夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

学問のすすめで「演説」の重要性を説いた福沢諭吉。慶應義塾三田演説館。

「演説」という概念

演説とは英語にて「スピイチ」といひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思ふところを人に伝ふるの法なり。

と、福沢諭吉は著書「学問のすヽめ」(第十二編)の中で述べている。

一見、当たり前のような事を言っているようだが、明治維新直後の日本では「スピーチ」「演説」という概念は、今のように一般的ではなかったようだ。

 

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福沢は続ける

わが国には、古よりその法あるを聞かず。寺院の説法などはまづこの類なるべし。

 日本にはスピーチ、演説などは昔から聞いたことがない、言うなれば寺の僧侶による説法が近いかと。

ちなみに

  • 「スピイチ」=「演説」

と訳語を創出したのも、福沢諭吉だと言われている。

 

三田演説會

西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、政府の議員・学者の集会・商人の会社・市民の寄り合ひより、冠婚葬祭、開業開店等の細事に到るまでも、僅かに十数名の人を会することあらば、必ずその会につき、あるいは会したる趣意を述べ、あるいは人々平生の持論を吐き、あるいは即席の思ひつきを説きて、衆客に披露するの風なり。

「学問のすヽめ」第十二編

 「学問のすヽめ」が発行されたのが、明治5年(1872年)、第1回帝国議会が開かれたのが明治23年(1890年)と随分と後の事なので、選挙演説も議会の演説もまだなかった頃。

(当時)世間では議会が必要だなんて言ってるが、演説がちゃんと行われなければ議会を開く意味さえないと「学問のすヽめ」の中で言っている。

福沢諭吉は明治7年(1874年)に「三田演説會」を結成し、後に三田演説會からは犬養毅や尾崎行雄らを輩出している。

 

三田演説館

f:id:odekakeiku:20190627150430j:plainそして福沢諭吉は、私財二千数百円を充て明治8年(1875年)に三田演説館を開館させる。

外観は、なまこ壁で木造瓦葺きの和風建築だが、内部(通常非公開)はアメリカから図面を取り寄せた洋風。現在は国の重要文化財に指定されている。

余談だけど、どうしても可愛い河童の顔に見えてしまうのは自分だけでしょうかw

 

後五百年、古跡として見物する人もある可し

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現在は、近くに立ち寄ることもできず、案内板を読むことができなかった。

写真だけ撮って自宅に帰って、画像を拡大し案内板を読んでみると

「其規模こそ小なれ、日本開闢以来第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸いに無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」

と、福沢先生は晩年おっしゃっていたそうです。

 

明治八年(1875年)の開館から、震災、戦災を免れ(移転はしている)、まだ144年ほどですが
福沢先生、6月27日の「演説の日」を前に、見物にやってきましたよ。

 

追記:演説の日

追記:すごく細かいことだけど、書いていて気づいたのですが、毎年6月27日の「演説の日」は、明治7年(1874年)6月27日に三田演説館で日本で初めて演説会が開かれた日というような説明をよくされていますが・・・

案内板や諸々の資料によると、三田演説館が開館したのが明治8年(1875)年5月

このタイムラグは何故でしょうか。

三田演説会が1874年6月に結成されているので、三田演説館で云々は誤りなのかな。

 

参考資料

「学問のすヽめ」福沢諭吉著 伊藤正雄校注 講談社学術文庫

「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る 港区 三田 麻布十番コース」籠谷典子偏著 真珠書院

学問のすゝめ (講談社学術文庫)

学問のすゝめ (講談社学術文庫)

 

 

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6月23日慰霊の日。沖縄戦、南洋、無知、解釈。戦争を体験していない30代の手記。

6月23日は沖縄「慰霊の日」 

自分は戦後50年(1995年)を迎えた中学1年生の時、たまたま手にした「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を読んで以来、10代〜20代初じめの頃は、沖縄戦には個人的に色々と調べ、実際に現地に足を運んで独り戦跡巡りをしていた。 

同年代の女学生が沖縄戦の激戦地に放り出され多くの教師や生徒が亡くなり、生き残った人々が戦後その体験を綴った手記は、当時の自分には戦争や平和に対する概念を大きく変えた1冊だった。

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

 

 

