夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

爆心地より1.2kmの所で被曝して助かった 親戚のおばさんの広島原爆の証言記。

平成最後の夏、94歳になられた今もなお御元気な親戚の伯母さんより原爆投下直後の生々しい実体験を聞かせていただきました。

今まで、多くの人に語ることもなかった原爆体験をこのまま埋もれさせては人類の大きな損失と思い、ご本人了承のもと録音をさせていただき、テープ起こしをし、実際にその場所を巡り、図書館等で資料を調べ証言と照らし合わせ、まとめさせていただきました。ほぼ証言のままです。

原爆投下時爆心地より1.2kmの所におられながら、奇跡的に助かった一被爆者の貴重な体験談です(爆心地より1.2kmいた方の50%は、その日のうちに亡くなったとされています)。

ご好意により名前、ご本人の写真の公開も構わないとおっしゃっていただきましたが、匿名にて掲載させていただきます。

 

〔取材日 平成30年 8月5日 広島にて〕

 

73年めの証言

明日でちょうど73年になりますけど、経ってみたら早いですね。

 8月6日8時15分ごろ

私は、広島放送局(現在のNHK広島放送局)に出勤するために家を出ようと思ったんです。

時計を見たら、もう8時15分に近かったんですよね。

さぁこれは急いで歩いて行かんと、放送局に間に合わんのです。

家が比治山の下の富士見町。放送局が鉄砲町だったんです。

 家の近くに山陽中学校(現在山陽高等学校。原爆投下で教員19人・生徒486人が亡くなる。現在跡地にはフジグラン広島が建つあたりか)があったんです。

 

原爆投下直後

f:id:odekakeiku:20190803214757j:plain山陽中学校跡地 現在はフジグラン広島が建つあたりと思われる

山陽中学校の赤レンガの塀のところを、歩いて急いでいたわけです。

バスがあるわけでもなく、小走りに出かけて流川に出るために、赤レンガの塀のところを通り過ぎたんですね。 

その瞬間に、パーっと光りが来たんです。

日傘をさして歩いていて、側にかなり大きな木が植えてあろ、赤レンガを通り過ぎたと思ったら閃光を受けて、まーものすごい光りで。

気がついたら日傘もない、下げていた袋もない。

山陽中学校側の家の軒下に飛ばされて、瓦と赤土が頭へどんどんどん落ちて来たんですよね。

それで、あがいて、なんとか起きあがって、足が助かっていたんですね。

でもふと気がついたら、左手が何かに当たって手首を骨折していました。

 

のちに先生が「あなた奇跡ですよ。広島中心で直に被爆受けて、手の骨折くらいですんで」と言われたんです(今でも手に骨折の跡)。

 

でも、どんどんどん手が腫れて来たんです。下げたら手は痛いし、なにも持ち物はないし、立ち上がって起き上がっても、家の方がわからんのです。

家に残して来た母親が気にかかったので、なんとか感で帰ろうと思ったんです。

 

土やら瓦やらいろいろ踏み越えて、ぜんぜん家か何かわからなかったんですけど、昔は防火水槽があったんですね。

うちの名字が書いてある防火水槽があって「あーここか」ってわかったんですけど、ひどい瓦礫で痕跡がわからんのです。

 

比治山へ避難

 何をしてよいかもわからず、うろうろしていたら、軍隊の兵隊さん10人くらいが

「はよー逃げ! はよー逃げ! 比治山へ逃げ!」

って叫んでいるんですよ。

それでしかたないんで、比治山へ歩いて上がったんです。

一番上で、まーいっぱい人が集まっていて、水道が壊れていてあちこちらから噴水のように出ていて、みんなが飲むんですよ。まぁ綺麗な水でしたけどね。

 

f:id:odekakeiku:20190803215005j:plain比治山橋より比治山を望む

比治山で日陰を見つけて座って、まぁ何するわけでもなく、手もどんどん腫れて痛いし、一日中座って過ごしていたんです。 

山へ逃げてから(街中)あっちこっちから燃えだしたんです。

どう言うたらいんですか、一晩中、広島が燃えるのを山からね、ずーっと見てたんです。

ぜんぜん何もすることもできずにね。

水道の水を飲むくらいのことで、食事は何もない。

ただ広島が焼けるのを見ていたくらいで。

 

夜が明けたらね、中国新聞と、広島中央放送局(現在のNHK広島放送局)と、八丁堀の福屋(福屋百貨店)くらいなもので、あとは全部消失。もう綺麗にね。

 

f:id:odekakeiku:20190803215050j:plain比治山より爆心地付近を望む 

己斐(西広島)方面と、江波方面と、あと宇品、あの周りが残っていてね、広島の真ん中は全部焼けていました。

 広島放送局は、鉄砲町でね、家から割と近くでしたけど、家の辺りもなにもなくなっていました。

 

