夢見る旅路

江戸東京発今昔物語

歴史探訪、名所、読書録、カメラ、日用品などの雑記帳、備忘録。

神田川と妙正寺川の本当の合流点を探して

今回は神田川と妙正寺川の合流点を探して川さんぽ

西早稲田駅〜高戸橋

出発点は、副都心線の西早稲田駅

明治通り馬場口交差点

西早稲田駅から明治通りを北上します。馬場口交差点あたりまでくると、神田川を目指して下り坂になる。

川の周辺は長い年月をかけて川が侵食し、周囲の土地よりも低くなる。

明治通り戸塚警察署前

明治通りの戸塚警察署前あたりまでくると、谷のようになっているのがわかる。

上ってくる自転車も大変そうだ。

銀杏の紅葉が見えるあたりから、神田川を越えて再び坂となる。

 

新目白通り高戸橋交差点

明治通りと新目白通りの「高戸橋」交差点

路面電車が大きくカーブする

 

一級河川「神田川」

神田川「高戸橋」

今回のお目当て、一級河川「神田川」

英語表記を見ると「Kandagawa R」となっている

隅田川は英語で隅田川リバーとは言わない「Sumida River」隅田リバー

でも神田川は英語だと「Kandagawa River」

 

「高戸橋」は「神田川」と「妙正寺川」の合流点?

高戸橋 神田川 高田馬場分水路

高戸橋から上流方面を見ると、左側に神田川、右側に暗渠、トンネルが2つ見える。

このトンネルが「高田馬場分水路」

「高田馬場分水路」は高田馬場駅の上流で「妙正寺川」の川の水と「神田川」の川の水の一部を分水させ流下させている、水防用に作られた川のバイパス。

大雨などで一気に川の水位が上昇した際、川の水を分水させて洪水を防ぐ目的で作られた。

神田川と高田馬場分水路の合流点

さてここで、疑問が残る

高田馬場分水路は、妙正寺川の水が流れ、ここ「高戸橋」で神田川に合流する。

しかし、高田馬場分水路は神田川の一部も取り入れている。

つまり地図上では、ここ「高戸橋」が神田川と妙正寺川の合流のように見えるが、高田馬場分水路の中で合流している箇所がある、そこが合流点?なのかと。

高戸橋にある「整備イメージ」の案内板

現に、高戸橋にある「整備イメージ」の案内板には、「高田馬場分水路」と表記はあるものの、「妙正寺川」の表記はない。

自治体的にも、ここが神田川と妙正寺川の合流とは言い難いのかもしれない。

 

鮎が遡上する川

神田川と妙正寺川の澄んだ川の流れ

話が少し難しくなったところで、脱線します。

神田川も妙正寺川も通常は湧水から出でる川。平常時は水がとても澄んでいる。

神田川の生物

随分前だが、神田川に鮎が遡上するとニュースになった。

東京の下水も大幅に改善されて神田川、妙正寺川(ついでに言うならその上流にある善福寺川も)の水が清く澄み、鮎が戻ってきた。

人間が意図的に放流した鮎ではないか?との説もあったが、研究の結果、確かに自然のまま遡上が確認された天然の鮎だそうだ。

鮎だけではなく、タモロコ、マハゼ、ドジョウ、清流にしかいないとされる「オイカワ」まで確認されていると言うから驚きだ。

「高田橋」〜「神高橋」

神田川「高田橋」から上流を望む

「高戸橋」は明治通りの橋、「高田橋」は新目白通りの橋

少しややこしい

高田橋から、上流を望む

かぐや姫の「神田川」はこの界隈がモデルになったとされる

現在、神田川の歌碑はもっと上流の大久保通りの「末広橋」にある

神田川の親水テラス

神田川にも、隅田川のような「親水テラス」がある

ちょうど、おばさまが腰を下ろし休まれていた

川はいつの時代も憩いの場所

川辺は、少し休んで物思いに耽るのに絶好の場所だと思う

たとえ都会の川であっても

 

「神高橋」から鉄道高架橋を望む

個人的に、神田川の好きなポイント

鉄道高架橋の先で、神田川の河床は少し「S字」に曲がる

川幅は狭く、大雨が降るとここで川の水が溢れるのではないかと、晴れていても不安になる。

素人が見ても危うい箇所に見える。なぜ、水防の上でもここだけ未整備のままなのかは不明。神田川を管理する東京都と鉄道会社との何らかの兼ね合いがあるのかな、なんて勝手に想像する。

でも、この神田川の「S字」がその未整備の謎も含めて魅力的に感じるのです。

 

神田川ふれあいコーナー

神田川の魚

神高橋のわきの戸塚特別出張所の1Fに神田川の魚を展示している水槽がある

神田川ふれあいコーナー

3Fには神田川ふれあいコーナーがあり、神田川に関するパネル展示があった

こういった川のミニ博物館的なものが神田側にもあるのが少し驚き

夏には、子供向けに隣の親水テラスから神田川に降りて生き物探しもできるらしい

ここに来て、一つ発見があった

手書きで描かれた「記憶地図」なるものに

戦前戦後の記憶地図が描かれており、かつての妙正寺川は「落合橋」上流付近で神田川と合流していたと描かれていた。

 