はじめて沖縄の戦跡巡りをしたのは、中学3年の3月。

中学を卒業して自分なりの「卒業旅行」として、貯金したお金とスカイメイト(当日空港で空席があれば、半額で飛行機乗れる制度が当時はあった)の会員証とバックパックを持って初めて沖縄へ一人旅に出た。

首里の司令部から、米軍基地とともに発展したいった嘉手納や、コザ。本島北部の離島で激戦地になった伊江島、そして沖縄本島南部と、路線バスとヒッチハイクでまわった宿はユースホステルや安宿。

はじめての沖縄の一人旅は、自分にとって大きな刺激が色々あった。

f:id:odekakeiku:20190623231813j:plain特に激戦地となり戦後多くの慰霊碑や平和祈念公園が整備された、本島南部の沖縄戦跡国定公園界隈。

それから沖縄へは高校時代は、ほぼ毎年いつも1人で通っていた。

しだいに沖縄戦以外にも沖縄の歴史や、芸術芸能、カルチャー、沖縄のポッポミュージカルから沖縄民謡や三線などの楽器、沖縄料理と、沖縄について広く多のものに興味を持ち好きになっていた。

 

沖縄戦を知らない、沖縄出身の大学生の比嘉さん

そんな沖縄好きの少年だった自分は、当時アルバイトをしていたコンビニで、比嘉さんという大学生の青年と親しくなった。

いつも遅刻してくる比嘉さんは、少しいい加減なところもあったけど、独特のユーモアがあり、彼のおかげで自分は楽しいバイトの時間を過ごしていた。

そんなある日、沖縄の話から話題は沖縄戦のことになったが、比嘉さんの言葉にショックを受けた。

「へ〜、沖縄でアメリカとそんな激しい戦争があったんだ・・・」

「俺、小学校低学年の時に、こっち(内地)に転校してきたら、そういうのよく知らないんだよね・・・。あーでも、なんかオバァが話してた気がするなぁ」と。

 

沖縄戦と南洋小唄、そして自分も無知だった

沖縄を3、4度目に訪れた時のまだ18歳くらいだった頃、その時も南部戦跡巡りを1人で周っていて、ある時、散歩をされていた年配のご婦人に道を尋ねた事があった。

「近くへ行きますので、一緒に行きましょう」

とご親切におっしゃっていただき、道すがら色々な話をした。

「沖縄戦の事を個人的に調べてまわっている」などと話していた時に、ふと

「沖縄戦の時は、どちらにいましたか?」と思わず質問していた。

「私、南洋にいたんです。」

若気の至りというか「南洋」と聞いて、当時好きでよく聞いていた嘉手苅林昌のアルバムの中の「南洋小唄」を真っ先に思い出し、固有名詞としての「南洋」を知っているくらいなのに

「あ〜南洋ですね?。では、沖縄戦に遭遇されなかったんですね。」

と、さぞや沖縄戦にあわなくて良かったですね。とも受け取られるような事を言ってしまった。ちなみに当時は南洋小唄の本当の歌詞の意味もよくわかっていなかった。

そのご婦人は、少し怪訝そうな顔をされ、それから何も話されなかった。

 

沖縄しまうたの神髄

沖縄しまうたの神髄

 

 

一口に「南洋」と言ってもサイパン、テニアンなど範囲は広く、南洋諸島の多くは当時、沖縄からの移民が多かった。そして沖縄戦と同じく南洋の島々でも多くの犠牲者を出した。

そんなことを知ったのは、もう少し後のことで、自分も無知であり、後日そんな無知な自分を酷く恥じた。

 

戦争に関する祈念日

6月23日(沖縄戦終結)、3月10(東京大空襲)、8月6日(広島原爆)、8月9日(長崎原爆)、8月15日(終戦記念日)などなど

その他にも多くの地域で、先の戦争の被害を偲ぶ日があり式典が行われる。

いくつかの平和祈念式典には何度か足を運んできたが、最近は形態が変わってきたり参加者も変わってきて、なかには微妙な違和感を感じる式典があるのも事実。

やはり戦争をリアルに体験している世代が徐々にいなくなっていき、戦争を体験していない世代が、「戦争」をそれぞれの感じ方、考え方で解釈する(自分もそう)。

先の戦争が、本当の意味で過去のものになっているな・・・と、30代の子を持つ自分でさえ感じる、今日この頃です。

 

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

 

 

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鎌倉のあじさい寺「明月院」明月院ブルーの紫陽花とやぐらとウサギ共和国。