比治山より下山して

 夜が明けて8時ごろ、どうしようかなと思って、どっちにしろ山から降りなきゃと思ってね、山から降りかけたんですよ。

そしたら軍隊の人がね、おむすびを作ってくれていて、避難した人にね、1つづつ配っていたんです。

まぁ、あの頃はお米のない時代でしたからね、まぁ助かりましたよ。(大きさは、あんまり大きくない)。

それを食べながら、己斐の先に高須いうところがあるんです。

そこに友達がおったんです。そこへ歩いて行ったんです。

 

ずーっと街の焼けた中を歩いて行って、高須の友達の家で助けてもらって。そこで休ましてもらって三日泊まらせてもらいましたね。

母は家で死亡しとったし、弟は浜松航空隊(現在の航空自衛隊浜松航空基地)へ行ってて不在でしたし、父は用事で水内(広島市郊外)へ行っとりましたしね。

この高須の家でね、もう1人怪我してお世話になってた人がいましたね。

 

父は歩いて、水内から歩いて広島へ出て来て。

「焼け跡に行こう」と言うて一緒に行って見たんですけど。

瓦と赤土と、ゴミばかりで、どうにもならんのですよ。

私は具合が悪いので帰って、その日か、あくる日なのか、ちょっとわからんのですけど

父が家の跡を掘ってみたらしいんですよ。

そしたら完全に焼けてないんですよ。圧死で。蒸し焼きになっていて、半分くらいしか焼けてないって言うんですよ。

洋服のちぎれたのがね残っとって、青いようなのが残っといて

「あーこれはお母さんのだ」

っていうので解ったって。全部、遺体を掘るというのはいかんので、一部遺骨を持ち帰ったんです。

 

比治山から高須へ行くのにね、今の平和大通り、あの道を歩いて行ったんですが、もうずーっと死体の山。

火傷した人がね、みんな転がっているんです。もう真っ赤。背中も真っ赤。

着るものを着た人は、無かったですよ。

あれはどう言う事なんでしょうかね。焼けたんでしょうね。

 

広島は川がいっぱいあるでしょ。 

まー川の中に、熱いのでいっぱい飛び込んでいたんですよ。

川の中にぷかぷか膨れて、小さい子たちも膨れてね。ぷかぷか川の中をね。

それからボートが出て、その死体を男の人があげていたんですよ。

後から聞いたらね、吉島刑務所(広島刑務所)の囚人が出てね、その人らが手伝ったんですと。

それじゃあ、ぜんぜん間に合わんのですよ。あれは、どうなったんでしょうね。

 

 比治山から平和大通りを歩いて行って、不思議なことに、橋自体はね壊れていなかったんですよ。橋にもたれてる人もおるし、川の中へ落ちとる人もおるし、雁木(川沿いにある階段)にもたくさん遺体がありました。

それから市電が今の広電が、途中で止まっていましたよ。4台か5台見たけど、中がね・・・まぁ中は見れないですよ。

 

比治山から高須まで、一時間くらいでしたか、途中で鷹野橋あたりで友人に会ったんです。その人は宇品に住んでいて、宇品はどうもないので、友人が心配で様子を見にきていて、

「まぁーあんたは大丈夫だったん?」

と言われて、2、3分立ち話をしたんですね。

 

手が痛くて夜眠れないんですよ、当時、草津の駅のところにね。接骨病院があったんですよ。

泊まらせてもらってる家から行ったんです。

病院で竹で固定して、布で巻きつけてもらって、ただそれだけ。

五日市の疎開先で1部屋借りてたもんですから、そこで父と生活をはじめて。

なんか、父がこしらえてくれて、一ヶ月くらいおったんです。

宮島線は大丈夫だったんですよ。宮島線でね、五日市から毎日のように病院に通いました。すごい人でね満員で、あれが大変でした。

 

一ヶ月くらいして、弟が浜松から帰ってきて、父と私と3人でね、広島郊外の父の生家の寺へ戻ったんです。母の骨は、一部は掘って帰ってね、そこのお墓へ埋めました。

 

 広島放送局は、18歳から勤めていました(一時期フィリピンの放送局へも行っていたが、フィリピン陥落前に内地に帰る)。女学校を出た後でしたが、若い男性は全部、出征でおらんのですよ。