とりあえず、「落合橋」を目指して、引き続き川さんぽ

 

神高橋〜滝澤橋

東京富士大学の神田川にかかる橋

神高橋から上流は川沿いを歩けるように整備をされておらず行くたびか迂回する

東京富士大学は、神田川の両岸に校舎があり神田川を渡る橋が架けられている

学生や関係者だけが渡ることができる橋

 

神田川ぞいの迂回路

この界隈は学校と民家がひしめき合っている。民家と民家の狭い路地を行く

 

宮田橋公園

宮田橋公園

ここも川沿いだけど、神田川はあまり望めない。

宮田橋公園の雨水貯留・浸透施設

宮田橋公園に「雨水貯留・浸透施設」の古めかしい案内板があった。

最近では、環七の近深くにある「神田川・環状七号線調節池」などが有名だが、神田川沿いの小さな公園にも、昔ながらの小さな洪水対策が施されているようだ。

 

神田川「落合橋」

神田川ふれあいコーナーの記憶地図で描かれていた「落合橋」に到着

 

神田川「落合橋」より上流

落合橋の橋の上から、上流を見ると落差工があった。

「落合橋」と言うように、この辺りが神田川と妙正寺川が落ち合う場所だったかもしれないが、形跡はないように思える。

 

新宿区立戸塚第三小学校横の川跡

 

東京23区凸凹地図を持って川さんぽに出かけているが、この地図によるとこの小学校横の道が川跡だったそうだ。当然、神田川だと思うが、現在面影はない。

 

 

神田川「瀧澤橋」

神田川の瀧澤橋まで来た

 

やはりかつての合流点は確認できない

 

 

神田川沿いのカフェ「BLACK DUCK」

瀧澤橋にカフェがあった。ちょっと、ここでここまでの記事を書こうとひと休み。

続きは、また書きます。

To be continued

 

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都立産業技術高専「科学技術展示館」。東京にも立派な飛行機の博物館がある。南千住

 

 

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かつて「航空高専」と呼ばれえていた、南千住の都立高専。

現在は「産業技術高等専門学校」と名前を変えて同じ場所に建っています。

 

東京にも立派な飛行機の博物館があった

f:id:odekakeiku:20201217224204j:plainこの学校に併設されている「科学技術展示館」が、年に数回ですが、一般にも公開されています。

 

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千葉、芝山の航空科学博物館

埼玉、所沢の航空発祥記念館

神奈川、横浜の三菱みなとみらい技術館などなど

近隣の県には、飛行機に関する博物館があるのに、首都東京には飛行機の博物館がないと思いがちですが、ここ東京にも立派な飛行機の博物館があります。

 

東洋航空工業TT-10

f:id:odekakeiku:20201217224214j:plainまず入って、真っ先に出迎えてくれるのは、1952年に設立された東洋航空工業のTT-10。

1952年、昭和27年はサンフランシスコ講和条約が発効され、日本の航空機開発が解禁された年でもありました。

わずか5ヶ月で設計、製作された「TTー10」2機のうちの1機が、ここにあります。

(重要航空遺産)

 

富士重工エアロスバル

f:id:odekakeiku:20201217224219j:plain富士重工の自動車ブランド「スバル」から名前をとった、エアロスバル。

299機製造され、うち170機は輸出されています。

 

f:id:odekakeiku:20201217224224j:plainサワルナ

 

f:id:odekakeiku:20201217224227j:plainフムナ

よく飛行機の主翼付近に座ると見える禁止項目の文字も、日本語でしかもカタカナで描かれていると、ちょっとユーモアに感じます。

漢字で書いた方が、より厳格に禁止しているように感じると思うのですが。

 

ライトR-3350

f:id:odekakeiku:20201217224230j:plain高度10,000mの飛行を可能にしたレシプロエンジン。

太平洋戦争中ではB-29爆撃機に、戦後はDC-7などにも採用されました。

 

 富士ベル204B

f:id:odekakeiku:20201217224237j:plainアメリカのベル社のヘリコプターを富士重工がライセンス生産したもの。

このベルヒューイは西側諸国で10,000機以上が生産され、軍用、警察、民間など幅広く使用されました。

 

フレッチャーFD-25B

f:id:odekakeiku:20201217224236j:plainアメリカのフレッチャー社から東洋航空工業が製造権を買い取り、国内で生産したもの。

 

f:id:odekakeiku:20201217224241j:plain上には、FD-25Aが吊り下げ展示されていました。

2機とも、重要航空遺産。

 

ここ「科学技術展示館」は、主に飛行機にまつわる記念日を中心に年に数回のみ一般に公開されています。

高専の中に、こんなに充実した施設があるとは思ってもいませんでした!