北鎌倉から明月院へ

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鎌倉の紫陽花寺と言えば、まず出てくるのが「明月院」

北鎌倉の円覚寺から建長寺へ向かう道の、途中少し山あいに入ったところに参道がある。

 

f:id:odekakeiku:20190607151126j:plain普段は、さほど人気もない場所だけど、紫陽花の時期は別。周囲の数少ないコインパーキグンも紫陽花の季節だけは大幅に値上がりする。

 

明月院

f:id:odekakeiku:20190607151509j:plain明月院といえばよく出てくる、両側に紫陽花の咲く階段。

明月院が紫陽花で、有名になったのは戦後になってからのこと。

嘘か本当かは知らないけど、戦後の物資不足で塀を立てられず、代わりに紫陽花を植えたからともいわれている。

 

f:id:odekakeiku:20190607151219j:plain入り口付近では多種多様の紫陽花が咲き乱れる。

 

 

明月院ブルー

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入り口付近には多種多様の紫陽花があるけど、ほとんどの紫陽花は日本固有種の「姫紫陽花(ひめあじさい)」で統一されている。

鮮やかなブルーで、いつからか「明月院ブルー」と言われるようになった。

 

f:id:odekakeiku:20190607151526j:plainお地蔵さんの首掛けもブルー。

 

f:id:odekakeiku:20190607151528j:plain「花想い地蔵尊」

どんよりとしたスッキリしない日々が続く梅雨だけど、植物はじめ多くの生き物にとっては恵の雨の季節。心穏やかに梅雨を過ごしたいものです。

 

やぐら

f:id:odekakeiku:20190607151516j:plain明月院には、鎌倉でも大きな部類に入るやぐらがあって・・・

 

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紫陽花やぐらがまたいい感じに思えるのは自分だけかな。 

 

枯山水庭園

f:id:odekakeiku:20190607151551j:plain明月院自体は規模は小さいながらも、いろいろと楽しめる。

 

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言問はぬ木すら紫陽花 諸弟等が

練りの村戸に あざむかえけり 

大伴家持 万葉集 巻第四 七七三

紫陽花の移り変わりも思いの外早いものです。 

 

ウサギ共和国

f:id:odekakeiku:20190607151558j:plainちょっとユニークなのが、明月院には、ウサギ共和国もある。

 

f:id:odekakeiku:20190607151601j:plainどういった経緯で紫陽花寺にウサギ共和国ができたのかは、わからないけど、

このミスカッチ感がまたいいですね。

 

f:id:odekakeiku:20190607151609j:plain頼んでおいた御朱印を忘れずに。

 【2018年6月訪】

江戸川を渡る時に見える、とんがり帽子と丸い帽子の取水塔。葛飾区 金町浄水場第2第3取水塔

6月6日は「飲み水の日」 ということで、水に関して1つ

江戸川の、とんがり帽子と丸い帽子の塔

f:id:odekakeiku:20190605162253j:plain東京都と千葉県の都県境にある江戸川を、常磐線や車で水戸街道(国道6号線)の新葛飾橋を渡る時、下流側にとんがり帽子丸い帽子が見える。

自分は小さい頃からここを通る時に、いつもこの2つの塔が気になっていたし、周囲の人々に聞いてもやはり、何気なく気になる存在の塔らしい。

 

f:id:odekakeiku:20190605162301j:plain「男はつらいよ」の寅さんも、柴又のすぐ先にあるこの土手でのシーンでは、背景にこの塔が映っていることが度々ある。

  

こちら葛飾区亀有公園前派出所 85 (ジャンプコミックス)

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「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両さんも同様に、コミック版の表紙や作品中にもこの塔は描かれているし、アニメ版のテーマソング「葛飾ラプソディー」にこの塔が出てくるのを知っている人も多いと思う。 

トンガリ帽子の取水塔から 帝釈天へと夕日が落ちる 

 アニメこちら葛飾区亀有公園前派出所 3代目オープニングテーマ 葛飾ラプソディ

 

 

 この2つの塔は、金町浄水場の取水塔

f:id:odekakeiku:20190605162321j:plainこの三角屋根と丸い屋根の塔の土手側には、葛飾区、江戸川区、江東区、足立区他へと水を供給する金町浄水場がある。

この2つの塔は、江戸川から水を取り込むための取水塔。

 