課長とか部長とか、みんな40~60代で、若い人は障害ある人くらいで。

広島放送局で、書類や原稿がくるのを写したり、よその階へ持っていったたり事務の仕事をしていました。

f:id:odekakeiku:20190803235245j:plain

NHK広島放送局(現在は移転して大手町にある)前に立つ「被曝放送局の碑」

一緒に働いてた人はほとんど亡くなったらしいです。

60歳くらいの部長さんがね、なんでかその日は早くに事務所に座ってたんです。

頭の上から、電気のシャンデリアが直撃して、亡くなってたらしいという話は後で聞きました。

原爆落ちる前、空襲警報とかはなかったですよ。いつも8時ごろ出るんですけど、その日に限って遅れてしまって。

こりゃ、急がな大変、遅れてしまうと。

もう少し遅れて出ていたら、家で母と一緒になったでしょうし、もう少し早く出ていても死んでいたでしょうね。

 

 

 

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三国志展へ行ってみた!曹操、劉備、関羽等多くの武将の息吹を感じる特別展。上野 国立東京博物館

今回は、東京上野の国立東京博物館で開催されている「特別展 三国志展」について。

 

f:id:odekakeiku:20190712153918j:plain開催期間は令和元年 2019年7月9日(火)〜9月16日(月・祝)まで

東京が終わった後は、九州でも開催されるそうです。

 

音声ガイドは2種類から選べる

f:id:odekakeiku:20190712153928j:plainまず通常版の音声ガイドのナビゲーターは、歌手の吉川晃司さん。

吉川晃司さんが、吉川英治の小説「三国志」の名場面を展示物に沿って随所で朗読してくれます。

吉川晃司と吉川英治・・・。

 

f:id:odekakeiku:20190712153936j:plainもう1つは、「真・三國無双」シリーズとのコラボ。

曹操(岸野幸正)、曹丕(神奈延年)、夏侯惇(中井和哉)、関羽(増谷康紀)の4人の武将を担当する豪華声優陣による解説。

 

おなじみの横山光輝マンガ「三国志」と、NHK「人形劇 三国志」も!

f:id:odekakeiku:20190712153940j:plain横山光輝『三国志』原画「桃園の誓い」

各章の状況や場面説明には、横山光輝のマンガ「三国志」の原画や

 

f:id:odekakeiku:20190712153950j:plainNHK「人形劇 三国志」で実際に使われていた人形も、随所に登場。

三国志の数々の名場面や主要人物を、三国志初心者にもわかりやすく理解できるように工夫されています。

 

 伝説のなかの三国志

f:id:odekakeiku:20190712154009j:plain関羽像」 青銅製 明時代15〜16世紀 

まず最初の目玉は、関羽雲長!

関羽は、三国志の中でも特に義を重んじ武勇に優れていたため、やがて中国では神様と崇められるようになります。

そして近年に近づくと、恰幅がよく立派な髭を生やすなど、だんだん誇張された関羽像が増えて来ます。

しかしこの関羽像は、そこまで誇張されず、オーバーな表現がされる以前の関羽の姿です。

 

f:id:odekakeiku:20190712154025j:plain

それにしても関羽かっこいい。。。

中国にある三国志の登場人物の像を見ると、正直、ん〜〜?・・・と、

日本人には不気味な感じのする像が多いですが、こちらの関羽は本当にカッコイイです。

 

f:id:odekakeiku:20190712154056j:plain「趙雲像」木製 清時代17〜18世紀

赤子をお腹にくくりつけて奮闘する武将・・・とくれば、趙雲!

長坂の戦いでは、曹操の追撃を受け劉備は妻子を置いて敗走。

その劉備の子、阿斗(後の劉禅)を懐に抱いて敵中を突破して救ったのが忠義に熱く無敵の武将趙雲。

 

三国時代の武器

f:id:odekakeiku:20190712154134j:plain「玉装剣」中山靖王劉翔夫婦墓出土 青銅製 前漢時代(前2世紀)

これは三国時代の剣ではありませんが、前漢時代の中山王劉勝の墓から出土した青銅製の剣。

劉勝は酒と女を好み50人以上の子と、120人以上の孫がいたと伝えられ、劉備玄徳もその末裔と自称しています。

ちなみに三国時代になると、鉄製の剣が主流となりました。

 

f:id:odekakeiku:20190712154137j:plain「撒菱」(まきびし)青銅製 後漢〜三国時代・3世紀

蜀の黄忠と、魏の夏侯淵が戦った定軍山で大量に出土した、撒菱。

日本では忍者、忍びが使う武器として知られる撒菱ですが、もうすでに三国時代には武器として使用されていたようです。

 

f:id:odekakeiku:20190712154152j:plain「弩」(ど) 青銅製・木製 三国時代(呉) 黄武元年(222年)