もともと飛行機好き少年だったので、大変楽しめましたよ。

そういえば、中学の時に、ここの航空高専を志望していたこともあったような記憶が・・・w

 

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ジョンレノン生誕80年、そして没後40年。ジョンとヨーコのダブルファンタジーを見に行く。六本木

1980年12月8日、ニューヨーク、ダコタハウス

ジョンレノンが凶弾に倒れて40年。

 そして、今年は、ジョンレノン生誕80年の年でもある。


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ジョンレノンの故郷、リバプールで開催され大反響を呼んだ展覧会が、東京でも開催されると聞いて「ジョン・レノン忌」の12月8日に出かけてきた。

会期は、ジョンレノンの生誕80年を迎えた2020年10月9日(金)から、2021年1月11日(月)まで。 

会期が延長され、オノヨーコさんの88回目の誕生日である2月18日までになりました。 

 

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この展覧会は、ジョン・レノンと、オノ・ヨーコの二人の作品の展覧会。

改めるべくもなく、オノヨーコはジョンレノンの2番目の妻となった人。

でも、ジョンレノン夫人という感じは全くしない。

ジョンレノンがいて、オノヨーコがいる。

オノヨーコがいて、ジョンレノンがいる。

夫婦だけど、アーティストとしての良きパートナーであり、そして何よりも理解者だった。

 

f:id:odekakeiku:20201208231300j:plainジョンレノンのトレンドマークにもなった丸縁のメガネ

ヨーコが愛用していたサングラスと、対峙して見つめあっているかのよう。

この丸縁のメガネは、英国国民保健サービスのもので、実際はチープなもの。

ジョンもビートルズ時代は、メガネをかけるのを嫌がっていたようだけど、後にこのタイプのメガネを愛用してかけていた。

 

f:id:odekakeiku:20201208231313j:plain平和活動パフォーマンス「ベットイン」

ベトナム戦争時代、ハネムーンをマスコミが取り上げる際に、平和の宣伝ために利用した前代未聞のパフォーマンス。

 

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以前、何かの動画で見たけど、戦う相手がヒトラーだったら?というような問いにも、「ヒトラーにも愛を」とヨーコが言い放ったシーンが個人的に印象的だった。

こんなことやってのけるのは、過去にも現在でも、そして後の世でも、恐らくこの二人しかいない。

 

f:id:odekakeiku:20201208231346j:plainジョンが着ていた服も展示されている。

余計な解釈なしに、ただただカッコいい。

 

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ジョンの軍服姿。

 反戦の証として、あえて着用していたもの。

 

f:id:odekakeiku:20201208231413j:plainジョンレノンのグリーンカード

時はベトナム戦争真っ只中、「反戦」、「平和」を訴えるジョンレノンに、アメリカ政府が目を付け、日夜FBIの監視下に置いた。

一時は国外退去処分が出るなど当局の厳しい処置もあったが、多くの理解者の支援もあり、後に最高裁判決で、永住権、グリーンカードを習得することできた。

 

f:id:odekakeiku:20201209081557j:plain息子のショーンを抱っこするのに使った、抱っこひも

ヨーコとの子「ショーン」が生まれてからは、ビジネスはヨーコがして、ジョンが主夫となった。

ジョンは、時代を先駆けたイクメンパパだったのだ。

 

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この絵画は、よくショーンとジョンが海岸に遊びに行くと言って二人だけで出かけ、実は、こっそりヨーコに内緒で、画家に描いてもらっていたという肖像画。

これも何かの動画で見たけど、大きな包み紙に包装された何かをジョンとショーンが持って帰ってきて、ヨーコが開けて、二人の肖像画だったことにえらく驚き、喜んだとのこと。ジョンは、そういったサプライズが好きだったらしい。

 

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 日本展での特別展示として、ジョンが日本語を学ぶために、綴ったスケッチブック。

曜日だけでなく、他にも家族、味、などジョンのイラストと共に綴られているのが興味深かった。

 

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大きなスクリーンでは、「imagine」のプロモーションビデオ。

この先の展示では、あの日がやってくる。 

 

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銃規制を訴える広告。

1980年12月8日、ジョンレノンが凶弾に倒れてたから、143万6000人以上が、アメリカ(だけ)で銃によって命を絶たれているらしい。

この他、ヨーコとまだ幼かったショーンによる、事件直後の共同声明などは、涙なしには見られなかった。

 

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グッズコーナーも充実してました。 

命日にもかかわらず、待つことなく、人も少なく見ることができた。

新型コロナ感染の影響なのか、ジョンレノンを生で見てきた世代の今では高齢者と呼ばれる客層は少なく、若い世代が多かった。

じっくり見て、3時間ほど滞在。このミュージアムはこの企画展のみで、常設展示はない。

長居をしてしまったなーと思ったけど、グッズ売り場にいた人の中には、ちょうど同じくらいに入った人もちらほらいたので、割とみなさん、同様にじっくり見ていたのかもしれない。

 

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命日の12月8日から3日間は、献花台も設置されている。

もし、あの事件がなかったら、今も、ジョンが健在だったら・・・

どれほど多くのセンセーショナルな作品が、世に産まれてきたのだろう?