トンガリ帽子の第2取水塔

f:id:odekakeiku:20190605162340j:plain水戸街道(国道6号線)新葛飾橋側のトンガリ帽子の取水塔は、第2取水塔

 

f:id:odekakeiku:20190605162353j:plainトンガリ帽子をかぶったようなユニークな形から、自分は小さい頃「ムーミン」に出てくる「スナフキン」に似ているなと思っていたし、スナフキンが江戸川で釣りをしているようだな・・・と、子供心に思っていた。

 

f:id:odekakeiku:20190605162405j:plainこの第2取水塔は、昭和16年(1941年)に作られたレンガ造りの取水塔で、現在も現役で使用されている。

 

丸い帽子の第3取水塔

f:id:odekakeiku:20190605163333j:plainトンガリ帽子に対して、下流側の丸い帽子の取水塔は第3取水塔

こちらは比較的新しく・・・と言っても第一回東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)にできた。

こちらはトンガリ帽子の「スナフキン」に対して、さながら「チャップリン」と言ったところかな。

 

f:id:odekakeiku:20190606064300j:plainちなみに、大正時代の開設時からある第1取水塔はというと、この第3取水塔ができたことに伴い解体され現存していない。

 

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第3取水塔の横に、東京都水道局のボート「金浄丸」と「金水丸」が浮かんでいた。

  

f:id:odekakeiku:20190605162408j:plain三角帽子と丸帽子の2つの取水塔は、柴又の帝釈天、矢切の渡し、寅さんミュージアムなどと共に金町を代表するシンボル的な存在になっている。

 

JR東日本常磐各停「金町」キーホルダー Ver.2 電車グッズ

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旧大野木場小学校 被災校舎。雲仙普賢岳の大火砕流で焼失した学び舎。長崎県南島原市

 

旧大野木場小学校

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1991年(平成3年)6月3日。噴火活動が活発だった雲仙普賢岳から大火砕流が発生。40名を超える死者と行方不明者をだした。

その年の、9月15日にも再び大火砕流が発生する。

瞬く間に大野木場小学校は熱風にさらされ、校舎は全焼した。 

 

f:id:odekakeiku:20190603220835j:plain幸いにもこの時は、避難が徹底され人的被害は出なかった。

そして、全焼した被災校舎は噴火災害の凄まじさを伝えるものとして保存されることになる。

 

焼けただれた校舎

f:id:odekakeiku:20190603220858j:plain現在は、校舎の外側から被災校舎を見学できる。

 

f:id:odekakeiku:20190603220919j:plain大火砕流の熱風で、金属やコンクリート以外のものは焼き尽くされた。

 

f:id:odekakeiku:20190603221540j:plainこの教室は、床の基礎部分が丸出しになっている。天井からは、テレビ置きらしきものが吊るされている。

 

f:id:odekakeiku:20190603221550j:plainここは、理科室だったのだろうか、垂れ下がった蛇口が物哀しい。

 

f:id:odekakeiku:20190603221559j:plain今回、たまたま別用で通りかかり、時間があったため、ふと立ち寄った被災校舎。30分ほど見学させてもらい、撮影をしながら色々と物思いにふけた。

 

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雲仙普賢岳の大火砕流が起きたのが平成3年。自分は小学校3年だったが、雲仙普賢岳という遠い地の固有名詞は毎日のようにニュースに流れ、すぐ覚えた。

そして衝撃だったのが、ニュース映像で見た大火砕流が麓の集落を襲う映像。

多くの人が亡くなり、毎年6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」として記憶されるようになった。

 

f:id:odekakeiku:20190603220930j:plain同じ年の9月15日この校舎が被災した時は、前述したように幸いにも人的被害は出なかった。

しかし、当時、この焼けただれた校舎を見て、通っていた在校生や卒業生はどう思ったのだろう。

自分も当時は小学校3年だっただけに色々と思うところがあり、撮影をしながら思わず涙がこぼれてきた。

噴火、地震、台風、自然災害は、いつやってくるかわからない。

 

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被災校舎の隣に「大野木場観測所」が建てられている。

「地震の発生など危険を感じたら、急いで避難室(地下1階)へ避難してください」とあった。シェルターになっているようだ。

 

f:id:odekakeiku:20190603221616j:plain今は児童がいない校庭の砂場も、鉄棒もただ、あの時を記しているのみ。

 