横弓以外はほぼ完全な形で出土した弩(ど)いわゆるクロスボウです。

当時、弓よりも威力が強く的中率も高かった弩は、飛び道具の主要な兵器だったようです。

 

f:id:odekakeiku:20190712154155j:plain

そして、この弩が展示されている、部屋の天井には無数の矢が飛び交っています。

 

f:id:odekakeiku:20190712154158j:plain赤い壁?に射られているので、赤壁の戦いのイメージでしょうかw

最近の東博の特別展では、少し驚かせるような演出が増えてきたように思えますが、赤壁を飛び交う矢の演出もなかなかリアルさがあり良かったですw

 

f:id:odekakeiku:20190712154212j:plain「石球」 石製 三国時代(魏) 3世紀 合肥新城遺跡出土

三国志のマンガやアニメでもよくお目にかかる、石球。城壁の上から敵兵めがけて落としたり、投石機で飛ばしていたと考えられています。

 

f:id:odekakeiku:20190712154207j:plain三国志演義 張飛蛇矛レプリカ 「真・三國無双」シリーズより

張飛が使っていたとされる蛇矛(だぼう・じゃぼう)のレプリカ。

主に「三国志演義」で登場する武器で、長さは4m以上もあったとか!

しかし、実際の蛇矛は三国志の時代にはまだなかったようです。

 

印章

f:id:odekakeiku:20190712154254j:plain「偏将軍印章」金印 金製 後漢時代 1世紀

関羽は、一時期、曹操の軍門に降ったことがありますが、その時に曹操から「偏将軍」に任命されます。

これは偏将軍の金印で

f:id:odekakeiku:20190712154257j:plain「偏将軍印章」と刻まれています。

関羽が実際に所持したという記録は残っていませんが、もしかしたら関羽が所持していたかもしれないと思うとロマンを感じます。

 

f:id:odekakeiku:20190712154309j:plain「曹休」印 三国時代(魏)3世紀

これは2009年に発見された曹休の墓から出土した印章。

 

f:id:odekakeiku:20190712154312j:plain曹休は曹操の親戚で、曹操に可愛がられたようです。曹休は呉の周魴の計略にはまって破れ、それがもとで憤死したとされています。

 

f:id:odekakeiku:20190712154315j:plain三国志の登場人物の中で現存する確かな印章は、この曹休印のみだそうです。

 

曹操高陵

f:id:odekakeiku:20190712171113j:plain数年前、曹操の墓発見!と大きなニュースになりましたが、今回の三国志展では曹操の墓、曹操高陵を実際に再現しています。

 

f:id:odekakeiku:20190712154330j:plain

曹操の墓で発掘された、罐(かん)と呼ばれる三国時代の容器で、白磁だそうです。

それまで白磁は6世紀後半に誕生したとされていましたが、それよりも300年も前に既に白磁があったということが実証され、これも大きな発見だったようです。

 

f:id:odekakeiku:20190712154334j:plain石牌「魏武王常所用挌虎大戟」石製 後漢〜三国時代(魏)3世紀

「魏武王が愛用した虎をも打ち取る大きな戟(げき)」と刻まれており

魏の武王=曹操であることから、これが発掘されて曹操の墓だと確定したとのことです。

曹操は遺言に、葬式や副葬品は質素にすべしと遺しており、実際に豪華絢爛な副葬品等は出土しておらず、遺言通りの質素な墓だったと考えられています。

 

三国志お土産コーナーも見逃せないw

f:id:odekakeiku:20190712154404j:plain冒頭の超かっこいい関羽像のケース付きお菓子や

 

f:id:odekakeiku:20190712154407j:plainご存知、諸葛孔明愛用の白羽扇のふせん!

 

f:id:odekakeiku:20190712154410j:plain「一日に千里を駆ける」と言われた赤兎馬のマスコットまであります。。

 

f:id:odekakeiku:20190712154414j:plainこれらは中国で売られているお土産でしょうか。何気に黄巾族のハンカチが気になる。

 

f:id:odekakeiku:20190712154417j:plain

うーーーんww

 

f:id:odekakeiku:20190712154424j:plainキティちゃんの三国志版もあったり

 

f:id:odekakeiku:20190712154428j:plain「真・三国無双」関連グッズや

 

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やっぱりインパクトある、横山光輝マンガ「三国志」のTシャツ!

 

f:id:odekakeiku:20190712154457j:plainそして小出しで使いたくなるような、名場面をグッズにした数々・・・

 

f:id:odekakeiku:20190712154500j:plain缶バッジガチャもありましたw

 

f:id:odekakeiku:20190712154503j:plain「三国志おなまえはんこ」も、曹操、諸葛孔明、劉備と揃っていますw

 

f:id:odekakeiku:20190713013827j:plain三国時代は、今からおよそ1800年も昔

中国でも現存している当時の物は少ないので、正直どうなんだろう・・・と思っていましたが結論から言うと、当時の武器や生活、風俗、衣食住なども多く学べて、タイトル通りリアル三国志を感じることができて、とても楽しめました!