没後40年たって(当時、自分はまだ生まれていなかったけど)、早すぎる若き天才アーティストの死に、ただただ残念に改めて思った展覧会だった。

 

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そういえば、このミュージアムに続く道の途中で、アスファルトの間から、誰かに踏まれたのか、茎の折れかかった小さな花が咲いているのを見つけた。


f:id:odekakeiku:20201208231602j:plain多くのちゃんとした花束と一緒に、その名前も知らないアスファルトに咲く可憐なお花もお供えしてきた。

 

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 ジョンとヨーコの願った平和への想いを込めた作品が、いつの世の人々に受け入れられ歌い続けられ、いつか戦争のない争いのない世界がやってきますように。

 

You may say I’m a dreamer

But I’m not the only one

I hope some day you’ll join us

And the world will be as one   

   Imagine John Lennon

  

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酉の市好きが紹介する!都内「酉の市」案内。浅草、新宿、足立区花畑、府中、雑司ヶ谷、四谷

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11月といえば毎年恒例の風物詩「酉の市」!

11月の「酉の日」に開催される縁起物の熊手を売る露店が立ち並びます。

酉の日は、12日に1回巡ってやってきて、令和2年2020年は、

11月2日に「一の酉」、14日に「二の酉」、26日に「三の酉」がやってきます。

 

今年は、新型コロナウイルス感染拡大もあり、なかなか例年のように「酉の市」へ気軽に行けるような雰囲気ではないので、昨年までに行った、東京近郊の「酉の市」を各神社(仏閣)ごとに、紹介していきます!

自分は、以前から「酉の市」の雰囲気が好きで、都内各所の「酉の市」をまわってきました。

拙い写真ですが、少しでも「酉の市」に行った気分になれたら嬉しいです。

 

なお今年(2020年)は、各「酉の市」ともに例年とは異なり規模縮小や一部では入場制限、事前の入場申込が必要なところもあります。

もし実際にお出かけされる方は、ご注意ください。

 

 

「酉の市」と言ったらここ! 浅草 鷲神社と長国寺

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まずは、「酉の市」といえば、真っ先に上がるのがここ!

浅草の鷲神社と長国寺の「酉の市」です。

此年三の酉まで有りて中一日はつぶれしかど前後の上天氣に大鳥神社の賑ひすさまじく 「たけくらべ」

と明治期に樋口一葉が、「たけくらべ」にも残しているほど昔から賑わっている「酉の市」。江戸時代から、数々の浮世絵にも描かれてきました。

 

 江戸の昔から「吉原のおとりさま」と言われるだけあって、「浅草」と言いますが、場所は吉原近く浅草の奥に位置する台東区千束。

最寄駅は東京メトロ日比谷線の「入谷」や「三ノ輪」が方が近いです。

 

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 鷲神社に入るとまずは、両脇から御祓をしていただけます。

 

f:id:odekakeiku:20201113060449j:plain参拝をするだけでも、長蛇の列。。。提灯が綺麗です。

 

f:id:odekakeiku:20201113060517j:plain「酉の市」の規模は都内随一。

 

f:id:odekakeiku:20201113060513j:plain多くの露店が所狭しと並びます。

 

f:id:odekakeiku:20201113061111j:plain露店も多く、中には小さな熊手や宝船などの小物も販売している露店もあるので「酉の市」初心者でも手が出しやすいかも。

 

f:id:odekakeiku:20201113060728j:plain「酉の寺」長国寺もすぐ隣。

 

f:id:odekakeiku:20201113060731j:plain隣接しているので、熊手を見て歩いていると、いつの間にか長国寺、鷲神社を行き来してることに気付きます。

 

f:id:odekakeiku:20201113060735j:plainちょっとした「熊手ミュージアム」の展示もありました。

 

f:id:odekakeiku:20201113060738j:plain江戸時代や明治時代の昔の熊手(今より地味w)も展示しています。

 

f:id:odekakeiku:20201113060748j:plain酉の市の日は街中がお祭り騒ぎのようで、近くでは露店が多く立ち並んでいました。

 

規模&アクセスともに文句なし!  新宿 花園神社

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続いて、浅草に続いて、東京の「酉の市」といえばここ!

西の新宿、花園神社の酉の市です。

 

新宿歌舞伎町の目と鼻の先、新宿三丁目や伊勢丹などからも近く、アクセスの良さもあって。例年多くの人出で賑わいます。

 

f:id:odekakeiku:20201113063549j:plain新宿という土地柄もあってか老若男女様々です。

 

f:id:odekakeiku:20201113063555j:plain規模も浅草に負けていません。露店が所狭しと立ち並んでいます。

 

f:id:odekakeiku:20201113063609j:plainミニ熊手千円。

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個人的な見解ですが、新宿の方が小さな熊手や縁起物には値段が付いているところが多いような気がします。

新宿は、「酉の市」目的ではなく、なんとなく立ち寄る人が多いからでしょうか。

 

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こちらも、飲食の露店が多く立ち並びます。


酉の市の元祖! 足立区花畑 鷲神社

f:id:odekakeiku:20201113215849j:plain東京北部の足立区花畑の地に、「酉の市」の元祖。花畑「鷲神社」があります。

元々は、江戸時代、ここで熊手を売っていたのが「酉の市」の始まりで、江戸市中から、馬や徒歩で参拝に来ていたそうです。

 

f:id:odekakeiku:20201113215854j:plain参道両脇に露店が並びます。

 

f:id:odekakeiku:20201113215857j:plain社殿の前に、熊手を売る露店が立ち並びます。

 

f:id:odekakeiku:20201113215902j:plain規模としては小さめですが、酉の市の元祖だけあって、あじわいがある気がします。

 