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校庭の片隅に、青々と葉が茂ったイチョウの木があった。
案内板によると、昭和18年の卒業生が成人式の日に植樹したものらしい。

火砕流で焼けてしまったかのように見えたが、今ではしっかりと多くの葉をつけて復活している。

水分を内部に多く蓄え熱に強いと言われるイチョウの木は、広島でも東京大空襲でも、焼け残り、やがて復活し人々を勇気付けてきた。

人間も経験から学んだ「知識」という名の水分を多く蓄え、危機や困難の度にその「知識」を活用し乗り越え、再び立ち直らなければならないと、イチョウの木から諭されている気がした。

 

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大火砕流に消ゆ―雲仙普賢岳・報道陣20名の死が遺したもの (新風舎文庫)

大火砕流に消ゆ―雲仙普賢岳・報道陣20名の死が遺したもの (新風舎文庫)

 

 

旧広島気象台。江波山気象館。全国でも珍しい気象の博物館。この世界の片隅にを歩く番外編

今回は、広島市の江波山の山頂に建つ「旧広島気象台」江波山気象館について。

 丘の上の気象台

f:id:odekakeiku:20190601235052j:plainそれほど巡ったわけではないけど、全国の気象台巡りは自分のライフワークの1つ。

どの気象台もたいていは丘の上にあり、遠くから見て小さな城塞をも感じさせる佇まいは、小さい頃から興味深く思ってきた。

 

f:id:odekakeiku:20190601235054j:plain以前より、広島に来たら一度は行って見たかったのが、旧広島気象台。

現在の江波山気象館。

こうの史代先生の漫画「この世界の片隅に」のアニメ版でも、一瞬気象台が映ります。すずさんも江波の出身でした。

 

f:id:odekakeiku:20190601235145j:plainちょうど、訪れた日はドラマか何かの撮影で使われていた。

言えば通してくれるだろうけど、わざわざ撮影を遮ってまでの度胸もないので、しばし江波山を散策。

f:id:odekakeiku:20190602002237j:plain江波山はもともとは、島だった。それが江波地区の埋め立てにより、今は山のように見え、公園として整備されている。

江波山の公園のトイレも、風速計をイメージされていた。

 

江波山気象館

f:id:odekakeiku:20190601235152j:plainドラマの撮影がひと段落したところで、門を叩いた。いや、開けた。

現在は広島市が管理する、市営の気象館。気象の博物館となっている。

大人も料金は100円と手頃。高校生、シニアは50円。中学生以下は無料。

 

f:id:odekakeiku:20190601235203j:plainまず、入って一番目を引いたのは、ステンドグラスがはめ込められた受付窓。

この受付窓は、現在は使われていないが、こんな美しい受付は見たことがない。

 

f:id:odekakeiku:20190602002139j:plain振り返ると、入り口の上部にもステンドグラス。

 

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撮影にしばしば使用される意味がよくわかる。

さながら勝手なイメージとしては旧陸軍参謀本部か大本営か。はたまた昭和初期の病院か、大学か。さまざまなシーンに使えそうな歴史ある趣きのある廊下。

 

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階段も、来てよかったと思わせる何とも言い難い良い雰囲気。至福のときだ。

 

f:id:odekakeiku:20190602001720j:plain階段の手すりにも、そう浅くない歴史を感じさせる。

 

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f:id:odekakeiku:20190601235226j:plain広島市街地方面

 

f:id:odekakeiku:20190601235227j:plain昭和20年8月6日 原爆投下の日の当番日誌。

この辺りの展示は、訪れたら見逃さず読んでほしい。

 

f:id:odekakeiku:20190601235220j:plainカンベル日照計。太陽光の焦点で焦げ跡をつくり日照時間を記録する。

8~9時と14〜15時、日照の欠けたところがある。

 

f:id:odekakeiku:20190601235231j:plain爆心地方面からの爆風で飛び散ったガラス片が、今でも壁に突き刺さったままになっている。

 

f:id:odekakeiku:20190601235238j:plain屋上には、シンボルの観測塔。

 

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階段の下部にまでくぼみを作り、凝っている。影もいいね。

 

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f:id:odekakeiku:20190602002054j:plain観測塔というより、西洋の城壁のよう。

戦争に突入する前の、まだ少しゆとりのあった時代の作りで細部にわたって美しい。

 