どれも個人的にも興味深い資料ばかりだったので6時間あまりじっくり鑑賞。

ただ、まだ始まって間もない時に訪れたためか、それともたまたまなのか、今年の冬に開催されていた「顔真卿展」よりも訪れている人が少ないような・・・

こんなに見応えがある三国志展なのにもったいない。

ぜひぜひみなさま、いざリアル三国志展へ参らんww

 

公式図録は展示説明よりも詳しく写真も綺麗でした。

三国志 Three Kingdoms Unveiling the Story

三国志 Three Kingdoms Unveiling the Story

 

 買おうと思ってたけど、閉館ギリギリまで粘って見ていたら買う機会を逃してしまいました。三国志展に行けない三国志ファンの方にもおすすめです。

 

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学問のすすめで「演説」の重要性を説いた福沢諭吉。慶應義塾三田演説館。

「演説」という概念

演説とは英語にて「スピイチ」といひ、大勢の人を会して説を述べ、席上にてわが思ふところを人に伝ふるの法なり。

と、福沢諭吉は著書「学問のすヽめ」(第十二編)の中で述べている。

一見、当たり前のような事を言っているようだが、明治維新直後の日本では「スピーチ」「演説」という概念は、今のように一般的ではなかったようだ。

 

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福沢は続ける

わが国には、古よりその法あるを聞かず。寺院の説法などはまづこの類なるべし。

 日本にはスピーチ、演説などは昔から聞いたことがない、言うなれば寺の僧侶による説法が近いかと。

ちなみに

  • 「スピイチ」=「演説」

と訳語を創出したのも、福沢諭吉だと言われている。

 

三田演説會

西洋諸国にては演説の法最も盛んにして、政府の議員・学者の集会・商人の会社・市民の寄り合ひより、冠婚葬祭、開業開店等の細事に到るまでも、僅かに十数名の人を会することあらば、必ずその会につき、あるいは会したる趣意を述べ、あるいは人々平生の持論を吐き、あるいは即席の思ひつきを説きて、衆客に披露するの風なり。

「学問のすヽめ」第十二編

 「学問のすヽめ」が発行されたのが、明治5年(1872年)、第1回帝国議会が開かれたのが明治23年(1890年)と随分と後の事なので、選挙演説も議会の演説もまだなかった頃。

(当時)世間では議会が必要だなんて言ってるが、演説がちゃんと行われなければ議会を開く意味さえないと「学問のすヽめ」の中で言っている。

福沢諭吉は明治7年(1874年)に「三田演説會」を結成し、後に三田演説會からは犬養毅や尾崎行雄らを輩出している。

 

三田演説館

f:id:odekakeiku:20190627150430j:plainそして福沢諭吉は、私財二千数百円を充て明治8年(1875年)に三田演説館を開館させる。

外観は、なまこ壁で木造瓦葺きの和風建築だが、内部(通常非公開)はアメリカから図面を取り寄せた洋風。現在は国の重要文化財に指定されている。

余談だけど、どうしても可愛い河童の顔に見えてしまうのは自分だけでしょうかw

 

後五百年、古跡として見物する人もある可し

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現在は、近くに立ち寄ることもできず、案内板を読むことができなかった。

写真だけ撮って自宅に帰って、画像を拡大し案内板を読んでみると

「其規模こそ小なれ、日本開闢以来第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸いに無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」

と、福沢先生は晩年おっしゃっていたそうです。

 

明治八年(1875年)の開館から、震災、戦災を免れ(移転はしている)、まだ144年ほどですが
福沢先生、6月27日の「演説の日」を前に、見物にやってきましたよ。

 

追記:演説の日

追記:すごく細かいことだけど、書いていて気づいたのですが、毎年6月27日の「演説の日」は、明治7年(1874年)6月27日に三田演説館で日本で初めて演説会が開かれた日というような説明をよくされていますが・・・

案内板や諸々の資料によると、三田演説館が開館したのが明治8年(1875)年5月

このタイムラグは何故でしょうか。

三田演説会が1874年6月に結成されているので、三田演説館で云々は誤りなのかな。

 

参考資料

「学問のすヽめ」福沢諭吉著 伊藤正雄校注 講談社学術文庫

「東京10000歩ウォーキング 文学と歴史を巡る 港区 三田 麻布十番コース」籠谷典子偏著 真珠書院

学問のすゝめ (講談社学術文庫)

学問のすゝめ (講談社学術文庫)

 

 

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6月23日慰霊の日。沖縄戦、南洋、無知、解釈。戦争を体験していない30代の手記。

6月23日は沖縄「慰霊の日」 

自分は戦後50年(1995年)を迎えた中学1年生の時、たまたま手にした「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を読んで以来、10代〜20代初じめの頃は、沖縄戦には個人的に色々と調べ、実際に現地に足を運んで独り戦跡巡りをしていた。 