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都心からもあまりアクセスがよくないせいもあってか、人出も少なめ。

ゆっくりと静かに、元祖「酉の市」の雰囲気が楽しめます。

多摩地域最大の「酉の市」 府中大国魂神社

f:id:odekakeiku:20201113224912j:plain「酉の市」は都心の旧江戸地域に限ったことではなく、武蔵國総社の府中大国魂神社でも大きく開催しています。

 

f:id:odekakeiku:20201113224921j:plain提灯が何重にも飾られています。きっと夜は綺麗なんでしょうね。

 

f:id:odekakeiku:20201113224927j:plain広々とした境内に、開放的に熊手を売る露店が立ち並んでいます。

 

f:id:odekakeiku:20201113224933j:plain境内の中には「鷲神社」があります。

 

f:id:odekakeiku:20201113231014j:plainここは、社殿でも熊手をいただけます。

 

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1,000円の熊手と、3,000円の熊手(大)

その下の、かんざし守は500円也。

 

都電で行く「酉の市」特別御朱印と純金小判が当たる! 雑司ヶ谷鷲神社

f:id:odekakeiku:20201113232638j:plainここは都電で行ける「酉の市」です。

池袋から近く、閑静な住宅街の中にある雑司ヶ谷鷲神社。

 

f:id:odekakeiku:20201113232648j:plain規模は小規模ですが、毎年ここを目当てに遠方から来る人もいるとか。

 

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小規模な神社に、人が行列を作っています。

 

f:id:odekakeiku:20201113232715j:plainこちらの鷲神社では、毎年、酉の市特別御朱印をおわかちしていただけます。

 

f:id:odekakeiku:20201113232726j:plainそしてもう1つ人気なのが、「福包熊手守」をいただくと、抽選で・・・

 

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純金の小判(1枚)と、純銀小判(40枚)が抽選で当たるかも!

こちらは、規模は小さくとも楽しめる「酉の市」です。

 

アニメ映画「君の名は」の聖地 四谷須賀神社

f:id:odekakeiku:20201113234641j:plainここは、新海誠監督のアニメ映画「君の名は」で一躍有名になった、四谷須賀神社。

ここにも鷲神社があり「酉の市」が開催されます。

 

f:id:odekakeiku:20201113234652j:plainこちらも規模としては小さめですが

 

f:id:odekakeiku:20201113234701j:plain「酉の市」名物の「切山椒」や

f:id:odekakeiku:20201113234714j:plainかんざし熊手、そして、こちらでは日用品などが当たるクジを引かせていただけます。

 

f:id:odekakeiku:20201113234720j:plain四谷須賀神社といえば、あの階段!

 

f:id:odekakeiku:20201113234729j:plain「酉の市」を見に行きがてら、聖地巡礼も楽しめます!

 

まだまだ都内には多くの「酉の市」が開催されますが、少し長くなったので、この辺までで。(そのうち追記するかも)。

 

なお、2020年は新型コロナ感染拡大のため一部縮小や、入場制限、入場に事前申込制をとってるところもあるようです。ご注意ください。
 

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日光街道「幸手宿」を歩く。幸手観音、幸宮神社、聖福寺

今回は、埼玉県の「幸手」へ。

 

幸手は、日本橋から六つ目の宿場町

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幸手は、日光街道(奥州街道)の、お江戸日本橋から数えて六つ目の宿場町として栄えた町。現在は、北千住から東武スカイツリーラインの急行に乗って45分ほど。

ちなみに千住(北千住)は、日本橋から数えて一つ目の宿場町なので

(日本橋→)千住宿→草加宿→越谷宿→粕壁宿(現:春日部)→杉戸宿→幸手宿

と、45分で四つの宿場町を通ってきたことになりますね。

そう考えると文明の力で早くはなったけれど、はるばる遠くまで来た感があります。。

 

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ラジオ等でよく聞く埼玉県の「さって」を「幸手」と漢字で書くと知った時、ちょっとした感動を覚えた記憶があります。

そもそも、「さって」って地名、ただものではないような気がしてなりません。

想像するに、アイヌ語から来ているのでは?なんて思ったりも・・・

「さっ」で、始まる地名なんて「札幌」くらいしか思い浮かばないですしね。

以前、浅草の地名のところで、北関東にはまだアイヌ語の地名が残るところがあると書きましたが

 

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この「幸手」も古代アイヌ語説があってもいいような?と勝手に妄想します。

「幸手」の地名については、また後述します。

 

幸手駅

f:id:odekakeiku:20201008200006j:plain幸手に降り立って、一番に感じたのは、近代的な立派な駅舎!!

この駅界隈は、かつて幸手城があったところとされているそうですが、特に遺跡等は、なく見たところ案内板もないようでした。

 

f:id:odekakeiku:20201008200154j:plainですが、駅前が思っていた以上に寂しげ・・・

お地蔵様がおられます。

今回は、春の桜と秋の彼岸花で有名な「権現堂堤」まで歩いて往復する予定で、特に幸手については調べてきていません。

ともあれ行き当たりばったりの散策開始。

 

満福寺 幸手観音

f:id:odekakeiku:20201008200204j:plainしばらく歩いていると「安産子育 幸手観音 満福寺」という看板がありました。

 

f:id:odekakeiku:20201008200218j:plain気になったので、ちょこっと、お参りをさせていただきます。

 

f:id:odekakeiku:20201008200249j:plain入って左側に、延命地蔵尊。

うん?何か扉の前に置いてありますねー。

 

f:id:odekakeiku:20201008200224j:plain近づいて見てみると、お米かな?