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爆心地側の壁。

 

f:id:odekakeiku:20190803112046j:plain広島へ来たら、チンチン電車に乗って「江波」で降り、江波山の気象台まで散策するのもおすすめです。

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鳩山会館へ 小川三知のステンドグラスとバラを見に行く。文京区音羽

今回は、文京区音羽の丘の上にある「鳩山会館」へ

小川三知のステンドグラスとバラを見に行った記録です。

 

鳩山会館

f:id:odekakeiku:20190523212300j:plain護国寺の正門より伸びる音羽通りにある入り口から、曲がりくねった坂を登りきると、音羽の丘の上に大正時代に建てられた洋館がある。

ここは、大正昭和と活躍した政治家、鳩山一郎が関東大震災の翌年に建てた。鳩山家4代に引き継がれ、現在は一般に公開されている。

 

鳩山会館のバラ

f:id:odekakeiku:20190523212413j:plain鳩山会館は、バラの庭園があることでも知られている。

 

f:id:odekakeiku:20190523212418j:plain音羽の丘の上に、バラの花園と、建てられてから100年近くたつ洋館。

山手線の内側の都心にあるとは思えない、静かな場所。

 

f:id:odekakeiku:20190523215626j:plain1945年に発表された「ピース(平和)」↑というバラを、鳩山一郎は気に入り庭にたくさん植えた。

 

f:id:odekakeiku:20190523212455j:plain今では「ピース」以外にも多くのバラの種類が植えられており、初夏と秋に楽しめる。

 

バラは初夏と秋のみだけど、鳩山会館には小川三知の作った貴重なステンドグラスが多くあるのも見所。

第一応接室の紋章のステンドグラス

f:id:odekakeiku:20190523213030j:plain洋館に入ってまず右手にある、第一応接室。ここ鳩山会館の紹介の映像が見られるが

 

f:id:odekakeiku:20190523213035j:plain暖炉の両脇には、鳩山家の紋章のステンドグラス。

 

f:id:odekakeiku:20190523213047j:plainイギリス風の紋章には3羽の鳩。

 

f:id:odekakeiku:20190523213715j:plain後ろの緑が借景とってなっている。

 

第二応接室の花柄のステンドグラス

f:id:odekakeiku:20190523213107j:plain数々の政治の舞台にもなったという第二応接室。

 

f:id:odekakeiku:20190523213226j:plainここの欄干には、4つの花柄のステンドグラス。

 

食堂のライチのステンドグラス

f:id:odekakeiku:20190523213235j:plainそして1番奥の食堂。

ちなみに2019年5月に5夜連続で放送された「白い巨塔」のロケにも鳩山会館は使用されています。

小川三知のステンドグラスが映っていました!

 

f:id:odekakeiku:20190523213509j:plain食堂には、ライチの実。

小川三知がこのライチのステンドグラスを作ったのが、大正時代。ライチは楊貴妃が早馬で取り寄せたということでも知られるように、鮮度が落ちやすい果物。大正時代の日本人はライチを食べていたのかはわからないけど、なぜライチなのか興味深いです。

 

階段の五重の塔のステンドグラス

f:id:odekakeiku:20190523213533j:plain2階へと昇る階段の踊り場に、一際大きなステンドグラスがある。

 

f:id:odekakeiku:20190523213553j:plain1階から見上げるのもいいが、2階から見下ろすのもいい。

 

f:id:odekakeiku:20190523213602j:plainこの五重の塔は、奈良の法隆寺の五重の塔を模したといわれている。

 

f:id:odekakeiku:20190523213608j:plainよく見ると朱色の部分は、二重になっており立体に見えるような工夫がされている。

 

洋館入り口の鳩のステンドグラス

f:id:odekakeiku:20190523213633j:plain洋館入り口にも、横に長細い鳩のステンドグラスがはめられている。

入り口のすぐ上にあるため入ってくる時よりも、出る(帰る)時の方が気付きやすい。

 

f:id:odekakeiku:20190523213637j:plain係りの方が、「実はこうすると入る時にも、このステンドグラスが見れるんですよ」と、入り口の扉を閉じてくれた。

 

f:id:odekakeiku:20190523213642j:plainすると、扉のガラス部分に鳩のステンドグラスが反射して映る。

う〜〜む、、よくできていますねー。

日本のステンドグラス 小川三知の世界

日本のステンドグラス 小川三知の世界

 

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