同年代の女学生が沖縄戦の激戦地に放り出され多くの教師や生徒が亡くなり、生き残った人々が戦後その体験を綴った手記は、当時の自分には戦争や平和に対する概念を大きく変えた1冊だった。

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

 

 

はじめて沖縄の戦跡巡りをしたのは、中学3年の3月。

中学を卒業して自分なりの「卒業旅行」として、貯金したお金とスカイメイト(当日空港で空席があれば、半額で飛行機乗れる制度が当時はあった)の会員証とバックパックを持って初めて沖縄へ一人旅に出た。

首里の司令部から、米軍基地とともに発展したいった嘉手納や、コザ。本島北部の離島で激戦地になった伊江島、そして沖縄本島南部と、路線バスとヒッチハイクでまわった宿はユースホステルや安宿。

はじめての沖縄の一人旅は、自分にとって大きな刺激が色々あった。

f:id:odekakeiku:20190623231813j:plain特に激戦地となり戦後多くの慰霊碑や平和祈念公園が整備された、本島南部の沖縄戦跡国定公園界隈。

それから沖縄へは高校時代は、ほぼ毎年いつも1人で通っていた。

しだいに沖縄戦以外にも沖縄の歴史や、芸術芸能、カルチャー、沖縄のポッポミュージカルから沖縄民謡や三線などの楽器、沖縄料理と、沖縄について広く多のものに興味を持ち好きになっていた。

 

沖縄戦を知らない、沖縄出身の大学生の比嘉さん

そんな沖縄好きの少年だった自分は、当時アルバイトをしていたコンビニで、比嘉さんという大学生の青年と親しくなった。

いつも遅刻してくる比嘉さんは、少しいい加減なところもあったけど、独特のユーモアがあり、彼のおかげで自分は楽しいバイトの時間を過ごしていた。

そんなある日、沖縄の話から話題は沖縄戦のことになったが、比嘉さんの言葉にショックを受けた。

「へ〜、沖縄でアメリカとそんな激しい戦争があったんだ・・・」

「俺、小学校低学年の時に、こっち(内地)に転校してきたら、そういうのよく知らないんだよね・・・。あーでも、なんかオバァが話してた気がするなぁ」と。

 

沖縄戦と南洋小唄、そして自分も無知だった

沖縄を3、4度目に訪れた時のまだ18歳くらいだった頃、その時も南部戦跡巡りを1人で周っていて、ある時、散歩をされていた年配のご婦人に道を尋ねた事があった。

「近くへ行きますので、一緒に行きましょう」

とご親切におっしゃっていただき、道すがら色々な話をした。

「沖縄戦の事を個人的に調べてまわっている」などと話していた時に、ふと

「沖縄戦の時は、どちらにいましたか?」と思わず質問していた。

「私、南洋にいたんです。」

若気の至りというか「南洋」と聞いて、当時好きでよく聞いていた嘉手苅林昌のアルバムの中の「南洋小唄」を真っ先に思い出し、固有名詞としての「南洋」を知っているくらいなのに

「あ〜南洋ですね?。では、沖縄戦に遭遇されなかったんですね。」

と、さぞや沖縄戦にあわなくて良かったですね。とも受け取られるような事を言ってしまった。ちなみに当時は南洋小唄の本当の歌詞の意味もよくわかっていなかった。

そのご婦人は、少し怪訝そうな顔をされ、それから何も話されなかった。

 

沖縄しまうたの神髄

沖縄しまうたの神髄

 

 

一口に「南洋」と言ってもサイパン、テニアンなど範囲は広く、南洋諸島の多くは当時、沖縄からの移民が多かった。そして沖縄戦と同じく南洋の島々でも多くの犠牲者を出した。

そんなことを知ったのは、もう少し後のことで、自分も無知であり、後日そんな無知な自分を酷く恥じた。

 

戦争に関する祈念日

6月23日(沖縄戦終結)、3月10(東京大空襲)、8月6日(広島原爆)、8月9日(長崎原爆)、8月15日(終戦記念日)などなど

その他にも多くの地域で、先の戦争の被害を偲ぶ日があり式典が行われる。

いくつかの平和祈念式典には何度か足を運んできたが、最近は形態が変わってきたり参加者も変わってきて、なかには微妙な違和感を感じる式典があるのも事実。

やはり戦争をリアルに体験している世代が徐々にいなくなっていき、戦争を体験していない世代が、「戦争」をそれぞれの感じ方、考え方で解釈する(自分もそう)。

先の戦争が、本当の意味で過去のものになっているな・・・と、30代の子を持つ自分でさえ感じる、今日この頃です。

 

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記 (角川ソフィア文庫)