近くの農家さんが、収穫されたばかりの新米をお供えしているのでしょうか?

 

f:id:odekakeiku:20201008200309j:plain南無地蔵菩薩。。。

 

f:id:odekakeiku:20201008201346j:plain本堂には、彼岸花が咲いておりました。

 

f:id:odekakeiku:20201008200323j:plainお寺と彼岸花は、やはり合います。

 

f:id:odekakeiku:20201008200342j:plainおや?何か、動きましたよ。

と、見てみたら、猫さん。

寺猫さんかな?お邪魔しました。

 

f:id:odekakeiku:20201008200401j:plain少し残念なのは、肝心の案内板の文字が薄くて読めません。。

 

f:id:odekakeiku:20201008223925j:plain帰ってから、画像編集ソフトで、文字が読めるところまでレタッチしてみました。

文中に「一色氏発願寺」と見えます。一色氏は、この辺りを治めていた幸手一色氏のこと。

戦国大名で丹後を治めていた一色氏と元は同じ、足利氏の一門です。

丹後の一色氏は滅びてしまいますが、幸手一色氏は関東に入国してきた徳川家康に仕え旗本として取り立てられます。

 

幸手の街

さて、権現堂堤へと向かいます。

f:id:odekakeiku:20201008230159j:plainお豆腐屋さん。幸手は街の規模にしてはお豆腐屋さんが多いような。

 

f:id:odekakeiku:20201008230203j:plain「季節限定 黒ごま寄せとうふ180円」気になります。

少し覗いてみましたが、ここで食べていけるものなのか、持ち帰りもできないし・・・少し迷った挙句、今回は諦めました。次回に。

 

f:id:odekakeiku:20201008230206j:plain古き町並みにはお馴染み「ハリウッド化粧品」の看板の残る化粧品店と、隣は美容室かな?。こういった懐かしき建物を見るだけで、来てよかったと思えてきます。

 

幸宮神社

f:id:odekakeiku:20201008230210j:plain幸宮神社なるお社を発見。お参りさせていただきます。

 

f:id:odekakeiku:20201008230218j:plain神社の境内にある遊具。ここで遊ぶ子供たちが神様に見守られているような。

公園に遊具は当たり前だけど、最近あまり見かけなくなった神社や仏閣に遊具って素敵です。

 

f:id:odekakeiku:20201008230221j:plain奥の本殿をチラッと見ると、んんん???

 

f:id:odekakeiku:20201013224102j:plain

これまた、見事な彫刻です。塀の隙間から覗かせていただきました。

 

f:id:odekakeiku:20201013224112j:plainこちらは武将が掘られています。一体なんの故事を彫ったものなんでしょう。

 

f:id:odekakeiku:20201013224124j:plainこっちは、中国風の彫り物。一体なんの故事に由来するものなのか、教養がないのが残念。

 

f:id:odekakeiku:20201013224128j:plain

竜の彫り物も見事なもの。大変、良いものを拝ませていただきました。

 

聖福寺

f:id:odekakeiku:20201013232056j:plainしばらく歩いていると、聖福寺というお寺を通りました。

一瞬通り過ぎましたが、奥に見えた門が気になり、少し引き返しお参りさせていただくことに。

 

f:id:odekakeiku:20201013232104j:plain

入ってすぐのところに

「君の主人は君自身だ 心をととのえていい主人を育てよう 仏陀」の偈が・・・

これはピンと来ました。「法句経」ダンマパダですね。有名な偈です。

幼稚園のポスターもあるので、このお寺は幼稚園も併設されているのでしょう。

園児にもわかりやすく偈が説かれています。保護者の方の目にも止まるでしょう。

素敵です。近くだったら毎月、ここだけでも見に来たいくらいです。

 

ついでに、東大のインド哲学仏教学者であった中村元先生訳も載せておきます。

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか?

自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

(第12章 自己 160)

岩波文庫「ブッダの真理のことば感興のことば」より

 

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)

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  • 発売日: 1978/01/16
  • メディア: 文庫
 

 

 

f:id:odekakeiku:20201013232116j:plainすぐ隣には、芭蕉と曽良の句碑もありました。

「幸手を行ば栗橋の関 芭」

「松杉をはさみ揃ゆる寺の門 良」

石碑の解説によると、奥の細道から帰って4年後に作った句だとか。

 

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さて、最初に通りかかった時に気になった、こちらの門、やはりただものではないようで、「勅使門」と呼ばれ、日光参詣する将軍や例幣使のみが通ることを許された門だとか。

訪れた時は、併設する幼稚園の園児たちが遊んでい他ので、外から少し拝見させていただきました。

 

幸手、、思いの外、個人的には見所が多く、長文になってしまったので、続きは、次回に続くか、時間ある時に、ゆるきここに追記します。

 

