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花粉の電子顕微鏡画像です。

こう見ると花粉も様々な形をしています。

左下の「2」がスギ花粉

 

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見かけにも悪そうな?、「21」がブタクサの花粉だそうです。

電子顕微鏡画像で花粉の姿、形を学んだところで・・・

 

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花粉当てクイズです!。。。。

 

 

花粉を付けないスギとヒノキの発見

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1992年には、富山市内の神社で全く花粉をつけないスギが発見されました。

2012年には、神奈川県の厚木市で正常な花粉を全く付けないヒノキを発見。

 

無花粉スギの発見された富山県では、20年かけて無花粉スギを品種改良し「立山森の輝き」という名の優良無花粉スギを開発。

現在、富山県で栽培されるスギ苗は、全て無花粉の「立山森の輝き」だそうです。

 

花粉がないスギは歓迎ですが、ただ先ほども学んだように花粉は良い点も多いはずです。

無花粉スギばかりになると生態系にどのような影響を与えることが考えられるのかも、ちょっと知りたい気もします。

 

花粉症対策

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花粉症対策の基本は、やはり花粉をもちこないこと。

  • 花粉対策コートを着用する。
  • 花粉の飛散が激しい時は窓を開けず、空気洗浄機機能付き換気扇も効果的。
  • 洗濯物も外には干さずに、除湿機等を使って部屋干し。
  • 窓側や、玄関付近は室内に入った花粉が多い→こまめに掃除機をかける。
  • 空気清浄機で空気中の花粉を取り除く。
  • 湿度を60パーセント以上に保って花粉を舞い上げないようにする。

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やはり、乳酸菌は花粉症の改善になるようです。

乳酸菌と聞くと、ヨーグルトと思ってしまいますが、他にも

  • 漬物
  • キムチ
  • チーズ
  • 醤油

などにも乳酸菌が多く含まれています。

 

近い将来、お米を食べて花粉症対策というのも

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免疫細胞全体の約6割は腸に存在するそうです。

そのため、抗原を腸まで届けられれば免疫療法の効率が上げられるようです。

そんなコメの研究開発が進んでいるそうです。

 

 

花粉と聞くだけで、痒くなりそうなシーズン到来ですが、花粉にも当然良い面もたくさんあります。

普段は知ることのできない、花粉を少し知ることができた、とても良い企画展でした。

ここに記載したことは、ごく一部分です。

科学博物館の常設展の入館料だけで、この企画展を見れますので、ぜひご興味のある方は実際に行ってみるといいかもしれません。

今年も、花粉シーズン到来

彼を知り己を知らざれば百戦危うからず(でも、多分危ういかも)

 

企画展 花粉と花粉症の科学

2016年12月23日(金・祝)〜2017年3月20日(月・祝)

上野 国立科学博物館 日本館1階 企画展示室

開館時間:9:00〜17:00(金土曜は20:00まで)入館は30分前まで

休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)

入館料:一般・大学生620円 高校生以下、65歳以上は無料

iPhone6s予期せぬシャットダウン 無料でバッテリー交換してもらう

iPhone6s予期せぬシャットダウン バッテリー無料交換備忘録

 

iPhone6s予期せぬシャットダウン

自分が使用しているiPhone6sが、バッテリー残量60パーセントほどあるのに急にシャットダウンして困っていた。

毎回、60パーセンくらいになったら落ちるのではなく、頻度としては10回中2〜3回程度。

最初は、もう電池がなくなったのかと思っていたけど、何度も続いたから2016年秋ごろ購入した販売店に相談に行った。

しかし簡単に言えば対応してもらえなかった。

その時は、バッテリー交換も有料だとか。

 

2017年の年が明けてから、予期せぬシャットダウンが頻繁に発生するようになりネットで調べてみるとAppleの公式サイトに

「iPhone 6sが突然シャットダウンする問題に対するプログラム」なるページがいつのまにかあった。

どうやら2016年11月あたりから確認できるサイトがあったようだ。

できたら、アップルでも販売店でもいいから、この件についてはメールででもなんでもいいから、情報を流してほしかった。

 

 

シリアル番号で対象のiPhoneかどうか確認

https://www.apple.com/jp/support/iphone6s-unexpectedshutdown/

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iPhone6sのシリアル番号 を入れてみると、

【シリアル番号の確認方法 設定→一般→シリアル番号】

ばっちり「本プログラムの適用対象です」と。

 

そのままページに続いてGenius Bar(サポートセンターをAppleではこういう)で予約を入れるも、直近では1週間後の平日しか空いていなかったが、即予約。

 

 

アップルストアのGenius Bar

多忙の時期だったけど、合間をとって銀座のアップルストア銀座へ。

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4FのGenius Barへ行って予約してある旨を伝える。

持ち物は、対象のiPhone6sだけでいい(バッテリー交換でデータが消える場合ものあるので、あらかじめバックアップをとっておくといい)。

 

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担当者が来て、該当のiPhoneかどうかチェックして、説明を聞き、担当者のiPadで署名すると、見積書が発行される。

 

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この日は、およそ2時間くらいで交換作業が完了するとのことで、2時間後から、閉店の21時までに取りにきてほしいとのこと。

 

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見積書には

「Battery Kit iPhone6s」とあり、本来は¥7,800かかるけど、今回は対象なので無料。

2時間後、Genius Barサービス見積書を持参し、無事に交換作業終了したiPhone6sを受け取って終了。

 

 

iPhone5に続いて、今回で2回目のバッテリー不具合

実は、自分にとってはiPhone5に続いて2回目のバッテリー不具合だった。

前回もバッテリーの不具合の交換で、別のアップルストアーへ予約して行った。

激混みしていてスタッフもつかまらず、ようやく捕まえたスタッフは、当然謝罪もないし、ヘラヘラした感じで「こっちも忙しいんだよね」的な発言をされて、ブチ切れそうになった。

 

今回も、担当の人は「ご足労をおかけしまして、ありがとうございます!」 と変な日本語。

基本、アップル側のミスでも、日本の企業みたいにすぐに謝らないスタンスなのかな。

 

あと、公式サイトでは「ごく一部のiPhone6sで〜」と書かれていたけど、自分の前後の人もたまたまなのか、同様のiPhone6sの不具合でバッテリー交換に来ていたようだ。

実は、けっこう対象になってるiPhone6s多いかもしれないので、確認してみるといいかもしれません。

 

ただでさえ高額なiPhone

2度あることは、3度あってほしくない。

よろしくお願いします。