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鎌倉のあじさい寺「明月院」明月院ブルーの紫陽花とやぐらとウサギ共和国。

北鎌倉から明月院へ

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鎌倉の紫陽花寺と言えば、まず出てくるのが「明月院」

北鎌倉の円覚寺から建長寺へ向かう道の、途中少し山あいに入ったところに参道がある。

 

f:id:odekakeiku:20190607151126j:plain普段は、さほど人気もない場所だけど、紫陽花の時期は別。周囲の数少ないコインパーキグンも紫陽花の季節だけは大幅に値上がりする。

 

明月院

f:id:odekakeiku:20190607151509j:plain明月院といえばよく出てくる、両側に紫陽花の咲く階段。

明月院が紫陽花で、有名になったのは戦後になってからのこと。

嘘か本当かは知らないけど、戦後の物資不足で塀を立てられず、代わりに紫陽花を植えたからともいわれている。

 

f:id:odekakeiku:20190607151219j:plain入り口付近では多種多様の紫陽花が咲き乱れる。

 

 

明月院ブルー

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入り口付近には多種多様の紫陽花があるけど、ほとんどの紫陽花は日本固有種の「姫紫陽花(ひめあじさい)」で統一されている。

鮮やかなブルーで、いつからか「明月院ブルー」と言われるようになった。

 

f:id:odekakeiku:20190607151526j:plainお地蔵さんの首掛けもブルー。

 

f:id:odekakeiku:20190607151528j:plain「花想い地蔵尊」

どんよりとしたスッキリしない日々が続く梅雨だけど、植物はじめ多くの生き物にとっては恵の雨の季節。心穏やかに梅雨を過ごしたいものです。

 

やぐら

f:id:odekakeiku:20190607151516j:plain明月院には、鎌倉でも大きな部類に入るやぐらがあって・・・

 

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紫陽花やぐらがまたいい感じに思えるのは自分だけかな。 

 

枯山水庭園

f:id:odekakeiku:20190607151551j:plain明月院自体は規模は小さいながらも、いろいろと楽しめる。

 

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言問はぬ木すら紫陽花 諸弟等が

練りの村戸に あざむかえけり 

大伴家持 万葉集 巻第四 七七三

紫陽花の移り変わりも思いの外早いものです。 

 

ウサギ共和国

f:id:odekakeiku:20190607151558j:plainちょっとユニークなのが、明月院には、ウサギ共和国もある。

 

f:id:odekakeiku:20190607151601j:plainどういった経緯で紫陽花寺にウサギ共和国ができたのかは、わからないけど、

このミスカッチ感がまたいいですね。

 

f:id:odekakeiku:20190607151609j:plain頼んでおいた御朱印を忘れずに。

 【2018年6月訪】

江戸川を渡る時に見える、とんがり帽子と丸い帽子の取水塔。葛飾区 金町浄水場第2第3取水塔

6月6日は「飲み水の日」 ということで、水に関して1つ

江戸川の、とんがり帽子と丸い帽子の塔

f:id:odekakeiku:20190605162253j:plain東京都と千葉県の都県境にある江戸川を、常磐線や車で水戸街道(国道6号線)の新葛飾橋を渡る時、下流側にとんがり帽子丸い帽子が見える。

自分は小さい頃からここを通る時に、いつもこの2つの塔が気になっていたし、周囲の人々に聞いてもやはり、何気なく気になる存在の塔らしい。

 

f:id:odekakeiku:20190605162301j:plain「男はつらいよ」の寅さんも、柴又のすぐ先にあるこの土手でのシーンでは、背景にこの塔が映っていることが度々ある。

  

こちら葛飾区亀有公園前派出所 85 (ジャンプコミックス)

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「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の両さんも同様に、コミック版の表紙や作品中にもこの塔は描かれているし、アニメ版のテーマソング「葛飾ラプソディー」にこの塔が出てくるのを知っている人も多いと思う。 

トンガリ帽子の取水塔から 帝釈天へと夕日が落ちる 

 アニメこちら葛飾区亀有公園前派出所 3代目オープニングテーマ 葛飾ラプソディ

 

 

 この2つの塔は、金町浄水場の取水塔

f:id:odekakeiku:20190605162321j:plainこの三角屋根と丸い屋根の塔の土手側には、葛飾区、江戸川区、江東区、足立区他へと水を供給する金町浄水場がある。

この2つの塔は、江戸川から水を取り込むための取水塔。

 

トンガリ帽子の第2取水塔

f:id:odekakeiku:20190605162340j:plain水戸街道(国道6号線)新葛飾橋側のトンガリ帽子の取水塔は、第2取水塔

 

f:id:odekakeiku:20190605162353j:plainトンガリ帽子をかぶったようなユニークな形から、自分は小さい頃「ムーミン」に出てくる「スナフキン」に似ているなと思っていたし、スナフキンが江戸川で釣りをしているようだな・・・と、子供心に思っていた。