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人間魚雷「回天」の島。大津島を訪ねて。山口県周南市

 

人間魚雷「回天」。

その存在を初めて知ったのは、小学校の時に見たテレビ番組だったと思う。

魚雷に乗り込み敵艦に体当たりするという無謀な戦法に、小学生の自分は凄まじい衝撃を感じた。

戦闘機で突っ込む神風特攻隊の方がまだマシだ。

そんな事を思ったりした。

 

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以来30年あまり、一度は訪れたいと思い続けた山口県大津島の回天訓練基地へ、数年前に訪れた。これはその時の記録です。

当時、個人的に「回天」の資料を読み込んでいたのもあってか、回天の地をめぐって帰ってきても、誰にも話す気にもなれず、ブログにあげるのも正直重く、、、気づけば数年が経ちました。

自分は30代ですが、先日ふと話した人間魚雷「回天」について、同世代の人の中には「回天」について全く知らない人が意外と多くいて、少しそのことにも衝撃を受けたので、戦後75年目の終戦の日に、少し上げてみようと思い立ちました。

 

回天の島 大津島へ

f:id:odekakeiku:20200815071448j:plain始発の羽田発広島行きの飛行機へ乗り込み、広島空港から広島駅までバス、広島駅から新幹線で徳山へ。

ANAの羽田→岩国便を利用しなかったのは、早朝の便が当時はまだ無かったからだったかな。

 

f:id:odekakeiku:20200815071452j:plain新幹線内から徳山の工業地帯。社会でやった山口県の宇部から岡山にかけて広がる、まさに「瀬戸内工業地域」。この工業地域の発展は、多くは戦後になってからのもの。

 

f:id:odekakeiku:20200815071523j:plain広島から新幹線こだまで30分弱「徳山」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20200815071459j:plain駅構内には、徳山の主要産業である工業製品が陳列されていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815095530j:plain

駅のお土産コーナーの「回天」グッズ。

訪れる前に「回天」に関する資料を読み込んできたせいか、こいうのに違和感を当時は感じていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071504j:plain大津島行きのフェリーは、徳山駅から歩いてすぐ。

フェリー乗り場には、平成18年公開の映画「出口のない海」の撮影で使われた実物大「回天」模型が置かれていました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071540j:plain徳山→馬島まで、当時710円(2020年現在720円)。徳山10時40分発。

 

f:id:odekakeiku:20200815071543j:plain徳山を出て40分ほどの船旅で「馬島」に到着。

 

f:id:odekakeiku:20200815071549j:plain港近くに、「回天供養」の観音様が立っておられました。

 

f:id:odekakeiku:20200815071557j:plain回天記念館までは、なだらかな坂道を登って行きます。

初めてきた場所なのに、なんとなく懐かしいような感じ。

 

回天記念館

f:id:odekakeiku:20200815071628j:plain港から約10分ほどで、回天記念館に到着。回天で亡くなった搭乗員の名前と出身地が刻まれた石碑が、記念館入口まで並びます。

 

 

f:id:odekakeiku:20200815071729j:plain回天を創案し、自らも出撃して戦死した仁科関夫少佐の遺品。

 

f:id:odekakeiku:20200815071749j:plain回天上部ハッチ。戦後、海底から引き上げられたものだそうです。見ていて、ただただ重い。。。

 

f:id:odekakeiku:20200815071703j:plain再現された、回天内部。人一人座れるのがやっと。当時としてはハイテク兵器だが、あまりにも簡素。これが、自分の棺になると思って乗り込む覚悟は如何に。

 

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「浮きつ島鼓海を訪ふ」 森繁久弥

天を回せよ

今は嗚呼

鼓海の波は静かなり

その勲しの

あとや 哀し

大津島に鎮もれる

魂々よ

静かに思ふ

人生に無駄なものが

あらふか

眠れ友よ いかにも

碧き 海に

平成五年五月二十二日作

 

発射試験場跡へ通じるトンネル

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現存する建物でモニュメント的な存在になっている、回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)は、トンネルを抜けた先にある。

 

f:id:odekakeiku:20200815071902j:plain当時はレールが敷かれており、トロッコを使いトンネルを抜けて回天は運ばれていた。入り口の幅は3.5m。高さ4m。長さ247m。

 

f:id:odekakeiku:20200815071910j:plain搭乗員もまた、このトンネルを通って訓練場へ向かったかと思うと感慨深い。

 

f:id:odekakeiku:20200815071853j:plainトンネルの途中に、海へと開いた横道。空襲時指揮所(通信所)と説明があった。

回天搭乗員の全体の戦死者は106名だが、離島のこの基地への空襲もあり、搭乗員の中には空襲時に被弾して亡くなった搭乗員も2名含まれている。

 

f:id:odekakeiku:20200815071852j:plain途中から、トンネルの横幅が広くなっている。この辺りは、複線で広くしていたようです。

 

f:id:odekakeiku:20200815071909j:plain当時を回想する大きな写真の展示。

実際に使用されていたトンネルの中で解説を読むのも、どこか重く感じられた。

 

f:id:odekakeiku:20200815071931j:plain回天の乗組員たちは、どんな思いでこのトンネルを抜けて、訓練に向かったのだろう。

 