 

f:id:odekakeiku:20190605162405j:plainこの第2取水塔は、昭和16年(1941年)に作られたレンガ造りの取水塔で、現在も現役で使用されている。

 

丸い帽子の第3取水塔

f:id:odekakeiku:20190605163333j:plainトンガリ帽子に対して、下流側の丸い帽子の取水塔は第3取水塔

こちらは比較的新しく・・・と言っても第一回東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)にできた。

こちらはトンガリ帽子の「スナフキン」に対して、さながら「チャップリン」と言ったところかな。

 

f:id:odekakeiku:20190606064300j:plainちなみに、大正時代の開設時からある第1取水塔はというと、この第3取水塔ができたことに伴い解体され現存していない。

 

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第3取水塔の横に、東京都水道局のボート「金浄丸」と「金水丸」が浮かんでいた。

  

f:id:odekakeiku:20190605162408j:plain三角帽子と丸帽子の2つの取水塔は、柴又の帝釈天、矢切の渡し、寅さんミュージアムなどと共に金町を代表するシンボル的な存在になっている。

 

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旧大野木場小学校 被災校舎。雲仙普賢岳の大火砕流で焼失した学び舎。長崎県南島原市

 

旧大野木場小学校

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1991年(平成3年)6月3日。噴火活動が活発だった雲仙普賢岳から大火砕流が発生。40名を超える死者と行方不明者をだした。

その年の、9月15日にも再び大火砕流が発生する。

瞬く間に大野木場小学校は熱風にさらされ、校舎は全焼した。 

 

f:id:odekakeiku:20190603220835j:plain幸いにもこの時は、避難が徹底され人的被害は出なかった。

そして、全焼した被災校舎は噴火災害の凄まじさを伝えるものとして保存されることになる。

 

焼けただれた校舎

f:id:odekakeiku:20190603220858j:plain現在は、校舎の外側から被災校舎を見学できる。

 

f:id:odekakeiku:20190603220919j:plain大火砕流の熱風で、金属やコンクリート以外のものは焼き尽くされた。

 

f:id:odekakeiku:20190603221540j:plainこの教室は、床の基礎部分が丸出しになっている。天井からは、テレビ置きらしきものが吊るされている。

 

f:id:odekakeiku:20190603221550j:plainここは、理科室だったのだろうか、垂れ下がった蛇口が物哀しい。

 

f:id:odekakeiku:20190603221559j:plain今回、たまたま別用で通りかかり、時間があったため、ふと立ち寄った被災校舎。30分ほど見学させてもらい、撮影をしながら色々と物思いにふけた。

 

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雲仙普賢岳の大火砕流が起きたのが平成3年。自分は小学校3年だったが、雲仙普賢岳という遠い地の固有名詞は毎日のようにニュースに流れ、すぐ覚えた。

そして衝撃だったのが、ニュース映像で見た大火砕流が麓の集落を襲う映像。

多くの人が亡くなり、毎年6月3日は「雲仙普賢岳祈りの日」として記憶されるようになった。

 

f:id:odekakeiku:20190603220930j:plain同じ年の9月15日この校舎が被災した時は、前述したように幸いにも人的被害は出なかった。

しかし、当時、この焼けただれた校舎を見て、通っていた在校生や卒業生はどう思ったのだろう。

自分も当時は小学校3年だっただけに色々と思うところがあり、撮影をしながら思わず涙がこぼれてきた。

噴火、地震、台風、自然災害は、いつやってくるかわからない。

 

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被災校舎の隣に「大野木場観測所」が建てられている。

「地震の発生など危険を感じたら、急いで避難室(地下1階)へ避難してください」とあった。シェルターになっているようだ。

 

f:id:odekakeiku:20190603221616j:plain今は児童がいない校庭の砂場も、鉄棒もただ、あの時を記しているのみ。

 

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校庭の片隅に、青々と葉が茂ったイチョウの木があった。
案内板によると、昭和18年の卒業生が成人式の日に植樹したものらしい。

火砕流で焼けてしまったかのように見えたが、今ではしっかりと多くの葉をつけて復活している。

水分を内部に多く蓄え熱に強いと言われるイチョウの木は、広島でも東京大空襲でも、焼け残り、やがて復活し人々を勇気付けてきた。

人間も経験から学んだ「知識」という名の水分を多く蓄え、危機や困難の度にその「知識」を活用し乗り越え、再び立ち直らなければならないと、イチョウの木から諭されている気がした。

 

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大火砕流に消ゆ―雲仙普賢岳・報道陣20名の死が遺したもの (新風舎文庫)

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