 

回天訓練基地跡(酸素魚雷発射試験場跡)

f:id:odekakeiku:20200815092133j:plain現在、回天訓練基地跡としてシンボル的な存在になっているこの場所は、もともとは昭和14年(1939年)に建設された「九三式酸素魚雷」の発射試験場だった。

 

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魚雷は、雷跡を引く。当時の魚雷は、発射されたら方向転換はできないので、撃たれた側は雷跡を見ながら魚雷を避けることができた。

しかし、日本海軍の開発した酸素魚雷は、排気ガスが炭酸ガスのため海水によく溶けて雷跡をほぼ残さない。魚雷が発射されても、どこを通ってくるかわかりにくいため避けることが難しくなる。

さらに酸素式魚雷は、ステレス性が高いだけでなく、威力が強く航続距離も長かった。

 

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酸素魚雷は特殊な構造のため開発は困難を極めたが、日本海軍がいち早く実用化に漕ぎ着けた。

その酸素式魚雷の発射試験場が、ここ大津島だったのである。

 

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昭和19年9月5日からは、この施設を利用して、回天の発射訓練が行われるようになった。その回転も「九三式酸素魚雷」をベースに改良し人が乗れるようにしたもの。

日本海軍が世界に先駆けて開発した、酸素魚雷に、人間が乗り込む必死必殺の兵器になる。

そこまで戦局が悪化し「回天」という人道的に問題のある兵器を作らねばならない段階にまで至っていたことなど、改めてこの地を踏んで、いろいろな思いが浮かんできた。

 

 

特攻の島1

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  • 作者:佐藤 秀峰
  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Kindle版
 

 

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柿田川湧水群。日本で最も短い一級河川は、家康も晩年を過ごしたいと思っていた富士山からの雪解け水が湧き出る城跡。

今日3月22日は「世界水の日」

地球的視点から、水の大切さと貴重さを世界中の人々が共に見つめ直す日にしようと国連が制定。

そこで今回は以前よく訪れていた静岡県清水町にある

名水百選「柿田川湧水群」について。

新型コロナが流行っているので「霊峰富士から湧き出る神聖な水で流す」との願いも込め、新型コロナの1日も早い収束(終息)を願いつつ

 

柿田川湧水群

f:id:odekakeiku:20200322221028j:plain以前、よく仕事で訪れていた静岡県清水町。時間調整などで時間ができた時に、必ず訪れていたのが「柿田川公園」です。

疲れていても、どんなに嫌なことが続いても、ここに来るとなぜか元気が湧き出てくるような不思議な公園でした。。。

 

f:id:odekakeiku:20200322221039j:plainここは、「柿田川湧水群」として名水百選にも選ばれ、霊峰富士をはじめ周辺の山々に降った雨水や雪解け水などが、湧き出る場所。

交通量の多い、国道1号線に隣接しているとは到底想像ができないほどの自然と、至るところでこんこんと湧き出る水のせいか、公園全体に神聖な雰囲気が漂います。

 

第1展望台

f:id:odekakeiku:20200322221116j:plain富士山周辺に降った雨や雪が、ここ柿田川湧水群に湧き出るまでの期間は、およそ26年〜28年の歳月がかかっているとか(国土交通省のトリチウム濃度分析による)。

12月には、遡上してきた鮎を見ることもできるそうです。

 

第2展望台

f:id:odekakeiku:20200322221120j:plain以前この場所には紡績工場があり、その井戸として利用していたところからも、今でもこんこんと水が湧き出ています。

濃いコバルトブルーの色が印象的です。

 

f:id:odekakeiku:20200322221135j:plain

時間の許す限り、いつまでも滞在したい、なんとも言えない心地の良い公園です。

 

貴船神社・泉頭城

f:id:odekakeiku:20200322221122j:plain

縁結びの神様と知られる京都に本宮のある「貴船神社」。

祭神は、水神の高龗神(たかおかみのかみ)。

この神社のあたりは、戦国時代に北条氏が築城した「泉頭城(いづみかしらじょう)」の「西の丸」にあたるとのこと。

泉頭城は東西400m、南北500mほどの戦国期の城郭で、伊豆を守るための国境の城としての役目を果たしていたと考えられています。

豊臣秀吉による小田原征伐の時に廃城。

元和元年(1615年)徳川家康は、泉頭の城郭が大変気に入り、晩年を過ごす場所として隠居御殿の城を造営するように土井利勝、本多正純に命じますが、翌年、家康が没したために取りやめになります。

 

f:id:odekakeiku:20200322221136j:plain大正の頃までは、その泉頭城の城郭もよく残っていたそうです。

その後、この地は工場地となり、一時期は排水によって柿田川が汚染されることもあったそうですが、自然環境保全運動の高まりもあり工場が移転され、現在のような憩いの場所に戻ったそうです。

 

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また、近くに行くことがあったら、是非にも立ち寄りたい場所です。

画像は、2013年4月の新緑の頃に訪れた時のものです。

今現在とは異なっている場合があります。

パナソニック「LUMIX DMC-GF3」で撮影。 

 

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